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「うか」059

  酔夢亭読書日記 第18回

                       酔夢亭


 某月某日
 芝生の上にあぐらをかいて、弁当をのんびり食べている昼下がりの公園。鳩の群れが噴水のあたりに一団となって、みんなで地面の何かをつついている。
 サーと一羽のカラスが滑空してくるや、鳩の群れを襲い、哀れ、えじきになるものがあった。そんな光景を間近に見て、うむむ、と唸った午後であった。
 通常はいくら平和の使いといわれ、弱っちくて食いしん坊で糞ばかりあたりに散らかし、公衆の面前で平気に交尾している鳩であっても、そう簡単にカラスに食われることはないはずである。
 思うに、その鳩は余程弱っていたのではないだろうか。野生の世界では、弱っている個体は他の強い動物の餌になるのはいたしかたない。鷲の雛なども自分が生き延びるために、同じ親から生まれた兄弟を殺してしまうという。
 万物の生物に勝るといわれる人間界には、こういうことは起らないはずだが、近ごろの世相をみていると、人間も動物もたいして変わらないように思えてしまう。
 
 某月某日
 「アガサ・クリスティー自伝」の中に、二匹のカエルの話があるという。
 二匹のカエルが牛乳壺の中に落ちました。どうしても脱出できません。二匹ともおぼれないように泳ぎ続けていましたが、やがて一匹の方は「コリャもう駄目だ」とあきらめ、もう一匹は懸命に泳ぎ続けました。
 翌朝、あきらめたカエルは溺死し、泳ぎ続けたカエルは壺の中に浮かぶバターの小島の上にちょこんと乗っかっていました(『創造力をみがくヒント』伊藤進。講談社)。
 世界の枠組みは、おうおうにして自分で勝手につくって、その勝手につくったフレームに囚われてしまう。自縄自縛に陥る。枠組み自体を疑ってみるということは心理的にも、難しいことである。

 某月某日
 また、クリスマスの季節がやってきた。バーやキャバレーで大騒ぎする日、これはおじさんの発想。
 サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれる日、これは子供の夢である。かれしかのじょと一緒にロマンチックに過ごす日、これは年頃の男女の願望だ。
 ところで、クリスマスって一体何の日なんであろう?
 その昔。
 貧しいけれど、愛情たっぷりの若い夫婦がいた。二人の財産といえば、代々伝わる夫の金時計と腰まで伸びた妻のつややかな髪だけだった。二人は相手が喜ぶプレゼントをクリスマスの日に何としても贈りたかった。相手を喜ばせたかった。でも、お金がなかった。二人は金銭的にはすごく貧しかったのだ。
 妻は美しい髪を売った。
 夫は大切な金時計を売った。
 そして、プレゼントを買ったのだが…
 オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」というお話である。
 二人はあのとき若かった。あれから、30年。中年になった夫はときどき思うのだ。「妻の髪の毛はあれからしばらくしたら、元通りの長さになった。私の金時計はもう戻ってこない」(愚者の贈り物 ジェフリー・スコット・ベイカー)。
 クリスマスの日に、なぜ、プレゼントを贈らなければならないのか。
 郵便局に1500円払って申し込むと、サンタさんから手紙が届く。もうちょっと払うとプレゼントが贈られてくる。そこまでしてなんなのよ、とちょっと不機嫌になってくる。


「うか」060

  酔夢亭読書日記 第19回
                       酔夢亭


 某月某日
 鳩に餌をやらないで下さいと駅のホームに書かれている。それでも喜々としてパン屑などを与えている人がいる。糞の害に怒っている人が多いのになぜそんなことをするのだろうか。私にとっては理解できないことなので、餌をやっている人に尋ねてみようと思った。
 「あなたはなぜ鳩に餌を与えているのですか?迷惑になっているのを知らないのですか?」
 なるだけ自然に優しく、詰問調にならないように問いかけようと思う。そう思い立ってひと月が経つが、そうした場面に出くわさないのはどうしてだろうか。 
 
 某月某日
 ある朝、玄関を出た途端に頭上からカラスの糞が墜ちてきた。カラスの糞というはのご存知の通り、至極タチが悪い。これを浴びせられたらちょっとそのまま出かけるというわけにもいかない。量が多い上、重力の加速度もついているから、物理的な衝撃が大きい。そして精神的ショックも大きい。被害甚大かつ理不尽である。
 理不尽と言えば、歩道を歩いていてバッグや身体の一部にこつんとあたっていながら、スマナイ、の一言もなく走り逃げていく人がある。あるとき、私の右肘にハンドルをこつんと当てながら知らん顔をしていく若い女性がいた。まちたまえ、きみ、私は少し声を荒げ、自転車のサドルにのったぴちぴちしたお尻を追いかけていた。待ちなさい、きみは道交法違反だ、轢き逃げだ、心の中ではそうわめいていたが実際の発声はどうなっていたかはっきりしない。
 気がついたら私は道ばたでぜいぜい息を切らしていた。
   
 某月某日
 個人的好みからすれば、偽善者よりも偽悪家の方が好きである。良い子ちゃんよりも不良の方が好きだった。今でも多分そうである。
 不良になって、毒のある言葉を吐き、自分の膿を出せばいいと思うのだが。
 きれい事の範疇に収りきれないから、悪ぶったり毒をまき散らしたりすることにより、人間は本能的に大きな危機を回避して生き延びてきたのではないか。
 
 某月某日
 ただ今酔夢亭は様々な人の書いた「文章論」を読んでいるところである。
 読書量が足りないことをただ恥じ入るばかり。


「うか」061

  酔夢亭読書日記 第20回
                       酔夢亭


 某月某日
 「マンガを読んで小説家になろう!」(大内明日香、若桜木虔共著)を読んだ。
 「純文学小説家志望者」、「金持ちになりたくない人」、「大天才の方」お断り、「ドキドキワクワクするお話が書きたい!」、「お金を儲けたい!」、「作家としてちやほやされたい!」というような煩悩全開のもの来たれ、という本である。まさに私のために書かれたような本ではないか?
 小説を読んで、つまり字で書かれたものを読むよりも、マンガの方がストーリーの組み立てが簡単にわかるということである。それに漫画本の世界は厳しくて、売れてなんぼのもので、読まれなければ即連載中止になるらしい。要するにお話がおもしろいものでなければいけない。
 私もこれまでなんどか小説を書こうと試みたが、書いているうちに自分でつまらなくなってくるのである。世の中にはおもしろい本がいっぱいあるのだから、そっちを楽しんだ方が良いではないか、と精神は荒野を目指さないで、安楽を目指してすたこら逃げていく。技術も設計図もなくいきなり家を建てることは無謀であることは分かるのに、ものを書くことには技術も設計図も無く挑むのだから、挫折して当然である。なまじ作文のようなものや、日記のようなつれずれが簡単に書けてしまうので錯覚を起こしてしまうらしい。自分だけがおもしろがって読む人の身になっていなければいくらだって書けるわけだ。それは一種の呪文みたいなものだ。こんなことを綴っているとこの拙文自体が呪文じみてきた。
 とにかく、ものを書いて発表することは自分のためではなく、読者のためである、ということを確認したい、と思う。「小説の第一条件は、読者に興味を起こさせることである」(バルザック)。
 こうは言っても、「小説家は本当に生まれながらにして小説家なのでしょうか」(大塚英志著「物語の体操」)。確かにすぐれた作家の出来上がった作品を読んでみると、こちらの創作意欲は完全に打ちのめされてしまう。ドストエフスキーや夏目漱石を読んだあとで、原稿用紙の白々したマス目に向かったとき、われは一体何を書かんとしているのか、と茫然自失して書く意欲は一気に阻喪してしまうのである。
 しかし、それは出来上がったものを、完成した建物を眺めているようなもので、穴を掘って基礎を固めたり大量の資材を運び入れたり、柱を立て、張りをめぐらし屋根を葺いたりする膨大な労力の集積を考えていないからだと思いたい。

 マンガ自体は子どもの頃から大好きで、30代の半ば頃までよく読んでいた。それがある時期からさっぱりおもしろくなくなり、今ではまったく読まない。しかし、このところテレビや映画の原作がマンガ、というパターンが増えているのは、やっぱりおもしろいのかなあ。
 外国の有名なサッカー選手たちも、「キャプテン翼」におおいに触発されるようである。イタリア代表のアルベルト・ジラルディーノはかく語る。「小学校のクラスメイト全員が翼に夢中だった。サッカーする時、誰もが翼になりきっていた。プロのサッカー選手になる事が夢だった僕らにとって、翼が歩んでいた道こそ僕らの夢そのものだったんだ。でも、一番インパクトのあったプレイは実は翼のものじゃなくて立花兄弟のアクロバティックなプレイ!あの驚異的な技に、テレビの前の僕は口を開けたまま、身動きひとつできなかったよ。」


「うか」062

  酔夢亭読書日記 第21回
                       酔夢亭

 某月某日
 斎藤美奈子「趣味は読書。」を読む。ベストセラーの本を新刊本で買って読むのはなんとなく抵抗がある。「売れている」ってだけでなんとなく付和雷同して読むのは、忙しい知性人としては取るべき読書の態度ではない、などとつぶやく。それにブックオフなどで待っていれば、多少流行遅れにはなるけれど、105円で流れてくるわけだしね。しかし触りだけでも知っておきたい、話のたねにしたい、そんな無精な人の代わりに斎藤さんがベストセラーを読んでくれた。名付けて「読書代行業」。
 読んでくれた本は、たとえば、「大河の一滴」(五木寛之)、「頭がいい人、悪い人の話し方」(樋口裕一)、「鉄道員(ぽっぽや)」(浅田次郎)、「プラトニック・セックス」(飯島愛)、
等々の50冊ほど。意外だったのは、江藤淳の「妻と私」がベストセラーになっているということ。死ぬことによっても「作家は行動する」。
 読んでもらったけれど、本はやっぱり自分で読まなくてはつまらない、という向きはやっぱり自分で読むに越したことはない。
 続けて斎藤さんの「モダンガール論」。女の子には出世の道が二つあるわけで、ひとつは男の子と同じように立派な職業人になること、もうひとつはこれは男の子とは違って立派な家庭人になることであった。女の子は日本の近代化の100年、この二つの出世観の間で揺れ動いてきた、という。「進歩史観や抑圧史観は、歴史を正義の味方の目でみる視点」だから、そんな視点は廃して、「リッチな暮らしがしたい、きれいなお洋服が着たいという目先の願望から、社会の中で正当に評価されたい、人生の成功者と呼ばれたいという大きな望みまで、人々の欲望が渦巻くところに歴史はできる」という「欲望史観」から女の子の近代史を再構成してみようというわけである。
 平成、昭和のコギャル(女子高生)やギャル(女子大生)が世の大人にバッシングされたように、明治の女学生も同じような目に遭っていたらしい。いわく、「女学生は亡国的だ!」、「女学生のファッションはなんだ」、「言語は花柳界の賤しき輩の用うる言語、又流行の履物とか衣服の色とかいうに至りても、価さえ高ければよきものと心得、不釣り合のものを用い」たりしてなんたることか、と説教されるわけだ。
 そういう意味では女の子は男の子より打たれ強いのかもしれない。打たれもしない、悩みもしなかった男の子は、何より思考停止的にすぎたのであろう、やけに元気がないものね。男の子のなれの果ての中高年のだらしなさ加減には我ながらいやになる。

 某月某日
 福沢諭吉はアナーキストであった、と浅羽通明「アナーキズム」に紹介されている。福沢は、理想の政治体制について問われて「それは無政府だ、政府や法律のあるのは悪いことだ」、と無政府主義を説いた、という。幕藩体制の崩壊と維新政府の樹立を目の当たりに見ている福沢にとって政府に対する幻想など余り無かったに違いない。
 アナーキズムというのは、「現実という体制」を疑うための強力な武器になる。たとえば、人は国家というものに属している、ということに何の疑いをも持たない時代、これは長い歴史の中でたまたま遭遇している幸福な時期というべきではないだろうか。
 しかし、ある時相手のアラがなにかの拍子にみえてしまった。そのアラはどんどん大きくなって、もはや我慢できなくなったとしよう。男と女であれば、多少のこじれはあっても別れれば良いだろう。住んでいる地域がイヤになればどこかへ引っ越してしまえば良いかもしれない。しかし、国自体がイヤになってしまったらどうするか。
 かつては、マルクス主義に基づく革命幻想があったからまだそうしたイヤになった人間にも救いの道があったが、共産主義は資本主義に完全に負けてしまった。かといって勝利を得た資本主義が、最大多数の最大幸福を実現しているとはとても思えないのも確かである。それは現実にここに生きている私達が充分承知のはずだ。
 一家でボートに乗り込み、海の外に逃げ出すほどの絶望はないけれど、さりとて希望に満ちた国であるようにも思えない。
 アナーキズム的な視点、たとえば、アナルコキャピタリズム、などから現実を捉えなおして考えたりするのも時には思考の訓練になるかもしれない。


「うか」063

  
酔夢亭読書日記 第22回
                       酔夢亭


 某月某日
 仕事が混んでくると、どういうわけか同じ時間帯に2つも3つも重なってしまうことがある。ダブルブッキングどころではない。それをやりくりして、微妙に時間をずらしたり分身の術などを使ってなんとかこなしているのが忙しい現代人かと思われる。
 ところでそんなてんてこ舞いのときに限って、出がけに電話がかかってきたり、身内の者が体調不良を訴えたりする。それをなんとかうっちゃって、なだめすかして駅に着いてみると人身事故で電車が止まっていたり・・・。そんな経験ありません?
 こういう状況に陥ることを「踏んだり蹴ったりの法則」とわたしは秘かに名付けている。
悪いことは重なる、一難去ってまた一難、ハンダ付けをしていてハンダ鏝が床に落ちそうになったのであわててつかんでやけどした挙句、あまりの熱さに床に落として高価な絨毯を焦がしてしまったりとか、何をやってるんだかわけが分からないことがある。
 先日も補助金の申請書や役所に届ける書類を作成していると突然、パソコンの電源がくしゅんと切れてしまった。オイオイ冗談はよしてくれよ、忙しいんだから。しかし、我がパソコンはスウィッチを押そうが叩こうがもう、うんともすんとも反応しない。画面がフリーズしたのどうのというレベルの問題ではない。電気が流れないのである。
 電気が流れないパソコンなんてタダの箱であり、わたしはおおいにあわてた。とにかく電源コードを抜き、パソコンの箱に繋がっているケーブルをはずし、机の下から乱雑を極めた机の上にとにかくひきずりだした。最初にわたしは電源部のあたりの匂いを嗅いでみた。怪しいものは匂いで分かるというではないか。そう、確かになにか焦げ臭い。焦げ臭いということはどこかでショートして何かが燃えた、ということではないか、とはだれもが推理する。わたしもそう判断した。電源部分は長く使用しているとコンデンサだかなんだかがイカレてしまうことがあることはなんとなく知っている。
 わたしは翌日ビックカメラに出かけ、早速電源部を6千円ほどで購入してきた。パソコンを分解すると埃が凄まじかった。埃が燃えたのではないかと思えるほどである。子どものころから分解は得意である。分解は得意であるが、もとに戻すのは不得意であった、という記憶がパソコンを開けながらわたしの気持ちを落ち込ませようとしていた。

 某月某日
とにかく毎日書きなさい、どんなひどい環境であっても書きなさい。ブライアン・フリーマントルは、通勤電車のなかで毎朝執筆したという。それ以外時間の持ち合わせがなかったからだ。
コリン・デクスターはかく言う。下らないものを山ほど書きなさい。何かを書けばなおしようもあるが、何も書かなければそもそも出発しようがない、と。

 某月某日
我がパソコンはどうにか旧に復することができた。
安堵と共に危機管理の必要を感じた。パソコンの中にはマザーボードという配線のメイン基盤があることなども今回の分解でなんとなく分かった。
 思うに、パソコンがなければどうするか。わたしはいろんな表を手書きで書こうと思い、実際そうしてみた。定規を使い線を引き、文字を丁寧に書いてみた。そうするとなぜか妙に落ち着いてきた。なにか手応えのようなものを感じたのはなぜだろう。
 いずれにせよ、役所に対する自立支援の給付金申請も10月から電子申請になるわけで、パソコンはとにかく健全に維持しておく必要はある。


「うか」064

  酔夢亭読書日記 第23回

                       酔夢亭


 某月某日
 カドを曲がった途端、がつんとぶつかった。やけに固くて油っぽい奴だ。よくよくみれば、ぶつかった相手はゴキブリではないか。
「痛いじゃないか、このゴキブリ野郎、すみっこばかり歩きやがって」
 そう罵声を浴びて、我が身を振り返れば、なんとわたしはゴキブリになっていたのでした・・・。
 暑い夏でした。現役の世界チャンプにゴキブリみたいなボクシングをする、と嗤っていたええかっこしーの芸人みたいなボクサーをわたしは嗤えなくなってしまった。
 人類発生のはるか以前3億年前から生き続けている、色さえちょっと替えれば、玉虫と大差がないこの昆虫をなぜ、かくもわたしたちは蛇蝎のように嫌うのでしょうか?
 「ゴキブリ取扱説明書」青木皐(ダイヤモンド社)。
 たくましいゴキブリも今年の暑さには参ったようで、動きが鈍かったようには思いません?
 
 某月某日
 荒々しい自然の中に晒されると、人間だって本来の動物性があらわになる。人類の祖のアダムとイブがそもそも楽園を追放されているのだから、その後の子孫、末裔は苦労を運命づけられているのは仕方のないことだろうか。彼らの長男カインは人類初の殺人者、弟殺し、嘘つきの始まり。「カインの末裔」有島武郎(岩波文庫)、「怒りの葡萄」スタインベック(新潮文庫)。
 ところで、人間と動物に違いはあるか。違いがあるとしたなら、それは何か。
 「人間は新たな価値を創造する存在である」産業財産権標準テキスト(社団法人発明協会)。
 では、新たな価値を創造することができなければ人間ではないのか。わたしが食べ残したまずい弁当をごみ箱から拾い出し、遅い午後を摂っている年老いたホームレスは「新たな価値を創造する存在」であるのだろうか。この際、何もホームレスを引っ張り出さなくても良い。このわたしが「新たな価値を創造する存在」といえるのだろうか。
 すべての人間が、ヴィンチ村のレオナルドであるならば、これはすばらしい。すべての人間には無限の可能性がある。そうであろうか?すべて、ではないのでは?
 こうした疑問に具体的に答えていくだけの力量が今のおとなや社会にはあまりにも無さ過ぎる。まあ、これは人に求めないでわたしが考えていくことでありますが。
 「ダ・ヴィンチ7つの法則」マイケル・J・ケルブ(中経の文庫)。

 某月某日
「わたしに触らないで」。
いけ好かない奴とか、図々しい人がべたべたくっついてきたり、なれなれしいとつい身を固くしてしまうことがある。これは人に対しての拒絶であります。
抱っこイヤイヤ赤ちゃん、なる現象があるらしい。
五感のなかで、触覚というものがわりと注目を浴びていないように思う。タッチすることで人間同士かなり親密になるわけで、「わたしに触らないで」という意識のありようはある意味心の病であるように思われる。
五感を解放し、満足させる生活方法について意識的になるべきですね。「五感生活術」山下柚実(文春新書)。


「うか」066

  酔夢亭読書日記 第24回

                       酔夢亭


 某月某日。妄言甚だし。
 「紅一点論」斎藤美奈子(ちくま文庫)。
 萬緑叢中紅一点。いわゆる紅一点。むさ苦しい男ばかりの職場に心なごます乙女がひとり。職場の花、マドンナだ、癒やされる、かわゆいなどと鼻の下を長くしてにやにやとやに下がっているとセクハラになってしまうのでご用心。
 男の意識にはそんな男尊女卑(かどうかしらないが)のロマンチシズムがはびこっている。今どきの女性からおおいに反発されてしまう由縁である。
 男と女の間には深くて暗い溝がきっとあるのでしょう、男が女に求めるものと、女が男に求めるものとはなんかやっぱり違うような気がする。
 「わたしこの人のお嫁さんになりたいわ」通りすがりの雑踏の中でさっき耳にしたばかりの女性の会話である。そのうち「ぼく、この人のお婿さんになりたいな」と男の子も言い出すかもしれない。
 男は雄々しく、女はしとやかに、という躾けのしかたは非民主的な考え方で、女のくせに、歩きタバコはするな、くしゃみするときは口を押さえろ、って言い方はいけないのだそうである。「女のくせに」っていう特定が駄目なわけでごわす。
 こんな時代を生き抜くためには、年寄りのたわごとみたいなものをごちゃごちゃほざいていたら、馬鹿にされればよいほうで、しかとされて(存在なき者とみなされて)歯牙にもかけられなくなってしまう。
 機を見るに敏にして、あちらでにこにこ、こちらでふんふん首肯し、気に染まないことを鼓膜が感知しても聴かないことにしていればよろしいわけで、すべては馬耳東風、馬の耳に念仏。さういうひとにわたしはなりたい。なれるかなあ。
 思うに、もともと生物的に男は弱くて(心もからだも)、女はその逆ではないのかしら?
 こう考えるにはもちろんわたし自身男であるには違いないけれど、女よりも強いと思ったことはほとんどない、という人生の苦い実感に基づいているわけだが。
 男が女にまさるものは、体格(図体の大きさ)と筋力(瞬間的暴力性)だけで、親あるいは社会共同体による躾もなく育てられると如何なることになるか、思い詰めた野獣は恐ろしいわけで、昨今のストーカー事件などをみていると男の女々しさはあまりに情けない。
 まず、親は子を徹底的に可愛がり(基本に愛情がないことには始まりません)、その上で社会法を教えるべし、そのためには親たるもの犬猫の調教法を学ぶべし。いわゆる、飴と鞭である。
 結論、男は男らしく、女は女らしくという風に親は我が子を育てるべきではないですか、と保守反動的な言辞を弄したくもなる。
 先刻も本屋さんで暴れまわっている「ガキ」に、ここはそういうことをする場所か、となるべく優しそうな口調でにっこり睨んでやると、子どもはもぞもぞとして逃げていったが、お母さんの方はなんだこのじじいえらそうな口きくんじゃないよ、という表情をしていました。こりゃやっぱり子どもの責任ではなく、親の問題ですな。
 いやあ、マジメになりすぎて胃が痛くなってきた。暴走老人が逆ギレして、暴れまわらないように自戒しなくちゃ。

 某月某日。感傷甚だし。
 「金融腐食列島」上・下(講談社文庫)、「亡国から再生へ」(光文社)高杉良。
 小泉純一郎、竹中平蔵コンビがやらかしたことはとんでもないことだったのかもしれない。竹中平蔵なんて名前だから、先代松本幸四郎演じる長谷川平蔵みたいな渋い人物を想像していたら、全然違っていて実物はとっちゃんぼうやみたいな風貌で、これはこれでなかなか親しみがもてるなあ、なんて好感をもっていたのですが…。イメージと中身の違いは往々あるもの、気をつけなくちゃ。小泉純一郎にしても、見方によれば、細身で、メタボリック症候群などとは縁がないようにみえて、好感が持てた。
 しかし、エッセイストで作家で発明マニアでもある米原万里さんによれば、「貧相の薄ら笑い」にしか元首相はみえない。
 一億総ざんげ、そんな言葉がむかし流行した。一億総中流化意識というものもあった。そんなむかしのことではないように思いますが、今から考えれば想像できないような意識です。
 終身雇用制、年功序列社会。これが本当に悪かったのか、どうか。悪い面はいっぱいある。受験勉強を勝ち抜いて有名大学に入学できた、大企業に入社した、上級国家公務員になった、地方公務員になった、教師になった、親方日の丸になった、これで終生人生安泰。
 若くして生活の不安から解放されると、女の場合はどうなるか分からないけれど、男の場合は大概、飲む、うつ、買うに興味を持ちます。
 こういう感覚に対する反感をうまく利用して規制緩和、市場原理、自己責任、などのフレーズがすごく新鮮にみえたのだが。
 日本型旧制度を否定して、アメリカン一辺倒になったとき、日本人の悪い面がどっと吹き出した。村意識とフロンティア精神は相容れないスピリッツではないのではないか?村意識とは横並び意識、みなが並ぶからわたしも並ぶ、この店のラーメン本当にうまいのかどうか、分からないけれど、とにかくみなが行列をつくっているからきっとおいしいのだ、みたいなイキとはいえない田子作的意識のこと、なんていうと怒られるかな?
 イキとは色っぽさから立ちのぼる生き方の美意識みたいなものだと思うのですが、最近は、おっイキだね、かっこいいな、って感じる事例があまりにもなくなって、さみしい限りです。
 衛星かぐやの月からの地球の映像、月の地平線から元旦の旦の漢字の如く蒼き水の惑星が立ちのぼっていく光景、これは感動的でその美しさに涙が出そうになります。我らの地球はかくのごとく美しいのに…。


「うか」067

  酔夢亭読書日記 第25回

                       酔夢亭


 某月某日。
 方丈の仕事場が、本や書類やその他がらくたやらで二進も三進もいかなくなってきた。その場その場で処理していかないからこうなることは分かっているのだが、根が呑気で快楽主義者だから、なかなか思ったようにはいかない。一点突破的に目の前にある仕事や書類を集中的に片づけていけばどうということもないのだ。あっちに色目を使い、こちらでにこにこ笑い、頭のなかはよからぬ妄想に満たされていたりするから仕方ない。電話が鳴り、携帯がぶるぶる震えている。ファクスも入ってきた。あーもういやだ。書を捨てよ、遊びに行こう。で、ますます散らかしっぱなしになってしまうのである。
 「読書の整理学」紀田順一郎(朝日文庫)。本に関しての情報収集と整理の仕方を伝授してくれる。散らかし放題の頭を整理するためには有用である。20代の始めの頃、酔夢亭も図書の分類整理の仕事をかじったことがある。職場は地味で、細かなことにこだわる先輩諸氏が大勢いて、波瀾万丈を夢みる人間にとってはおもしろいものではなかった。細部の重要性、その大切さが分かるのが職人の世界。一芸に秀でるためには日々飽きることなく同じ動作なり、稽古なり、しきたりなどに従わなければならない。分かっているんだけれどなあ。

 某月某日。
 胃が痛くなったので、医者に診てもらった。胃の後ろの背中も痛む。ゲップが多発する。ついに我が体内にもエイリアンが侵入したかと思ったが、処方された消化薬を何日か飲んでいるうちにけろりと痛みがなくなった。単純すぎて笑ってしまった。ピロリ菌も基準値以下でめでたし。
 「生物と無生物のあいだ」福岡伸一(講談社現代新書)。「生命とは何か?それは自己複製を行なうシステムである」と単純に考えて良いものか、どうか。そして、筆者は「生命とは動的平衡にある流れである」という結論に到達する。生命はさらさら流れる砂の城でありながら、城の形を維持している。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、のように分子は流れていき、一年も経てばわたしたちは分子レベルではもとのわたしたちではないということらしい。脂肪組織だって「驚くべき速さで、その中身を入れ替えながら、見かけ上、ためている風をよそおっている」のだ。
 「いつまでもデブと思うなよ」岡田斗司夫(新潮新書)。一年で50キロの減量に成功したおたく学の泰斗の物語である。さらさらと脂肪組織が流れてゆくのが、目に見えるようだ。入るを制して、出るを図る試み。福沢諭吉が親の仇のように嫌った「家柄主義社会」から「学歴主義社会」、「ブランド主義社会」へ、そして今「見た目主義社会」が到来したと筆者はみるのである。
わたしも20代のころの体重に戻そうと少しばかり心がけていて、徐々に成果は現れている。身も心も軽快に、ってことで。


「うか」068

  酔夢亭読書日記 第26回
                       酔夢亭


 某月某日。
 ときの権力に弱く、横並びで自主独立自尊の念のない人間を酔夢亭風に言えば、田子作と名付けるわけで格別田舎もの或いは地方出身者を差別罵倒しているわけではありません。自尊とはソンを承知で痩せ我慢したり、一寸の身であっても五分の魂があるんだ、という心意気みたいなものですが、そんなスカッとする人格に最近とんと遭遇しないために、ストレスがたまり、挙句便秘症に陥り、うんうん呻っても何ものをも体外排出できず、産みの苦しみとはかくなるものか、とか妙に感慨深くなったりする朝もあります。鬼畜米英が一夜明けると「拝啓マッカーサー様」ですものね。

 かくの如く節操なき国民気質を有してはいるものの、黒船の出現により自閉の平安が無理無体にこじ開けられた日本が、他のアジアやラテンアメリカのように西欧の植民地にならなかったのはなぜでしょうか。「日本近代技術の形成」(中岡哲郎 朝日新聞社)。
 ここに介在してくるのが、自主独立自尊の念を持った人々、サムライや職人や頭と手と心意気でなんとかしなけりゃ国が滅びる、みたいな危機意識をもった人々がウンカのように、梁山泊の豪傑たちのように、八犬伝の八犬士の如く、次々と登場したわけです。
 幕末維新の物語は血湧き肉踊るわけですが、平成の現代もグローバルの波に翻弄されて、ペリーの黒船以上に危機的状況にもみえないことはないと思いますのに、あの溌剌とした御一新の頃のような若き改革者がなにゆえに出現してこないのか、ちょっと不思議であります。
 平成の日本人はなんだか軟弱ひ弱になって、3丁目の夕日、みたいな、屁のつっぱりにもならない映画に感動して、昭和30年前後のノスタルジアに耽っているようですが、その頃は高度成長が始まる頃の貧しい日本であり、差別用語が平気で飛び交い、タン壺が町のそこかしこにおいてあるような、江戸川乱歩的なぽんぽん船長的な、かちどき橋が八の字に開くような時代だったのでは?吉本隆明いうところの大衆の原像が虚像でなく、実像として幻想できる時代だったのかもしれません。まさに、ドブ板の臭うような日本、糸ミミズが棲息し、夕方になるとコウモリが飛び交うような下町の風景。しかし、それはそれで、昔の光景に過ぎないと思う。
 そのかつてのまぼろし探偵や、貸本屋的世界を懐かしんで、眼をうるうるさせているようでは戦争を知らない子供達として、かつてのヒッピーとして、全共闘として、アバンギャルドとして、レボリュウショナリストとして、詩人として、あまりに退嬰的で尾羽うち枯らし過ぎじゃないでしょうか。

 「はてな、明治維新後、江戸の町奉行所の連中はどうしたのかしら?」山田風太郎はそんな疑問を感じ、「警視庁草紙」を書きました。警視庁ができたのは明治の初年代で、この新体制の警視庁という役所とお馴染み江戸時代の町奉行所とどういう関わりがあったのか、どういう事務引き継ぎがあったのか、などという下世話な疑問も出てきたりします。「江戸南北町奉行と御一新後の事務引き継ぎ」(酔夢亭阿呆 羽化出版)。阿呆によれば、江戸時代(慶応)から明治時代へと変わったときの事務引き継ぎというものはまったくなく、なし崩し的にまあまあなんとかなんとなく引き継がれていくみたいな阿吽の呼吸みたいなもので、これは今日の役所の事務引き継ぎに応用されていて、つまり役人における無責任体制の永遠性、という論旨になります。
 江戸の首切り役人が維新の後も刑務所で、首切りの仕事をしていて、死刑の執行方法が斬首から段々絞首刑へと移行していくことに職業的危機感を感じていたようですが、はなはだ人間的世俗的であります。首切り役人といえば、「子連れ狼」の拝一刀をすぐ思い起こしますが、警視庁巡査のなり手には、旧幕府や各藩のお庭番、新撰組OBなど多士済々であった様子。日本の役人根性と田子作性を研究するには、維新と太平洋戦争敗戦後、そして現在を結びつけて考察していけば、ひとつの日本人論、官僚、役人論を展開できるかもしれません。
 ところで、幕末の志士たちの危機意識を駆り立てさせ、ナショナリスムに走らせたのは、なんといっても西洋の近代技術の圧倒的優位性でした。その優位性を典型的に示したのが、大砲と軍艦であったわけです。大砲と軍艦に示された西洋近代技術の脅威との闘いが幕末明治における近代日本の進路を決定づけたともいえます。


「うか」069

  酔夢亭読書日記 第27回
                       酔夢亭


 某月某日。
 警視庁を見学。見学に行くのは2回目である。内堀通りの向う側にはご存知桜田門があり、桜田通りを挟んでは、法務省の赤煉瓦棟がかいま見える。警視庁の中には警察参考室というものがあって、じっくり観察してみれば、なかなかおもしろいものである。美人婦警さんのガイドも感じが良い。山田風太郎描くところの「警視庁草紙」のイメージからすると初代警視総監の川路利良は、かなりの切れ者、神経質そうな感じがしたものだが、実際の写真をみてみると眼がくりくりっとして人なつっこく感じられるが、さてどんなものであろうか。
 極悪非道なことをした犯罪人を如何に裁いて、罰するか。「市中引き回しの上、はりつけ獄門」なんて判決、こりゃすごい。磔の図も、獄門の図も展示されていて結構なまなましい。磔にされた挙句、槍で急所を差しつらねかれ、最後は首を切られ、その首がさらしものにされる。刑罰は見せしめのためにあるということがはっきり分かる。
 警視庁は桜田門の前に建っているので、桜田門といえば、警視庁の代名詞。そして、桜田門外の変。NHKの大河ドラマ「篤姫」で井伊大老を演じている役者の親父さんがかつて大村益次郎役だったのだから、感慨深い。その井伊大老が出勤途中に暗殺団に襲われる。その乱闘の模様を杵築藩の江戸藩邸の窓から見つめていた者の記録によれば、「その様 真剣は程隔て、せり合うよし、昔より聞及び候へ共、左はなく(そうではなく)、刀半ば又は鍔方際(つばもとぎわ)にてせり合い」、その結果、「乱闘後の雪の上には斬り落とされた多くの耳や指が残ってい」たというから、生々しい話だ(吉村昭 「史実を歩く」文春新書)。
 警視庁が創設されたのは、明治7年1月15日のことだそうだが、「およそ維新前文久二、三年から維新後明治六、七年のころまで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で」、「東京に居て、夜分は決して外出せず」、「欠落ちものが人目を忍び、泥棒が逃げてまわるような風で、誠に面白くない」(福沢諭吉 「福翁自伝」)危険な時代であった。
 「明治元年官軍の江戸進駐と同時に、江戸町奉行所は市政裁判所と改められ、ついで進駐諸藩の藩兵が市中取締りにあたり、二年六月、版籍奉還以後は、お傭いの府兵なるものがその任につき、四年十一月に至って邏卒という制度が出来」たのである(山田風太郎 「明治断頭台」明治小説全集7)。「当初は、地方の警備や武力的鎮圧を行う軍務官(のちの兵部省)と犯罪捜査等を行う刑法官(のちの刑部省)、反政府陰謀やテロの偵察を行なう弾正台の三本建ての制度であった」とのこと。(警視庁創設記念日
 山田風太郎の「明治断頭台」では、川路利良は太政官弾正台大巡察として登場する。そして、「警視庁草紙 上・下」の舞台は明治六年の十月二十八日のまだ早い朝、西郷隆盛が東京を離れる場面から始まる。そのとき、川路の肩書きは司法省警保寮大警視である。
 「警視庁草紙 上・下」は、しかし、川路大警視が主人公ではなく、実は、もと南町奉行所八丁堀同心千羽兵四郎である。
 「幕臣たちの明治維新」(安藤優一郎 講談社現代新書)を読むと幕臣たちの維新後の悲惨さがひしと迫る。悲惨な日常を我慢して生きていくと、悲惨が悲惨を呼ぶような事態が生じてきて、ちょっとゆううつになってくる。
 思うに、ここで、起死回生の心ときめくことを夢想するのが、夢やぶれた人間たちにとっての最後のよりどころであるのかもしれない。さて、夢破れ、現実生活にも破綻した後、起死回生の秘術があるやなしや?


「うか」071

  
酔夢亭読書日記 第28回
                       酔夢亭


 某月某日。
 日本では小林多喜二「蟹工船」、ドイツではマルクス「資本論」が売れているということで、いよいよ虐げられたプロレタリアートが連帯決起し、厚生労働省あたりに丸太ん棒抱えて突撃でもするものと思いきや、そんなことは起らない。孤立した個人が痙攣症状を起こしているようにみえる社会的事件が頻発するのみだ。
現代の進化を遂げた労働者たちはひたすら耐えることを選んでいるようである。先行きの生活不安等に打ちひしがれ、心身を酷使しているせいか出勤前に疲労回復のための点滴を受けるのが昨今の「労働者」のトレンドであると、朝のNHKニュースで報じていたりする。
 確かに巷には疲労困憊している人々、大衆、人民、庶民、貧民、があまりに多すぎる。
労働者を雇用する企業がなりふり構わない自己防衛をはかり、姑息な雇用形態を取っていることもボディーブローのように効いてきている。ボーとしている人間や能力が不足していても養っておくことができるくらいの余力はかつての会社にはあったような気がする。

 二世三世の宰相が「国の権威」という幻想さえも失墜させ、有能であると思われてきた官僚たちの能力もさほどのことでもなかったと世間に知れ渡ったとき、疲労感はますます募るばかりだ。
 何はなくても楽しい我家、今は貧乏でも努力すれば明日の希望がみえてくる、そんな時代ははるか彼方に過ぎ去って、国も個人も借金まみれになってしまった。子どもの小遣い程度の給付金で現状打破できると本気に政治家が考えているとしたら、マンガ好きを通り越してマンガそのものではないか。
 「日本の借金時計」によれば、現在の日本の借金は800兆円を超す額となっていて常識的に考えれば、破産状態である。国が破産したらどうなるかはちょっと想像できないが、幕末から明治にかけての頃と、太平洋戦争終結後の混乱状況を考えてみれば良いのかもしれない。どちらの時代をも経験した人は多分あまりいないようであるから、歴史認識の問題になってくる。

 参照文献
 「貧民の帝都」塩見鮮一郎(文春新書)
 『「お金」崩壊』青木秀和(集英社新書)

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