Uka112    トップページへ

漢点字の散歩(49)
                    
岡田 健嗣

    カナ文字は仮名文字(1)

 今回も「万葉集」をお借りして、わが国の文字表記について考えてみたいと思います。既に充分語り尽くされておりましょうし、私も微力を省みず、これまで二度ほど試みたところを、再度試みてみたいと考えました。私どもの持つ常識とはやや違った様相が見えてくれば、この甲斐があったものということができます。
 左は「万葉集」から数首の歌を選んでみたものです。

【雄略天皇】

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いへのらせ なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそをれ われこそば のらめ いへをもなをも

【舒明天皇】

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには

【磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)】
八五
君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
きみがゆき けながくなりぬ やまたづね むかへかゆかむ まちにかまたむ

八六
かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを
かくばかり こひつつあらずは たかやまの いはねしまきて しなましものを

八七
ありつつも 君をば待たむ うち靡く 我が黒髪に 霜の置くまでに
ありつつも きみをばまたむ うちなびく わがくろかみに しものおくまでに

八八
秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ
あきのたの ほのうへにきらふ あさがすみ いつへのかたに あがこひやまむ

【聖徳太子】
四一五
家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ
いへならば いもがてまかむ くさまくら たびにこやせる このたびとあはれ

 右の御歌は、巻あるいは部立ての冒頭に置かれているものです。
 まず最初の御歌は、「万葉集」開巻冒頭の、雄略天皇の御製歌とされる御歌です。雄略天皇は、五世紀後半に活躍した、允恭天皇の第五王子で、第二十一代の天皇です。対立する皇位継承候補を一掃して即位したとあります。朝鮮半島の百済を助けて高句麗と対抗するなど、大きな力を手中にした天皇です。埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に、「幼武」の文字がみられること、また「辛亥」の年と記銘の年号があることから、四七一年であることが分かります。
 この御歌は、天皇が野を行くと、高い身分の家柄の姫たちが菜摘みをしているところに出会った。天皇はその中の一人の姫に名を問うて、自らも名乗った、というものです。当時の高位の社会では、若者が若い女性に名を問うということは、即ち求婚していることを意味すると解されます。つまりこの御歌は、妻問いの御歌なのです。そしてこのような御歌は、最も吉兆に富んだ御歌ということができます。即ち歴史的に最も有力な天皇の、その言祝ぎにふさわしい御歌を冒頭に置いて、巻を始めたのがこの「万葉集」ということができるということなのです。

 その次の御歌は、第二番目に置かれた御歌、舒明天皇の御歌です。舒明天皇は第三十四代天皇で、敏達(びだつ)天皇の第一王子、押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の王子です。在位は六二九〜六四一年で、後の天智天皇と天武天皇の父、また持統天皇の祖父です。つまりこの「万葉集」の時代を開いた天皇という位置づけになります。
 この御歌は、天の香具山に登って国見をすれば、煙はたなびき鴎が飛び交う、何と豊かな国であろうか、この蜻蛉島である大和の国は、というものです。天皇は、聖山である天の香具山に登って、その頂から自らが治める国を望まれて、心から嘆じておられるという御歌です。万葉の時代を開いた天皇の御歌であるこの御歌が、開巻第二番目を飾っているのです。

 その次の御歌、第八五〜八八番の四首の御歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の御歌です。磐姫は、第十六代・仁徳天皇の皇后で、天皇が難波に出かけてなかなかお帰りにならないことを嘆いて詠まれた御歌と言われます。磐姫は『古事記』では、極めて嫉妬深い女性として描かれているようですが、「万葉集」のこの四首の御歌では、大変静粛な女性の御歌と読めます。天皇はなかなかお帰りにならない、お迎えに行こうかこのまま待ち続けようか、ただただこのまま待ち続けるとは、死ねということか、もうこれ以上待っていると、黒く美しく靡く髪にも、霜が降りそうだ、秋野田に実る稲穂にかかる朝霞がなかなか消えないように、わたくしの憂い心もなかなか晴れない、というのでしょうか。
 仁徳天皇は五世紀前半の天皇で、応神天皇の第四王子です。聖帝と呼ばれるほどに手厚い政治を領かれたと言われて、わが国の歴史は、この仁徳天皇から始まっていると言われています。
 天皇は、磐姫とは別に、八田皇女(やたのひめみこ)という女性を后に迎えようとしました。それによって磐姫の猛烈な怒りを呼んでしまったと、『古事記』にはあると言います。このことは、右の四首の御歌から読み取ることはできそうにありません。

 最後の四一五番の御歌は、聖徳太子の御歌です。太子は用明天皇の王子で、推古天皇の弟です。皇太子として、また摂政として、大きな手腕を発揮して、天皇を支えられました。冠位十二階の制定、憲法十七条の発布、遣隋使の派遣などの改革や施策は国内外に及んで、太子の功績として現在に伝えられております。有名な憲法十七条の第一条は、「一に曰く、和なるを以て貴しとし、忤(さか)ふることなきを宗とせよ。」とあって、「和」の精神を基とした道徳が解かれています。現代でもこの文言は、「和」の精神をモットーとする日本的精神を象徴していると言われます。
 この御歌は、旅の途上で行き倒れた旅人を悼んで詠まれたもので、家におれば妻が用意してくれたしとねで暖かく休むことができただろうに、旅の途次で力尽きて倒れてしまうとは、何と哀れなことかこの旅人は、というものです。太子の哀れみ深いお心が感じられる御歌です。太子のご存命の期間は五七四〜六二二年です。

 この御四方の御歌を「万葉集」の番号順に並べてみましたが、これを、人物の年代順に並べますと、磐姫皇后(五世紀前半)・雄略天皇(五世紀後半)・聖徳太子(推古・六〇〇年前後)・舒明天皇(七世紀前半)となります。そしてこれらの御歌の歌体を見ますと、第一・二番の御歌とその後の御歌とは、明らかに違いがあるように見えます。長歌と短歌の違いと言えばその通りなのかもしれませんが、第一・二番の御歌を「長歌」と呼ぶのには、少々躊躇いを感じます。また第八五〜八八番と第四一五番の御歌は、明らかに短歌形式の御歌です。しかも第八五〜八八番の御歌は、一連のストーリーを持った、一群の連作の御歌であることは否めません。このことは第一・二番の御歌とは明らかに異なる様相の御歌であることを証しているように思われます。
 「万葉集」の第一・二番の御歌の後、第三番以降の御歌、そのうちの宮廷歌と呼ばれる御歌は、長歌と、それに応える形の何首かの反歌(短歌)から成り立っているのが一般です。そしてそれらのリズムは、五・七の音律に則っていて、最後に七音を添えて終わります。そのリズムの狂いはありません。反歌(短歌)は、長歌の最後の部分、五・七・五・七・七を独立させた形で、長歌で提出された事柄に応えた、あるいは響かせた御歌が置かれています。
 『萬葉集釋注』を著された伊藤博先生によりますと、冒頭の第一番の御歌は、成婚を祝う、舞踊に合わせて謡われた古歌謡であろうと言われて、この御歌を、この時代以前の最も有力な天皇であった雄略天皇の御製歌として、集の冒頭に置くことで、集全体を祝福しているのであろうと言われます。つまりこの御歌は、長歌の五・七音のリズムの成立に先立つ、集団で唱える、あるいは二手に分かれて掛け合いをしながら舞踊に合わせて唱和されたりするもので、文字表記によって創作された後の宮廷歌とは一線を画するものと考えられると言われます。
 また第八五〜八八番の御歌は、一首一首独立した御歌としても、また連作として一つの世界を提示する歌群としても、集団で唱えられる歌謡の時代の歌に比べて、遙かに複雑なものと言われます。万葉の初期の時代から二五〇年を遡った磐姫の時代に作られた御歌ではなく、万葉の時代に仮託された御歌と考えるのが順当であろうと言われます。その作者として最も有力なのが、柿本人麻呂だとも言われます。
 同じように第四一五番の聖徳太子の御歌も、集では、太子の慈しみ深いお心から生まれた御歌とされていますが、太子は舒明天皇と皇位を争った山背大兄王(やましろのおおえのおう)の父ですので、舒明天皇より一世代年長の人だと言うことができます。やはりこの御歌も、太子に仮託して、後人の歌人によって作られた御歌だと言わざるを得ないと言われます。
 このように見て参りますと、第二番の舒明天皇の国見の御歌以外は、明らかに仮託歌であろうことが認められますし、第二番の舒明天皇の御製とされる御歌も、同時代に作られた御歌であることが疑われなくとも、聖山の頂から行われる「国見」を詠うという、極めて公的な御歌であることは否めないことを考えれば、その時代を象徴した御歌でなければならないことが分かります。つまり如何にもこの御歌は、天皇ご自身の作になる御歌でなければならない御歌である位置づけがなされていると考えられます。
 こうしてみますと、この御四方の作とされる御歌を、その作られた年代の順に並べてみますと、雄略天皇御製歌(古歌謡)・舒明天皇御製歌(国見歌)・磐姫並びに聖徳太子の御歌となります。つまり冒頭の雄略天皇の御歌を除けば、「万葉集」に収められている御歌は、全て舒明天皇の御歌である「国見歌」よりも後に作られた御歌であるということが分かります。
 そして「万葉集」は、冒頭第一・二番の後、第三番の御歌から後の御歌の間に、際だった相違が見られます。それが先にも述べた、長歌と短歌形式という韻律の成立に見られる、それに則った言語(文字)表現の自由度の広がりだということができるように思われます。
                                    (以下次号)

前号へ トップページへ 次号へ