「うか」064  トップページへ

   点字から識字までの距離(60)

                         
山内薫(墨田区立あずま図書館)

    人名と漢字

 『あけのほし』という点字雑誌がある。発行・印刷は、社会福祉法人ぶどうの木、ロゴス点字図書館で、毎月刊行されている。80ページほどのこの雑誌は、点字がオリジナルで、墨字版・テキスト版などは刊行されていない。従ってこの雑誌に掲載された記事を読むためには点字が読めなければならない。指か目で点字を読むか、点字を読める人に読んでもらうしかこの雑誌を読む方法はない。ところで昨年の5月から今年の6月まで、この雑誌に原稿を書かせて頂いた。基本的にはインターネット時代における漢字というような内容のエッセーを2千字程度で1年間という依頼だったが、途中全国図書館大会の報告なども含め、結局14回の連載になった。内容的にはこの連載で書いてきたようなことが中心だが、今回から数回にわたって『あけのほし』に掲載した原稿を発行者の許可をもらって転載したい。今回は2006年7月号に書いた「人名と漢字」を掲載する。

 NHKの大河ドラマ「功名が辻」の主人公の名が「やまのうち かずとよ」ではなく「やまうち かずとよ」と呼ばれていて、あれっと思った方が多いのではないだろうか。土佐山内家宝物資料館によると山内家(やまうちけ)では、本家が「やまうち」、分家を「やまのうち」と呼んでいたそうで、名前も「かずとよ」ではなく「かつとよ」と読み、正しくは「やまうち かつとよ」ということになるらしい。作家の水上勉(みずかみ つとむ)も、かなりの間マスコミなどで「みなかみ つとむ」と呼ばれており、図書館の目録などでも「みなかみ つとむ」で通っていた。ところが、ある新聞のコラムに「最近作家のみなかみ つとむさんが、みずかみ つとむと改名したそうです」と書かれたことに対して、本人は「わたしは生まれてこのかた、自分のことを「みなかみ つとむ」と名乗ったことは一度もありません」という抗議文を送ったそうだ。戸籍には読み方まで記されていないので、こうした問題が時々生じることになる。
 読みはともかく、現在日本では子どもの名前に付けることのできる漢字が制限されている。子どもにどんな名前を付けるかという時、姓名判断の本や漢和辞典を何度もひもといた人は多いと思う。にもかかわらず役所の窓口に出生届を出しに行ったら、漢字の問題で受理されなかったというケースは意外に多いようだ。昭和22年に公布された戸籍法第50条には「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。」とあり、第2項に「常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。」と書かれている。この常用平易な文字の範囲とは、「戸籍法施行規則」第60条で、いわゆる常用漢字、別表第2に掲げる漢字(いわゆる人名用漢字)、変体仮名を除く片仮名又は平仮名と示されている。従ってオバケのQ太郎にあやかって「Q太郎」、俳優の名を真似て「B作」という名前の出生届けを出しても受理されない。
 2年前の平成16年9月27日に、この「戸籍法施行規則」が改正され、人名用漢字が一挙に488字も追加された。この追加によって人名に使える漢字の数は合計2928字となった。もちろん仮名だけの名前もあるわけだが、明治安田生命が毎年実施している名前ランキング2005年を見ると、男子では百位以内に仮名だけの名前はなく、女子では2位「さくら」、18位「こころ」、32位「ひなた」、45位「ひかり」、55位「もも」、72位「ほのか」の6つだけで、あとは漢字の名前となっており、いまだにほとんどの名前が漢字によって付けられていることが分かる。ちなみに、この明治安田生命のホームページにある名前ランキングには、大正元年から昨年までの実に90年余りの各年の男女別名前のベストテンが載っていて大変興味深い。例えば大正年間の男子の名前ベストテンを見ると、なぜか「太郎」「次郎」ではなく、常に「三郎」という名前が上位に位置していたり、昭和になったとたんに、昭和の昭に漢数字の一、二、三が付く昭一、昭二、昭三が現れる。また第2次世界大戦に突入していく昭和14年から16年までは「勇」(勇敢のゆう)が1位、17年から20年までは「勝(勝利のショウでマサルあるいはカツと読ませたか)」がトップで、戦後21年は「稔(ミノル)」(のぎへんに旁は念力の念)が1位となっている。また2000年からは名前の読み方についても調査が行われているが、2005年の男子では「ユウキ」、女子では「ヒナ」がトップで、「ユウキ」に用いられる漢字の組み合わせは「優輝(優秀のゆうに輝くのき)」を筆頭に48種類、「ヒナ」では「陽菜(太陽のように菜っ葉のな)」を筆頭に18種類も様々な漢字が使われている。
 今回、人名用漢字が一挙に増えた背景には、平成15年12月の最高裁判決の影響がある。札幌市の夫婦が生まれてきた男の子に「曽良(長野県の木曽の曽に良いという字で、奥の細道で芭蕉に同行した河合(かわい)曽良と同名)」という名前で出生届を出したが、この「曽」という字が常用漢字にも人名用漢字にも無かったため受理されなかった。夫婦はこれを不服として訴え、とうとう最高裁で「社会通念上明らかに常用平易な文字であり、子の名に用いることができる」と勝訴してしまった。そのために法務省は翌年の2月に、この字1字だけを人名用の漢字に追加することとなった。この時点で全国の自治体の窓口などに名前として使いたいと要望のあった人名に使えない漢字がおよそ千あったという。そこで法務省は「法制審議会人名用漢字部会」を急遽開催して、新たに521字を候補としてパブリックコメントを実施した。このパブリックコメントによって名前に使用する漢字としてはふさわしくないと批判の多かった、病気の「癌」や痔瘻の「痔」、糞尿の「糞」などが削られて最終的に488字が追加された。
 しかし現在でも「国が人名に使える漢字を制限しているのは表現の自由を保障した憲法に違反する」という訴訟が係争中だという。一方で、平成16年現在、戸籍をコンピュータで処理している自治体は4割ということだが、今後戸籍のコンピュータ化は加速度的に進むだろう。そうした時に制限が無くなれば、住民基本台帳の処理に支障を来すだろうことが容易に予測される。
 今回の人名用漢字追加についての審議経過は、法務省のホームページ内にある審議会情報で読むことができる。また、この審議会委員を務めた漢字の研究者である阿辻哲次(あつじてつじ)著『「名前」の漢字学―日本人の名付けの由来≠ひも解く』(青春出版社 2005年)が、この間の経緯を詳しく解説しているので興味のある方は是非一読されたい。

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