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「うか」051

     
酔夢亭読書日記(11)

                        
安田 章

 年中無休の酔夢亭も寄る年波の上にもろもろの心労及び暑さと不摂生がたたり、今回は掲載を休ませていだき、南の島で珊瑚の砂浜に寝そべり可愛い人魚を眺めながらのんびり暮らそうと考えていたのだが、鬼の岡田編集長が何をふざけたことをほざいているか、早く書け、と恫喝するので、今泣きながらパソコンに向かっている次第。キーボードは涙に濡れ、回路がショートしそうである。

 「海馬」(池谷祐二、糸井重里 新潮文庫)
 「記憶力を強くする」(池谷祐二 講談社ブルーバックス)
身体は酷使すると疲労してくるが、脳はいくら使っても疲れないのだそうだ。眠っているときでも活動していて、常に元気いっぱいである。ゆえに脳力不足です、というのは弁解にならないわけで、体力不足でできませんというのが正解かもしれない。
 海馬の意味は「タツノオトシゴ」で、脳のその部位が「タツノオトシゴ」の尻尾に似ているからつけられたとのこと。身体の中の器官には時々、妙に空想を掻きたてられる名称がある。例えば、ランゲルハンス島なんてのもある。「ランゲルハンス島の午後」という村上春樹氏の書物もあるようだが、私は読んでいない。
 人間の脳も身体も考えてみれば不思議である。

 「ナンバ式快心術」(矢野龍彦、長谷川智共著 角川書店)
 「ナンバ歩き」という歩き方をご存知だろうか。昔の日本人、明治維新前の日本人の歩き方は、右手は右足と、左手は左足と同時に出すような歩き方だったらしい。この歩き方だと着物が着崩れしないということだ。疲れもすくないというので、時々私もためしている。効果の程は未だよくわからないが。
 「ナンバ」は「難場」と捉え、生きていく中で自分が直面した難しい場面にいかにしなやかに対処していくか、どう工夫していくかを考えていく。この世はタフでないと生きていけないし、優しくなければ生きていく資格がない。そして、楽しくなければ生きている甲斐がない。
 人間は不思議であるが、生物も不思議である。人間は生物の一種なのだから当然か。この夏、酔夢亭の軒先にある鉢植えの蜜柑の木にアゲハチョウが卵を産み付け、十匹ほどが孵化した。孵ったばかりの幼虫は黒くて貧弱だったが蜜柑の葉をむしゃむしゃ食べるうちにきれいな緑色になっていった。さながらモスラの幼虫である。そしてある一匹が蛹になった。モスラのように糸を吐いて繭をつくるわけでなく、ただ葉っぱが丸まっただけのようだった(羽化の会のホームページにその辺りの様子を夏目秘楽利さんが描いている)。私は想像した。この緑の幼虫たちが次々に蛹となり、そして満を持して羽化し、大きな紫色の羽をひらひらさせて我が軒先から何処かへ旅立っていくことを。
 しかし、虫の天敵は鳥である。ある日、雀の親子がやってきて、蛹以外全部食べてしまった。あまりに熱中して食べていたので、子雀が置いてけぼりにされ一晩を蜜柑の木の鉢植えで過ごすことになり、鳴き声がうるさくてしようなかったが、翌朝親雀がちゃんとつれ戻しにやってきて、その件ではほっとしたが、アゲハの方はがっかりである。そしてある朝、玄関を開けると黒っぽいひらひらが私の脇をすり抜け、あっという間に何処かへ行ってしまった。蛹は抜け殻であったので、羽化が完了したのであろう。一人前のアゲハになるのも大変なことである。十分の一の確率である。
 十分の一といえば、今後日本の社会は1割の勝ち組と9割の負け組に分化していくかもしれない。日本人の平均貯蓄額の高さはこの1割ほどの富裕層に引き上げられているとも考えられるだろう。10人がいるとして9人が貯蓄高0で、ひとりが1億だとすれば平均は1千万であるから。

 「しのびよるネオ階級社会」(林信吾 平凡社新書)
 日本は階級社会なのか、そうではないのか。階級社会とはどういうものか、悪いものなのか。戦後民主主義は個人の平等を謳ってきたが、現実は果たしてどうであろうか。法の下で平等なのは言うまでもないが、持てるものと持てないものとの不平等は厳然とある。機会の平等、結果の不平等、を許容できるかどうか。
 先日昼下がりの公園のベンチで休んでいると、例の如くホームレスがやってきて、ごみ箱を漁り、食べ終わって捨てられた弁当の容器をもう一度開けて、わずかばかりの残菜をはずかしげもなく口にしていたが、その自然さに感心した。人間も生物の一種に違いない、と思った。しかし、ホームレスにはなりたくない。狭いながらも貧乏ながらも楽しい我が家で暮らしていたい。そんな方には、
 「ホームレス入門」(風樹茂 山と渓谷社)がおすすめ。
巻末の資料編から抜粋引用する。
 ホームレスにならないために
 ・失業しない。
 ・酒、博打にうつつを抜かしすぎない。
 ・妻は夫に多くを期待しない。
 ・失業した場合、再就職には高望みしない。
 ・職がみつからず、家賃が払えなくなる前に速やかに生活保護の申請を出すこと。
 ・年金を支払うこと。支払えない場合は早めに支払免除の申請を出すこと。
 年金をもらいながらも、ホームレスになっている人を酔夢亭は知っている。この人は、酒にうつつを抜かしている。羽振りの良い頃は女性にうつつを抜かしていたようである。
 何はともかく、家を失うことは自分の拠点をなくすことだから、なんとしても住むところだけは確保しておきたいものである。


「うか」052

     酔夢亭読書日記(12)

                        
安田 章

 世の中にはカタカナ語が好きな大人が大勢いるもので、そんな人が話していることを聞いているとなんだか疲れてくるし、その場を逃げ出してしまいたくなるのは私だけであろうか。何か嘘臭いし、こやつ本当に分かって話しているのか、と勘繰りたくもなる。
 「そのタスクはコラボとしては余りやりたくないな、クライアントにとってリスクが大きすぎるよ。コストパフォーマンスがいまいちだし、適当なリスクヘッジも見あたらないんだなあ、これが。それでなくともルーティンに追われているわけだし、スキーム的には如何なものか。もちろんスキル的には問題ないけどね。インセンティブあるかなあ、…やっぱペンディングにしましょうよ、サクッと来ないし、このアジェンダはこれまでにしようよ。」
 ひとつひとつのカタカナ語の厳密な意味は不明確でも何となくうすぼんやりと分かったような気になるが、どうも実が感じられない。話し手を軽蔑したくなるが、意味がよく分からないから何かこちらの知性が劣っているようでもあり、癪である。
 という方の為には、「大人語の謎」(糸井重里監修 新潮文庫)がオススメ。カタカナ語なんてものは舞台裏と用法を知ってしまえば他愛もないわけで、この本を良く研究して、この手のこけおどしにであったら反対に多いに笑ってしまおう。
 謎の隠語シリーズなるものもあって、例えば以下の会話の意味するところは分るだろうか。
「そこは千駄ヶ谷の出方しだいですねえ。大手町のほうは大丈夫なんですか?」
「まあ、麹町しだいじゃないですか?」
「麹町は人形町の件があるから怪しいですね。」
「そうだな。となると、あとは曙橋か……」
 世に棲息していると、この手の会話がそこかしこで交わされている。分っていなくとも分かったような顔をしてやり過ごしていくのも処世の術というものだろうか。私のようなマジメ人間はストレスが溜まって溜まっていたしかたない。自分の実力が10あるとしたら2か3くらいしかださない人間って奥ゆかしいではないか。
 
 閑話休題。あやふやに想像していると実像に対面したとき、ギャップの大きさに幻滅したりすることもあり得る。
 「想像」という言葉は韓非子の造語で、解老第二十に「人は生きた象を見ることはほとんどない。そこで、死んだ象の骨を得てその絵図を考え出し、それによって生きている姿を想像した」(金谷治訳注)とある。想像力とはさながら考古学のようである。
 イギリスのライム・リージスに住むメアリー・アニングという少女は町でいちばん不幸な少女であったが、12歳のある日、イクチオサウルスの化石を掘り出し、高い値段で売って家計の足しにしたという(「発明家は子ども!」マーク・マカッチャン 晶文社)。イクチオサウルスは、「魚のようなトカゲ」という意味らしく、いるかみたいな格好をした爬虫類である。何百万年も前に絶滅しているイクチオサウルスの化石は現在、メアリーが発掘した物ではないが、税込み525万円なりでインターネット上で売りに出されている。メアリーが生きていたのは1800年代の始めと言うから、いくらくらいで売れたのだろうか。
 ところで韓非子の解老第二十というのは老(子)を解く、すなわち「老子」本文の解釈をしているわけだが、この「老子」自体が想像を掻きたてられる対象でもある。何を言っているのかよく分らない、という意味で。
 「目をこらしても見えないから、すべり抜けるものとよばれ、耳をすましても聞こえないから、かぼそいものとよばれ、手でさわってもつかめないから、最も微少なものとよばれる」「それが上にあっても明るさはなく、それが下にあっても暗さはない」「それらは状(すがた)なき状、物とは見えない象(かたち)とよばれ、はっきりとはしないそれらしきものとよばれる」(老子第十四章 小川環樹訳注 中公文庫)。
 わけが分からないが、想像力を掻きたてられるではないか。サルトル(ロカンタン)がマロニエの木の根っこを見てなぜ嘔吐したのか。薬物摂取の為という説もあるが、そんな解釈は実存主義者サルトルに対して失礼であろう。想像力を発揮すれば尋常ならざるものが眼前に彷彿としてくることがあるわけだ。
 仏教で九相図というものがあるそうで、死んだばかりの死体から始まって、最後は骨と髪の毛のみが荒野にびょうびょうと残る様をえがいているわけで、どんな美人であってもいずれはそうなるのだと観ぜよ、というわけだ。修行が進むと美人を見るたびに肉体が膨張し、腐敗し、悪臭を放ち、蛆がたかり…などを一気に想像できるようになるわけで、そんなことになってしまったならマロニエの木の根っこを見て嘔吐するどころの話ではなくなる。
 想像力の産物といえば、発明発見などはその最たるものであろう。1800年代始め頃点字を発明したフランスのルイ・ブライユも大いに想像力及び創造力を発揮した。3歳の時、父親の仕事道具である錐で目を突いて失明したブライユは、わずか43年間で生を燃焼させたが、記念館になった生家の入り口には以下のようなプレートが掲げられているという。
 『1809年1月4日、ルイ・ブライユはこの家に生まれる。盲人のための点字による筆記法を発明し、目の見えない人々に知識の扉を大きく開いた』(前掲「発明家は子ども!」より)
 想像力について想起し始めるとキリがなくなるが、例えば将棋や囲碁のプロなどはどれぐらい手を読めるのかなどいうことも興味深い。
 羽生善治「決断力」(角川oneテーマ21)、藤沢秀行「野垂れ死に」(新潮新書)。私の好みは後者であるが、いずれにしてもプロの勝負師はすごい!


「うか」053

     
酔夢亭読書日記(13)

                        
酔夢亭

 韓非子の造語になる「想像」の力というもの、考えてみれば不思議な能力である。眼前にない物をありありと眼の間に現出させるイメージ喚起力を人間以外の他の動物も持っているのかどうか私にはよく分らないが、多分この能力は人間が最も秀でていると思われるのである。おそらく、言語を操ることができるのは、人間だけであろうし、言語とイメージは表裏一体、不可分密接の関係にあると考えられるからでる。何だか難解になりそうである。ソシュールやチョムスキーをひもとく必要がでてきそうであり、機会があればふれてみたい気もするが、さてどうなることか。
 「君の言うソシュールだとか言葉だとかいうことと、ぼくらの実生活とどんな関係があるのかねえ」と丸山圭三郎氏は親しい友人である辣腕の会社経営者に言われるという。「僕にとって関心があるのは、金と性(セックス)だけさ」「ぼくは死ぬのが恐ろしい。」(「言葉と無意識」丸山圭三郎 講談社現代新書)
 金と性と死。これらへの関心と言葉とは果たして関係のないものであろうか。結論から言えばおおいに関係ある、というのが丸山氏の主張である。関係あるというより、ずばり言葉そのものだというのである。つまり、「貨幣は言葉」であり、「性も言葉」であり、「死も言葉」である、と。そんなこと言われても、プラトン、デカルト的近代合理主義にすっかり染まりきっている我ら現代人にはなんことやらよく分らない。
 「関係でしかないものを〈物〉だと思いこむばかりか、〈物〉を生み出すのが関係であることに気づかないのである」(前掲書)。ということであるのだが、さて、如何であろうか。「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」というフレーズがヨハネ福音書の冒頭にあるが、このフレーズなかなか意味が深そうではないか。
 「関係でしかないものを〈物〉だと思いこむ」錯覚から、凡人はさまざまに苦悩するわけだが、仏教思想では「空」という概念でそのあたりつまびらかにしている。この世に存在する何物も実体ではない、このことを仏教の経典の一つ「般若心経」は説いている(「声に出して読む般若心経」サンスクリット語・チベット語・日本語での読経CD付 山名哲史 明日香出版社)。
 「空」の思想を展開したのはインド人のナーガールジュナ(漢訳名は龍樹)であり、「大乗仏教とよばれるものは、みなかれから出発したのである。そのため日本では、かれは南都六宗・天台・真言の『八宗の祖師』と仰がれている」(「龍樹)中村元 講談社学術文庫)そうである。このナーガールジュナは若い頃から秀でてはいたが、悪さをすることも達者であった。「彼は、これも才能ゆたかな三人の親友をもっていたが、ある日たがいに相談し、学問の誉れはすでに得たから、これからは快楽を尽くそうと決め」、「術師について、自分の身体を見えなくする隠身(おんしん)の秘術を習得し、それを用いて王宮にしばしば忍びこんだ。100日あまりの間に、宮廷の美人はみな犯され、子をはらむものさえ出てきた」(「空の論理〈中観〉」梶山雄一、上山春平 角川ソフィア文庫)。
 話は逸れるが、ゼロを発明したインド人は数学にすぐれ、世界各国にIT技術者を送り出しているということであるが、そのインドでは二桁のかけ算を暗記しているらしい。「20×20はどこの学校でも教えます。インドの子どもはだれでも20×20までは言うことができますね。あとは先生によってちがっていて、技術者になるような人は頭の中で99×99までのかけ算ができるようになります」と日本の派遣会社に所属するインド人のヴィカスさんは述べている(「二桁のかけ算一九一九(イクイク)」かえるさんとガビンさん ライブドアパブリッシング)。
 で、日本人も九九の暗記のみにとどまらず、さらなる挑戦をしようと前掲書は提案しているわけだ。例えば、19×19は361であるが、これを「一休一休寒い」と覚えるわけ。11から19までのそれぞれの数字にキャラクターをあて、ストーリー的に脳にインプットしようという目論見である。11は「ヒヒ」、マントヒヒのヒヒで、12は「ビキニ」、14は「伊代(いよ)」、松本伊代の伊代、19は「一休(いっきゅう)」という具合である。故に、14×14=196は「伊代、伊代、一苦労」、11×14=154は「ヒヒ、伊代、引っ越し」となる。
 閑話休題。想像力、言葉、意識、無意識、などについて考えていくと、じゃあ、それらを司っているのは人間のどこの臓器であるのか、そしてミステリアスな問いとして、こころ或いは精神というものはどこにあるの?という問題にもなってくる。
 通常、こころや精神は頭、つまり脳にあると考えられるわけで、だからこそ脳死を人の死としようと擬制せられるわけである。しかし、こころや精神が脳以外の臓器、心臓や肺や腸や胃袋にあるとしたならどうなるか?心臓や肺などの臓器を移植された患者にはドナーのこころや精神も移植されるのではないか?「ドナーが仮に色情狂だったら移植されたヒトは色情狂になります。色彩の好みも、食物の好き嫌いも、色情の好みもすべては、腸管の吸収と排出能力の好みなのです」と西原克成氏は断定する(「内臓が生みだす心」西原克成 NHKブックス)。こうなってくると、脳死だからといって簡単に臓器移植ができるものかどうなのか。
 ふーむ、考えさせられる。


「うか」054

     
酔夢亭読書日記(14)

                        
酔夢亭

 個人投資家がブームである。書店には投資の本が山積みされていて、ついつい手に取ってしまう。
 夢も希望もなくなりつつあるこの時代、デイトレードとかいう取引によって、オンラインで一日にして億万長者になることができるのだ。だとすれば、株式投資というものは一攫千金を夢みる人間にとっていかにも魅力的にみえるではないか。
 ところで、株で儲けた有象無象の人たちによる著作物についてアダム・スミス(ジョージ・グッドマン)は「マネー・ゲーム」という本の中で以下のように述べている、という。
 「『私は百万長者だ』とか、『私は機を見るに敏だから、私の有価証券総額は七桁になった』というような非常に大きなマークを胸にぶらさげた連中がいる。この一〇〇万ドルという数字や、それは誰にでもできるとかいうキャッチフレーズの魅力はとてつもなく大きいので、内容がほとんどないのに、『私はこうして一〇〇万ドルを儲けた』とか、『あなたも百万長者になれる』というような本が売れるのである。私はこういう本を収集するのを趣味にしているが、こんな書物は、株式市場についての本の中で最も危険なしろものである」(西野武彦著「『相場に勝つ』株の格言」日本経済新聞社)。ということのようなので、生兵法で株ナンゾで儲けようと考えない方が身のためのようである。

 日本がものづくりに自信を持ち、手に職をつけることが誇らしくあり、あるいは終身雇用神話が崩れない時代には、株式投資なんて博打みたいなものでどこか胡散臭い感じがしたものである。
 しかし、日本の社会が成熟し、「末は博士か大臣か」などという古典的、明治的な立志のあり方がまったく陳腐化してしまった世相にあっては、どのような手段であれ、「カネ」を獲得したものが「勝者」であると考えてしまうことを私たちはどのように批判できるであろうか。
 「人間はお金を見ると豹変します。豹変する瞬間が面白いのです。皆ゲンキンなものです。良いか悪いかは抜きとしてそれが事実です。金を持っている人間が一番強いのなら、金持ちになればいいということなのです。人間を動かすのはお金です」(堀江貴文「稼ぐが勝ち」光文社)。拝金主義はついにここにきわまれりである。
 良いか悪いかは、それこそ抜きにして、ホリエモンの意気軒昂に旧来のおとなは圧倒され、若者たちは絶大に支持をする。
 しかしながら、違法でなければ何をやってもよいという発想は日本の伝統的な商人道には反するのである。
 「公益を図ることを事業経営の方針とし、決して私利を求めて他を顧みないということのないように。」「財の許す限り公共慈善の事業に尽くせ。」(藤田伝三郎)、「マグレ当たりにて儲けし金は、他人の金を預ったと同じことなり。」(諸戸清六)等々(山本眞功(しんこう)「商家の家訓」青春出版社)。
 『堀江貴文氏と小泉政治はウリふたつの「合わせ鏡」だ。「努力したものが報われる社会を」と叫び続けた怪しげな政治スローガンの真意が、実は、一攫千金の成り金や富裕層優遇を正当化するレトリックに過ぎなかったことが、ケタ違いの「報われ方」を享受したホリエモン錬金術によって暴露された』と経済評論家の内橋克人氏は喝破する(1月21日朝日新聞朝刊「私の視点」)。
 結局のところ、ホリエモンのやっていたことはどうやら違法なことのようである。

 ホリエモン幻想が潰えたあとの我らの社会は果たして何を志向して生きていけばよいのであろうか。「中流崩壊」のあとは、当然のこととして、「下流社会」へと墜ちていくのであろうか。 


「うか」055

     酔夢亭読書日記(15)

                        
酔夢亭

 今回は、いつもと趣向を変えて、ちょっと童話もどきを書いてみたので、ご笑覧あれ。
「はりこの虎太の買い物」

 はりこの虎太は、みかけだおしの虎でした。
 雨の日はからだがぬれるので、学校を休みたくなります。風の強い日はからだじゅうに生えている毛がぶるぶる震えるので、外へ出て行くのが嫌でした。
 
 その日は、雨も降らず、風も強くない、暖かい日でした。
 虎太は、はなうたを歌いながら、うら通りを散歩していました。
 すると、もしもし、もしもし。しもしも、さもしい、さもしい。そんな声が後ろから聞こえてきました。
 振り返ってみると、そこには大きなごみのかたまりがころがっているだけで、誰もいません。おかしいなあ、と思いましたが気のせいだろうと思って、虎太はそのままあるいていこうとしました。すると、ぺっ、ぺっ、とごみのがたまりからつばがとんできました。
 「こら、まーたんか、まーたんか、虎太。わしはお前をよんどるのだ。」
ごみのかたまりと思っていたのは、実はつばはき爺さんでした。
 「なんですか、なんか用ですか、つばはき爺さん。」
 「用があるから呼んどる。このぶれいもの。」
 「え、なんですか。なんすか。」
 「近ごろの若い者は、ぶれいでこまる。」
 つばはき爺は、昼間から酔っぱらっているようで、ほっぺと鼻の頭が真っ赤でした。目はどろんとにごっています。
 「用があるなら、さっさと言って下さい。僕もいろいろ忙しいのです。」
 虎太は、少しむっとして言いました。別に忙しくはなかったのですが。
 「すまん、すまん。実はな、お前と取引がしたくてな、悪い話ではないよ、おとくな取引だよ。言葉を売ってくれないかな。」
 「言葉ですか。」
 「さよう。」
 「言葉って売れるものですか。」
 「当たり前じゃないか、世の中に売れない物なんかない。こころだって、売れるくらいだからな。」
 「ふーん。・・・でもなあ。」
 「タダで売ってくれと言っているわけじゃない、当然みかえりはある。」
 「みかえり?」
 「学校の成績をあげてやろう。」
 「えっ、ほんとうに?」
 「わしは、ウソはいわん。」
 「じゃあ、売ります。どういう言葉を売ればいいんですか。」
 「あってもなくてもどうでもいい言葉。」
 「あってもなくてもどうでもいい言葉って?」
 「古新聞、古雑誌みたいな言葉。」
 「古新聞、古雑誌みたいな言葉って?」
 「気の抜けたシャンパンみたいな言葉。」
 「気の抜けたシャンパンみたいな言葉って?」
 「ロープの切れたいかりみたいな言葉。」
 「ロープの切れたいかりみたいな言葉って?」
 「ええい、きりがない。言葉を売ってくれれば各科目10点ずつアップしてやろうではないか。どうだ、いい話じゃろうが。」
 「はい、とてもいい話です。売ります。売ります。」
 「では、取引成立じゃ。」
 
 つばはき爺さんに言葉を売り始めてからというもの、虎太の成績はみるみる上がりました。学年150人中130番あたりを行ったり来たりしていたのが、今度のテストではなんと学年4番になっていたのです。
 クラスのみんなは、虎太の成績がぐんぐん上がるので、びっくりしました。でも、前の成績の悪いころの虎太の方が好きでした。
 
 はりこの虎太はときどき、わけもなくそっくりかえることが多くなりました。
 ある日の学校の帰り、虎太はそっくりかえって、お尻をしたたかコンクリートに打ちつけました。
 「いたいよー。」
 「そんなにそっくりかえって歩いているからよ。」
 猫のペルシアンが虎太を起こしながら、つんつんして言いました。
 「成績が上がったからいい気になっているせいよ。」
 「そうかなあ、そんなつもりはないんだけど。」
 「そんなつもりはなくても、なんか最近すごく感じわるーい。」
 
 はりこの虎太はそっくり返らないように首を前に突き出し、前後左右にぷらぷらふりながら、からだのバランスをとりながらのそのそ歩いていました。
 すると、もしもし、もしもし。しもしも、さもしい、さもしい。そんな声が後ろから聞こえてきました。
 振り返ってみると、そこには見慣れない立派な紳士がたっていました。虎太は気のせいだろうと思って、そのまま歩いていこうとしました。
 「こら、まーたんか、まーたんか、虎太。わしはお前をよんどるのだ。」
立派な紳士に見えたのは、実はつばはき爺さんでした。
 「これはつばはき爺さん。ずいぶん感じが変わりましたね。」
 「お前もなんかずいぶん感じが変わったのう。」
 「やっぱりそうですか。みんなに言われます。」
 「わしのほうは、お前から言葉を買ってからというもの、みんなに好かれるようになっての、ごらんのとおりのありさまじゃ。いい買い物をしたものだ。」
 虎太は、言葉を売ったことをなんだか後悔しはじめていました。
 「ものは相談なんですが・・・」
 「なんであるかな?」
 「言葉を買い戻したいのです。成績はもとに戻してもらって結構ですので。どうか、僕の言葉を返してください。」
 虎太は泣き出しそうでした。
 「それはできんな。そんなことを許していたら、本屋なんかはあっという間につぶれてしまうじゃないか。面白くなかったので、本を返すから、お金を返せ、というようなものじゃ。」
 「そこをなんとかしてもらえないでしょうか。」
 「なんともならん。」

 はりこの虎太は、仕方なく、道の片隅に腰を下ろし、言葉を売ってくれる人が通るのを待つことにしました。
 風が吹いて、首がぷらぷら揺れました。むこうから、狼の太郎がやってきます。
 虎太の頭の中で、少なくなった言葉がごそりと動きました。

                            おわり。


「うか」056

     酔夢亭読書日記(16)

                        
酔夢亭

 今流行のブログというもの、新しもの好きの酔夢亭、我もしてみんとて、さっそく始めることにした。
 作ってみて感じたのは、ネタの仕入問題である。書くべきものが無い人間が、毎日なにがしか、ものぐるしいおもいや、日々の出来事や、その他エトセトラをでっち上げていくのは、なかなかつらくも儚いバベルの塔を積みあげているような感じがする。三途の川原で石を積み上げているような、ネガティブな繰り返しを際限なく続けているような、病んだインコや犬が自分の毛を飽くことなくむしり、自己慰安しているような、イヤなイメージが湧いてくる。あーやだやだ。
 これが、ヤクルトの古田監督だとか、女優の真鍋かおりだとかだったら、日常を書けば、それだけで記事になり、興味を持つ人々もいるのであるから、これはある意味楽だし、それこそ意味がある。著名人の私生活や、行動、考えていることの中身は、情報として価値があるのだから。
 しかし、我らが無名の民、どこの馬の骨とも知れないやからが、自意識をまとわせた駄文を公開することになんの意味があるのか。意味はほとんどない。全くないといっていいと思う。
 でも、やることにした。本名を出すこともないし、たかが電脳世界での絵空事だと自分を鼓舞し説得し、つれづれを始めたしだい。
 毎日、何を書こうかな、なんて考えて生きていくのも、高等遊民的でなかなかしゃれている。
 ところで、遊び心というものは、現実を超越する感性から出てくるものでもある。
 はてさて、現実にどっぷりつかり、泥にまみれている酔夢亭、そんなことが可能や否や。

 2006年4月14日  
「こころ」というものが近ごろ無性に不思議に感じられてならないのは、どうしたことでしょう。
 人間がいろんなことを考え、感じて生きていることはなにか、それ自体とてつもなく奇跡的なことではないでしょうか。
 この「こころ」というものがどこにあるのか?やっぱり「脳」なんでしょうか。
 「脳単」は、脳の各部位を、日本語、ギリシャ語、ラテン語、英語、その他の言語によって語源と絡めて脳についてお勉強する単語集である。
 ぱらぱらめくってみていると、人間がますます不思議になってきます。
 「肉単」、「骨単」というものもあって、興味が尽きません。
 こりゃ、ほかの単語集もつくってみたくなりますね。
 「タンゴ単」とか。(オヤジだねえ。)
 
 2006年4月17日
ストレスの多い世の中です。
しかし、ストレスに翻弄されて短い人生を過ごすのももったいないというものです。
いろんなストレスがあっても、こちらの主体がそれをはね返すだけの元気さがあれば、
ストレス自体が生きるうえでの張りに変えることができるかもしれません。
この「元気」というものを養い、何があっても起こっても、へこたれない、ちょっと
やそっとのことでは引き下がらないぞ、という強い心を持ちたいものです。
この強い心を一体どのようにしたら獲得できるか、これを解明していくのも私のこれ
からの人生の目的にしていきたいと思っています。
こんなことを思うのも、自分の心の弱さやいい加減さを痛感しているからです。

 2006年4月23日
 自己啓発や能力開発の本などをめくっていると、結局、睡眠や食事の取り方はどのようにしたらよいのか、迷うことが多い。
 健康で気力充実し、脳にもよく栄養をまわすためには諸説あるようです。
 超「熟睡短眠」法によれば、睡眠時間は短くできるようです。
 貝原益軒もあまり寝るな、昼寝はするな、と書いています。
 睡眠時間が3時間で済めば、そりゃ、いろんなことができていいと思うけど、いつも頭がぼーっとしているようでは気分も悪いし、ものの役には立たないでしょう。
 今話題のジェームス・スキナー氏はベジタリアンのようですが、脳には必須アミノ酸が必要で肉が必要であるといわれています。このあたりはどうなんでしょう。
 本当に、肉や魚などを食べないで、野菜だけ食べて人間は大丈夫なんでしょうか。
 先日テレビで、土だけを食べて健康に生きている人のことを放映していましたから、さまざま人がいることは間違いないのでしょう。
 凡人は、いろんな説に振り回されて、ああでもないこうでもないとその時だけ騒いで、結局自分の好きなようにしているわけのようです。
 こんなに身近な問題でさえ、すっきりとした答えが出てないことにはなんだか奇妙な感じもします。
 
 
 という風な「意見、妄想、たわごと」を、酔夢亭はブログ上で実践しているわけである。ブログというものの仕組みもよく分らず、便乗して利用させてもらっている。
 ホームページ作成のような面倒もなく、簡単に自分のホームページができ、しかも無料である。多いに利用していきたい。
 ただ、最初にのべたように、発信すべき中身がなければ、読む価値がない。この辺のこと、この原稿を書いていて、怖く感じている。


「うか」057

     酔夢亭読書日記(17)

                        
酔夢亭

 某月某日
 「催眠術のかけ方」林貞年 現代書林

 催眠術をかけて、なにかよからぬことをしよう、なんてことを考えているわけではありません。心のふしぎを少しでもわかるように努力して、より良く生きていくための手段として催眠術を勉強してみようかな、と。「催眠術は無意識に対する教育」であると、著者はいいます。無意識というのは考えようによっては、ば恐ろしいものにもすばらしいものにもなるわけです。
 人間の心の大部分を占めている無意識を有効活用して、人生有意義にしたいものです。サイコセラピーとしても活用すれば、悩める人のよき相談相手にもなれることでしょう。
 某月某日
 「他人と深く関わらずに生きるには」池田清彦著 新潮文庫

 この書名のように生きてみたいと感じる人は、多分今まで他人と深く関わって、その結果深く心が傷ついた人なのでしょう。他人を思いやり、心優しく生きていこうと思う人が傷つきやすい日本の現実です。
 繊細さなどという美徳は、単に気が弱い、とみなされ、声が大きくて、恥を知らず、あつかましく生きていくことが価値上位であるとするのなら、孤立してひとりで生きていくわ、と思いたくもなります、よね。
 自己に恥じることなく生きよ、されば、道はひらかれん。

 某月某日
 講談社ブルーバックスの安斎郁郎著「霊はあるか」を枕の友として昨晩から読み始めました。
 最近はあまり取り上げられないみたいだけど、霊感詐欺商法なんてのも完全に撲滅されたわけでもないことでしょう。病気、貧乏、子ども、家族関係の不和、仕事、男女関係、これらすべてうまくいっている人なんて滅多にいないから、詐欺師につけこまれる余地は充分あるわけです。
 本来悩めるものを救うのは宗教であるわけですが、宗教団体に加入すると、必ず、少なからぬお金を寄付なり、お布施をするようし向けられていくわけです。入信すれば、お金は一切いらない、お金に困ったなら、無利子でお貸しします、寝るところがなければ、本堂でも、会館でもお泊まり下さい、などと太っ腹なところを見せるのが、宗教団体というものでしょう。
 まあ、私の知る限り、そんな宗教団体は日本にはないようでございます。宗教法人はなぜ税金面で優遇されているのでしょうか。消費者金融、パチンコ屋さん、と並んで、大きな儲けが期待できる商売です。
 この世で散々悪いことをしても、のうのうと生き延びて、そして幸せに死んでいく人間がいるとしたなら、霊の存在を信じたくもなります。なぜなら、この世で報いを受けないのであるなら、せめてものこと、あの世では充分苦しんでくれ、と考えたくもなります。不公平です。霊はあるのか、ないのか、こんなこともたまには考えてみて、ヘンな詐欺的商法にだまされないようにしたいものです。
 子どもの頃、お化け映画が好きでした。夏になると、怪談ものの3本だてなんてのを映画館でみていた記憶があります。四谷怪談、番町さらやしき、牡丹灯籠、エトセトラ、エトセトラ。
 知らないおとなの人のあとにくっついて、ただみをしていたようです。映画が娯楽の王様だった時代、多分小学校の低学年だったとおもいます。現実離れしたスクリーンの世界は、怖さ以上にわくわくどきどきさせられて、面白かった。今でも、怖い話や、ホラーもの映画は好きです。
 幽霊の正体見たり枯れおばな、というように、主体の幻想感覚が世界を形作るとはいえ、今の世の中、通常の共同幻想以上の事件が次から次へと勃発し、古典的お化け世界の恐ろしさが感じられなくなってきているようにも見えます。単純に想像力が衰えて、自分のやっていることがこの世界にどのような影響を与えているのかをイメージできていないかのようにも思えます。ケッコウ恐ろしいことです。

 某月某日
 人間死んだらどうなるか。
 こんなことを考えるタイプと考えないタイプの人がいます。
私は考えない方の部類に入ります。
 この世の、今のこの瞬間が大事と考えます。死んだあとのことなど知ったことか、地獄に堕ちようが、天国に召されようがそんなことはどうでもよろしい、その時はその時で対処すればいいのだ、と考えるタイプです。
 死んだら魂はどこに行くのか、真剣に考える人もいます。
 真剣に考える人の方がつきあって安心は得られますが、おもしろみは得られません。マジメになりすぎて、息が苦しくなってくるからです。
 巨人の長嶋選手が大好きでした。しかし、引退挨拶のときの「巨人軍は永遠に不滅です」のフレーズはひっかかりをずっと感じていました。
 長嶋のプレーという瞬間の不滅と、巨人軍という制度の不滅、これはちょっと違和を感じたんですね。
 人が死んで火葬に付されると、二酸化炭素が大気中に放出されます。この二酸化炭素が世界中に広がるものと計算すると、1リットル中に13万個ほどの自分の二酸化炭素原子が万遍なく含有されるといいます。牛のげっぷが地球環境に影響を及ぼす話もあります。
 質量保存の法則から、魂の質量なども考えてみることも面白いかもしれません。

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