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漢点字の散歩(50)
                    
岡田 健嗣

    カナ文字は仮名文字(2)

【雄略天皇】

   籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
   こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いへのらせ なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそをれ われこそば のらめ いへをもなをも

【舒明天皇】

   大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
   やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには

【磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)】
八五
   君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
   きみがゆき けながくなりぬ やまたづね むかへかゆかむ まちにかまたむ

八六
   かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを
   かくばかり こひつつあらずは たかやまの いはねしまきて しなましものを

八七
   ありつつも 君をば待たむ うち靡く 我が黒髪に 霜の置くまでに
   ありつつも きみをばまたむ うちなびく わがくろかみに しものおくまでに

八八
   秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ
   あきのたの ほのうへにきらふ あさがすみ いつへのかたに あがこひやまむ

【聖徳太子】
四一五
   家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ
   いへならば いもがてまかむ くさまくら たびにこやせる このたびとあはれ

 右は、前号(一一二号)で取り上げました「万葉集」にある御歌です。「万葉集」では、巻、あるいは部立の先頭にその巻、あるいは部立に収録される御歌の先頭にふさわしい御歌が置かれます。どのような御歌がふさわしいと考えられているかと言えば、巻一の先頭に雄略天皇、二番目に舒明天皇がおられて、わが国の開闢以来の、一つの時代を担われた天皇のお名前がお二人続きます。雄略天皇は、五世紀の後半にわが国を治められた天皇で、記紀では勇壮な天皇として伝えられています。埼玉県の稲荷山古墳の出土品である鉄剣に、「幼武」の文字が刻まれており、辛亥の年(四七一年)の文字が見えます。雄略天皇の力が、現在の埼玉県にまで及んでいたという証左です。 舒明天皇は、「万葉集」の時代、天武・持統両天皇とその兄の天智天皇の御父君で、天智皇統・天武皇統の祖に当たられる天皇です。このお二人の御歌を「万葉集」の巻頭に置くことで、この集が何を目指しているかが分かると解されます。
 その次の磐姫皇后は、仁徳天皇の皇后です。仁徳天皇は五世紀前半に、わが国を治められた天皇と考えられています。記紀では、神話時代を抜けて、いよいよ大和朝廷が成立しようとする時代を担った天皇と位置づけられます。万葉の時代の朝廷はその直系で、その基礎を築いた天皇です。その后の御歌四首が、巻第一の「相聞」の冒頭に掲げられています。
 最後は聖徳太子です。太子は推古天皇の弟君で、政務を一手に引き受けておられました。仏教に深く帰依し、慈悲深いお方であったと伝えられます。太子の御歌は、巻第三の「挽歌」の冒頭に置かれています。(太子の御歌の次、四一六番の御歌が、悲劇の皇子・大津皇子の辞世の御歌です。「百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」 この御歌は、処刑される前に、磐余の池のほとりで詠まれたと伝えられます。)
 この御四方の年代を古い順に並べますと、磐姫皇后・雄略天皇・聖徳太子・舒明天皇となります。その間は約二〇〇年です。そしてこの御四方の御歌は、雄略天皇の御歌が最も古いと見られ、天皇ご自身、あるいは万葉時代のような宮廷歌人によって詠われたのではなく、伝統的な歌謡、恐らく宮廷で催される婚儀の席で歌われた、舞踊を伴った祝歌ではなかろうかと言われます。当時(現代でも)最も目出度い儀礼と言えば、婚姻とそれに続く世継ぎの誕生です。このような祝歌を集の冒頭に置くのも、また雄略天皇の御製として掲げるのも、『萬葉集』の編者の意図が、舒明・天武・持統という皇統の祝福にあると解してよいのかもしれません。
 舒明天皇の御歌も、古い形を残しているように見られます。三番以降に収録されている御歌に比べますと、リズムが少し整っていないように感じられます。これもそれ以降の御歌と異なって、〈文字〉の介在が希薄であることを物語っているのではなかろうか、そう思われてなりません。
 磐姫皇后と聖徳太子の御歌は、仮託歌であると言うのが定説のようです。その大きな理由の一つが、磐姫の四首の御歌が、一連のストーリーを成していること、また一首一首の御歌も、極めて厳密な短歌形式に従っていることが挙げられます。このような短歌形式は、磐姫の生きた二〇〇年前の時代に遡ることはできないということと、以降の収録歌に、類縁の表現が多く見られるということも、仮託歌であることを証していると言われます。
 同様に聖徳太子の御歌も、太子の時代には、まだ短歌形式は成立していないこと、太子は舒明天皇の前の代を治めておられて、舒明天皇の御歌よりも新しい形式の御歌を詠われるということは考え難いということが言えます。
 このお二方の御歌がお二方に仮託されて、後の世の歌人によって製作されたと仮定すると、万葉の初期を超えてその前の時代に詠まれた御歌は、雄略御製歌ととされた一番の御歌と、舒明御製歌とされた二番の御歌だけということになります。そしてそれ以外の、舒明天皇以前の作とされている御歌は、大凡が仮託歌であるということになります。このことは「万葉集」という歌集を性格付ける一つの要素であることは間違いないものと考えられます。このように考えて参りますと、私には「万葉集」の姿が、以下のような像を結んで来るように思われます。それは、ほぼ全ての御歌が、舒明天皇以後に作られたものだということから、正に舒明天皇をキーマンとして、ちょうど扇の要の位置におられて、そこから二十本の骨(巻第一から二十)が伸び広がって、四千首余りの御歌が、煌びやかにその世界を繰り広げられているというものです。その一本一本の扇の骨の要に接するところには、その巻、あるいは部立を象徴する人物(多くは万葉以前の、あるいは万葉最初期の)の作とされる御歌が置かれています。それによってその巻、あるいは部立の編み出す世界の性格が予示されることになります。
 このように私なりの「万葉集」の構成をイメージしてみたのですが、むしろ謎は深まります。どういう謎かと言えば、他でもありません。どうしてこのような高度に完成した歌集が、その前段階のものを伺わせず、いきなり登場してきたのかということです。勿論残された当時の文献から説き起こされることも多いに違いありません。しかしそれは、極めて微視的なもので、私ども一般にまではなかなか届きません。日本語の表記というところを見ますと、『萬葉集』の歌の部分の表記は、構造的には現代文のそれとほとんど変わりません。表記というものはこういうものだとしますと、素人の特権である、できるだけはみ出した想像力を働かせて、表記法の成立や日本語の成り立ちなどを考えて見たい誘惑に、抗し難く感じます。
 『萬葉集』の成立は早くとも八世紀の後半と考えられます。しかしその原資料は、「人麻呂歌集」(三種あると推定されています。)など、天智・天武・持統朝の時代に成立していたものが基本に置かれ、その後数十年のうちに作られた宮廷歌人の歌集や饗宴で披露された宮廷人の御歌などが集められて、編者(恐らく大伴家持を中心とした歌人たち)によって編み上げられたものだと言われます。しかも「記・紀・万葉」と一絡げに言われるように、『萬葉集』は『古事記』・『日本書紀』とともにわが国最古の文献であることは疑われません。そこでこの三書の成立年代を、もう一度確認してみたいと思います。
 『古事記』について『広辞苑』には、

  【古事記】/ 現存する日本最古の歴史書。三巻。稗田阿礼(ひえだのあれ)が天武天皇の勅で誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇の勅により撰録して七一二年(和銅五)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語っている。ふることぶみ。

とあります。つまりこの書物は、神代から初代の神武天皇から推古天皇までの、その統治下の御代についての伝誦を、稗田阿礼という人物が収集し諳んじたものを、太安麻呂が聴き取って、文章に起こしたものと言われます。その文体は「読み下し漢文体」、つまり漢文をわが国の言葉として読んだ形の文体に準じた文体を採用しています。稗田阿礼の集めた旧辞は口伝されたものです。それを文字に一つ一つ置いて文章にまとめたのが『古事記』だということができます。それまでの日本語の音声として発せられていた言葉が、初めて文字(漢字)に写し取られたものだったのでした。
 『日本書紀』は、やはり『広辞苑』では、

  【日本書紀】/ 六国史(りつこくし)の一。奈良時代に完成したわが国最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。三〇巻。七二〇年(養老四)舎人(とねり)親王らの撰。日本紀。

とあります。舎人親王が中心に編まれた歴史書で、わが国の正史とされています。この書の成立は七二〇年とされますので、『古事記』の成立から八年後で、漢文で表記されています。当時の宮廷官僚・知識人は、中国語を日常の日本語と同様に用いるだけの言語力を有していたと推定されます。現代で言う「バイリンガル」だったと推定されます。
 『萬葉集』は、『広辞苑』には、

  【万葉集】/ (万世に伝わるべき集、また万(よろず)の葉すなわち歌の集の意とも) 現存最古の歌集。二〇巻。仁徳天皇皇后の歌といわれるものから淳仁天皇時代の歌(七五九年)まで約三五〇年間の長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)・仏足石体歌・連歌合せて約四千五百首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持(おおとものやかもち)の手を経たものと考えられる。東歌(あずまうた)・防人歌(さきもりうた)なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表し、調子の高い歌が多い。

とあります。
 『萬葉集』はわが国最初の歌集です。が、なぜ歌集なのか、これが最も大きな謎ではないでしょうか。しかもこれまでに述べてきたように、その完成度は極めて高く、その前段階との中間というものがありません。集の中には、古い歌謡、あるいは古い歌謡を模した歌も見られますが、その数が少ないことばかりでなく、そのような歌を交えての、全体の歌の配置に何らかの意味が読み込まれていると解されて、他の歌と組まれた作品の一部分と位置づけられているように見えます。また初期の歌と後期の歌では、その調子にも表現にもかなりの相違はありますが、完成した、共通した一つの表現形式を持った「和歌」であることを、それぞれに主張しています。
 『萬葉集』の歌の表記は様々です。しかし当時使用できる文字は漢字しかありませんでした。歌を読み進めて参りますとその表記には、その漢字をその元来の使用法である漢字(音読、並びに音読の熟語)として用いる方法、漢字を漢字として訓読した方法、漢字音をその文字の意味を離れて日本語の音として用いた音仮名として用いた方法、またその訓読の音をその音だけ用いた訓仮名として用いた方法など、あらゆる工夫がなされています。ここで言う「仮名」とは、正しく漢字音の音読か訓読の音だけを仮に用いた文字遣いを言います。こうして後世、漢字の音読の音と訓読の音を、その音だけ借りて発音を表した文字を、「万葉仮名」と呼ぶようになりました。確かにこれが、現在私たちが便利に使っているかな文字の始まりですが、その使われ方は、現代人の使い方に比べますと、遙かに緻密な、注意深いものがあります。このことが恐らく、『萬葉集』の一番の特徴ではなかろうか、私にはそう思われてなりません。その『萬葉集』は、歌の前後に題詞と左注が置かれることがあります。これらは漢文で記されています。つまり万葉集の基本的な表記、散文の部分は漢文で表されていて、歌だけが、分化のまだ進まない段階の和文の表記で表されているということで、和文の表記が、まず「和歌」から始まったということ、しかも「宮廷歌」から始まったということが、『萬葉集』の性格を決定付けているものと考えられます。
 先にも述べましたように、『萬葉集』の成立年代を「記・紀」と比較しますと、集としての成立は半世紀ほど遅れているように見えますが、初期の歌の製作年代は、『古事記』の成立時期よりも数十年遡ります。であれば、『古事記』の編纂者である太安麻呂は、『萬葉集』の初期の作品に、既に触れていた、場合によっては同じ宮中に仕える身分として、そのころの宮廷歌人と接点を持っていたとしても不思議はありません。そしてそれまで培われてきた漢字の訓読、さらに漢文の読み下し法と、初期万葉の和歌のリズムと文体を参考に、『古事記』の文体、読み下し漢文体(現代の日本語文の原型)に至ったと考えてもよいと言えます。
 しかしなお謎は解けませんし、興味はつきません。
 日本語の表記が、記紀万葉の時代から徳川幕府末、あるいは明治の初期まで、その文書は公式には漢文体で記されてきたこと、そしてそれと同じ時間を『古事記』や『萬葉集』に始まる和文体で記された文学作品が、同じ時間を綿々と繋がってきたこと、このことは恐らく、いきなり誕生したように見える「記・紀・万葉」の出現に至る長い年月、文字を持たなかった我が列島に、〈漢字〉と呼ばれる表意文字が伝えられてから「記・紀・万葉」の出現までの長い年月にその秘密が隠されているに違いありませんし、このことを、誰がどのように考えようとかまわないという不文律から、私も想像を巡らせて見たくなる誘惑に抗し得ません。

                             (つづく)

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