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漢点字の散歩(51)
                    
岡田 健嗣

    カナ文字は仮名文字(3)

 本会ではこの3月に、毎年取り組んでいる横浜市中央図書館への納入書として、『萬葉集釋注』(伊藤博著、集英社文庫)の第六巻を完成させ、同図書館に納めることができました。毎年同じように製作して納入して参りましたが、簡単にことが運んでいるわけではございません。漢点字の本を作るということは、コンピューターによる作業によって行っているとは申しても、手で入力し、人の目で校正を市、編集し割り付けし……という一連の作業の最終工程として、点字プリンターでの打ち出し・製本・装幀を終えて、晴れて図書館の蔵書としていただくべく納入に漕ぎ着けることができるものです。つまり、コンピューターを介在しての作業ではありましても、その大半は手作業であり手作りなのです。校正については東京の会員のご協力もいただいております。会の総力を挙げて完成です。そのようにして完成した本書の、最初の読者という栄に浴することができるのが、この私です。
 ここのところは10年の計画で、この『萬葉集釋注』に取り組んで参りました。昨年度の納入分で、その計画の半ばを達成したことになります。当初は天を仰ぐような気持ちで始めましたが、会員の皆様の弛まぬ努力が、その成果を結んだものに他なりません。
 このようにして20年を超える歳月を過ごして参りました。この間に横浜で、図書館への納入書として完成しました漢点字書は、私が全て最初の読者となることができましたし、東京の活動の成果も、同様に全て読ませていただいております。時間と体力(点字を触読することは、かなりの体力を要することなのです。)の許す限り、読むのが私の使命と心得ているからに他なりません。

 拙文の前回の最後に、「ますます謎が深まる」と書きました。どんな「謎」なのか、もう一度整理してみたいと思います。
 私が漢点字を学んで漢字の世界を知って、そしてこの「漢点字羽化の会」の会員にお集いいただいて、漢点字訳書の製作を始めたのが今から20年余り前のことでした。しかしそれまでは、漢点字を学んだとは言え、漢点字を読むということはほとんどありませんでした。漢点字の創案者である川上泰一先生が主催しておられた日本漢点字協会では、当時、漢点字書の製作を始めておられました。しかし残念ながら私が読みたい本までは、なかなか手が回らないご様子でした。そういうこともあって、私自身が漢点字書の製作に手を染めない限り、私が漢点字の本を読むことは叶わないであろうことが段々分かって参りました。
 しかし、自らが希望する漢点字書が手に入りさえすれば全てが片付くというものではありませんでした。実際は、自らが希望する漢点字書を前にした途端に、正しく立ち往生してしまったというものでした。例を挙げれば、現在も続いております「朝日歌壇・俳壇」の漢点字訳です。それまで音訳書やカナ点字の点訳書で読む(聴く)ことはありました。また音訳者の皆様や点訳者の皆様のお話しから、和歌や俳句の読みは大変難しいということもお聞きしておりました。しかし既に音声化された音訳書や、カナ(音)表記されたカナ点字書からは、どこがどう難しいのかは全く分かりません。そんな中、漢点字で読むなら先ず短歌や俳句だと考え、「歌壇・俳壇」の漢点字版(当初はまだ本会は誕生しておりませんでした。それは東京・墨田区の点訳ボランティアの皆様にお願いしたものでした。)を作っていただきました。それを初めて手にしたところ、どこから取り付いたらよいか分からないほどに、読むことができなかったのでした。音訳者やカナ点字の点訳者の皆様がおっしゃる「難しい」ということの一端を、初めて私は知ることになったのでした。
 このことは「歌壇・俳壇」ばかりでなく、他の文学書や辞書にも言えることでした。本当に容易に読めるものではありませんでした。この体験から、この困難を克服した人だけが、「読む」という行為を行い得るのだということを、骨身に沁みて知ったのでした。こうしてまずはこの読みの困難さを何とか克服しなければいけないということが、私に課された課題となったのでした。このことは私の個人的な体験から申しておりますが、本当に個人的な体験だけに属する体験だと言えるのか、その後多くの皆様との接点を通じて、問い続けることになりました。前回の最後に書きました「謎」とは、正しくこのことに通ずるものと考えております。
 * ここで申し上げた「読みの困難さ」とは、点字の触読の「困難さ」ではありません。「文字を相手にする」という「困難さ」で、これは私ども視覚障害者にだけ課された困難ではありません。極めて一般的な困難です。それとは別に触読の「困難さ」が存在します。その意味から言えば、私ども視覚障害者が文章を読むときには、その文章を「読む」という困難と、点字の「触読」という二重の困難に相対していると言えます。

 前回書きましたように「万葉集」は、8世紀後半に成立した歌集と考えられており、収録されている御歌の大半は、奈良時代(白鳳時代と天平時代)に製作された作品と考えられております。わが国最古の歌集とされてはおりますがそれは「記・紀」と並べて言われることで、『古事記』は712年、『日本書紀』は720年の成立と、成立年がほぼ確定されているのにたいして、「万葉集」の成立年は明らかではありません。しかしこのことは歌集としての成立年が明らかでないことを言っていることで、8世紀後半に成立しているであろうという推定を否定していることではありません。それは、そこに収録されている作品と、その後(「古今」以後)の歌集の御歌の歌風との比較からも推定できることだと考えられます。「記・紀」の成立年が明らかなのは、国史の編纂が急務となったことを踏まえて、元明天皇によって企図されて、各地の風土記とともに平城京を中心とする国家の存在意義を内外に示すものとして製作されたものであることによります。「記・紀」には、その成立事情について記述されており、成立事情を示す第一資料となっております。
 しかし「万葉集」は、天皇の命によって編纂された勅撰集である『古今和歌集』やそれ以後の勅撰和歌集とは異なって、国家の事業として編纂されたものではありません。その意味で、「記・紀」と同様に、わが国「最古の歌集」としてだけ語ることはできないばかりか、その成立年代の不確かさや、収録されている作品の製作年代についても、その鑑賞とともに、工夫が要されるようです。
 しかしここにご覧いただければ明らかなように、「万葉集」の収録歌の完成度は極めて高いものがあります。短歌ばかりでなく、俳句や現代詩や小説・文芸批評を志す方々は、挙ってこの「万葉集」に目を通しておられます。この歌集から受け取られるものは、尽きることがないようです。何度も何度も読み返す度に、新たな何かをもたらしてくれる、皆様がそう言われます。
 実際どんな御歌が収録されているか、今回漢点字版が完成した巻第十二から、ランダムに抽出してみましょう。
 「正述心緒(せいじゅつしんしょ)」と題された巻です。「ただにおもいをのぶる」と訓読されて、事物に託さずに、直に信条を述べることという意味です。「相聞歌」の一つの形式とされます。男女の歌のやり取りが主題となりますが、必ずしも実際にその男女が交わした歌とは限りません。むしろ物語を演出する編集として、それにふさわしい御歌を並べているようです。
 以下の[ ]内は、『釋注』の「釈文」にある、伊藤先生の訳です。
 *は、私の感想です。

二八四一
 我が背子が 朝明の姿 よく見ずて 今日の間を
(わがせこが あさけのすがた よくみずて けふのあひだを こひくらすかも)
[あの方が明け方帰って行かれる姿、その姿をはっきり見とどけることができなくて、今日一日中、恋しさにうち沈んでいる。]
 * 当時は妻問婚と言われる男が女の許を訪れて結婚に至るという婚姻の方式だったとか。この歌は、妻問が始まったばかりの女性の心痛を歌った歌のようです。逢瀬の朝は男は人に気取られずに女の許を去らなければなりません。次は何時訪れて下さるか?

二八四三
 愛しと 我が思ふ妹を 人皆の 行くごと見めや 手にまかずして
(うつくしと あがおもふいもを ひとみなの ゆくごとみめや てにまかずして)
 [かわいいと私が思う子なのに、その子を、世間の人びとがそ知らぬ顔で行き過ぎてしまうように見過ごしていられようか。玉としてこの手に巻き持つこともできないままに。]
 * 男のうたです。世の中には目のない人が多いものだ。自慢の彼女を見せびらかしてやろうか。

二八四七
 後も逢はむ 我にな恋ひそと 妹は言へど 恋ふる間に 年は経につつ
(のちもあはむ あになこひそと いもはいへど こふるあひだに としはへにつつ)
 [「今は駄目でものちにはお逢いしましょう。私にそんなに恋い焦がれないで」と、あの子は言うけれど、恋いつづけているうちに、年はいたずらに過ぎ去ってしまって…。]
 * 悲しく辛い片思いの歌か。相思と思いたいが片思いなのだろう。どうも振られたようだ。

二八五五
 新治の 今作る道 さやかにも 聞きてけるかも 妹が上のことを
(にひばりの いまつくるみち さやかにも ききてけるかも いもがうへのことを)
 [新しく切り開いて今できあがったばかりの道、その道がくっきりと見通せるように、はっきりと聞くことができた。あの子のことについての評判を。]
 * 彼女にしたいと思い始めた女性、その女性の評判が気になる。が、やっと真っ直ぐに伸びた広い道の彼方が見通せるように、よい評判を耳にすることができた。うれしいことだ。

二八五六
 山背の 石田の社に 心おそく 手向けしたれや 妹に逢ひかたき
(やましろの いはたのもりに こころおそく たむけしたれや いもにあひかたき)
 [山背の石田の社(やしろに)、いい加減に幣帛(ぬさ)を手向けたとでもいうのか、そんな覚えはないのに、あの子になかなか逢うことができない。]
 * 神仏に祈ってまで逢いたいのに、お供えの仕方がわるいのか、なかなか逢うことができない。何とかして欲しい!

 これら巻十二の御歌は、作者の氏名の記載はありません。一つ戻って巻十一からも何首かランダムに抽出してみましょう。
 「寄物陳思(きぶつちんし)」と題された御歌で、「寄物陳思」とは、「物に寄せて思いを述べる歌」と訓読されます。やはり「相聞歌」の一つの分類です。

二四一五
 娘子らを 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけり我れは
(をとめらを そでふるやまの みづかきの ひさしきときゆ おもひけりわれは)
 [娘子に向かって袖を振る≠ニいう、その布留℃Rの瑞垣が大昔からあるように、ずっと久しい年月を思いに思ってきたのだ、この私は。]
 * ずっと久しく思い続けてきた娘。「布留山」の「瑞垣」は、永く守られてきた神域だ。私にとっての神域へ袖を振ろう。

二四一九
 天地と いふ名の絶えて あらばこそ 汝と我れと 逢ふことやまめ
(あめつちと いふなのたえて あらばこそ いましとあれと あふことやまめ)
 [天地というものがもし絶えてなくなるようなことがあるとしたら、その時にこそ、あなたと私と、二人の逢うことも止みもしようが…。]

二四二〇
 月見れば 国は同じぞ 山へなり 愛し妹は へなりてあるかも
(つきみれば くにはおなじぞ やまへなり うつくしいもは へなりてあるかも)
 [月を見れば、一つ月の照らす同じ国だ。なのに、山が遮って、私のいとしいあの子はその向こうに隔てられてしまっている。]
 * 他国への赴任によってか、離れ離れを余儀なくされた二人、一つの月が照らしているはずなのに、どれだけ辛抱しなければならないのだろうか?

二四二七
 宇治川の 瀬々のしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも
(うぢがはの せぜのしきなみ しくしくに いもはこころに のりにけるかも)
 [宇治川のあちこちの瀬ごとに立ちしきる波、この波のように、あの子はひっきりなしに私の心に乗りかかってきて消え去ることがない。]
 * 離れた生活を余儀なくされて、瀬の流れを見るごとに、都のあの子を思ってしまう。

 巻第十二の「正述心緒」と巻第十一の「寄物陳思」と題された御歌の中から、四首ずつを抽出してみました。この二つの巻はどちらも、「心をそのまま…」と「物に寄せて…」として詠まれた御歌で構成されておりますが、巻第十二の御歌の作者は、明らかではありません。それに対して巻第十一の御歌は、「人麻呂歌集」から採られたものとの記載があります。しかし「人麻呂歌集」に収録されていたとされる御歌が、全て柿本人麻呂の作歌ではなく、他の歌人の御歌を、人麻呂が記録して集めたものであるとも言われます。そうであれば巻第十一の御歌は、人麻呂と同年代、あるいはそれ以前の歌人作の御歌であることになります。また巻第十二の御歌は、人麻呂より後の時代の御歌の可能性が高いという推測が成り立つのではないかと思われます。それをさらに時代区分すれば、巻第十一の「人麻呂歌集」から選出された御歌は「白鳳時代」(天武・持統朝)に、巻第十二の御歌は「天平時代」(元明・元正・聖武・…)に作られた御歌であるということができるということになります。
 私は「万葉集」を読み始めてからまだ間がありませんので、御歌を鑑賞して申すのではありませんが、それでもこの時代区分は、腑に落ちるように感じております。巻第十一の御歌を「人麻呂歌」だと言われれば、やや首を傾げたくはなりますが、人麻呂と同時代の歌人の作と言われれば、そうかもしれないと頷けますし、巻第十二の御歌はずっと新しい作だと言われれば、そのように了解できもします。白鳳時代、言い換えれば人麻呂の時代に和歌の形式が確立し、天平時代に大輪を開花させたこの「万葉集」の、時空を通して成長し開花した根・茎・枝葉と大輪の花の一つが、この巻十一と巻十二ということができるのではないでしょうか。
 「謎」はここにあるように思われます。
 「記・紀・万葉」が世に出て、わが国の文学が始まったと言われます。それまでは文字と言えば、剣や碑に刻まれた銘文や碑文がせいぜいで、文章と呼べるものは現代には残っていないと言われます。しかし私が私自身を振り返ってみますと、先人の表した文章に接することなしには、読むことも書くことも叶いませんでしたし、これは誰しもが文章と向き合って自身の読書力・書記力を開発していることによっても確認できることと思われます。
 また一方、「万葉集」の御歌の成立年代は、遡っても、せいぜい舒明・皇極朝よりも以前には行けないようです。このことは「万葉集」の初期の作品群を担っていた白鳳時代の歌人たちが、どのようにして文を我が物にして行ったのか、そしてどのようにして現在読めるような、完成度の高い御歌が作られたのかということについて、大きな「謎」であると言ってよいと思われます。ここに私は、強く関心を引かれます。
                                   (続く)
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