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顧 み て (2)
                    
岡田 健嗣

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 今回は私の極私的な当時の情況からお話を始めさせていただきます。
 1980年代に入ろうかというころ、私も生活の基盤を固める必要に迫られて、独立に踏み切りました。つまり俄然身辺が慌ただしくなってしまったのでした。そのために1年ほどは、漢点字から遠ざかった生活を送っておりましたが、少しずつ生活のペースが整って来ますと、何か物足りないものを覚えるようになりました。何が物足りなかったのかと思い返しますと、折角何とか終了した当用漢字の漢点字の習得も、このままでは使わないままに何れ忘れてしまうのではないか、という危虞を抱いていたからのように思います。
 通信教育を受講していたころは、川上先生ともお手紙のやり取りをしていましたが、受講を終えますと、毎日の生活に追われて、個人的なお話をすることもなくなりましたし、年3回か4回送られて来る『新星通信』という漢点字版の日本漢点字協会の機関誌を読むことだけができることという、先生との間も、細々と繋がりを保つのがやっとという状態となってしまいました。
 川上先生は、漢点字の普及に当たり、どういうことをしなければならないかということを、『新星通信』の誌上で語られました。そして私自身もそのご見解に、原則としては異議を挟むことはできないものと伺っておりました。
 その川上先生の漢点字の普及の方法を、私の言葉に置き換えて記してみたいと思います。それは、多くの視覚障害者に、漢点字を習得してもらう、それはこれまで行って来た通信教育を継続することによって行う。だが、それだけでは漢点字を生かすことにはならない。漢点字を文字として生かすためには、漢点字を習得した視覚障害者に、漢点字で表された書物を読んでもらう必要がある。多くの書物を読むことで、そこから知識を得ることと、そればかりでなく、考え方のプロセスを推し進めて行ってもらうことができるし、それが最も大事なことなのだ、というものだったと思います。川上先生は、いただいたお手紙の中に、沢山本を読んで、「思想を豊かにして欲しい」とおっしゃっておられました。
 そこで先生の行われたことは、漢点字ボランティアの育成と、漢点字書の製作でした。
 製作された漢点字書は、『新星通信』に紹介されて、点字図書館と同様の方法で、郵送で貸し出されました。
 私も何冊かお借りしたことがございます。
 今その読書の印象を記しますと、大変驚いたことを思い出します。私達視覚障害者の読書と申しますと、それまでは、カナ点字で書かれた点字書を触読するか、あるいは音訳者の方が読み上げて音訳されたものの録音図書を聴読するという方法でした。それらは、基本的には話し言葉の音声に沿った音(カナ)で表されたものだと言うことができると思います。
 ところが川上先生のお作りになった漢点字書は、たとえば明治の作家である國木田独歩の短編がありました。それは、独歩の書いた当時そのままに旧仮名遣いで書かれたものでした。「旧仮名遣い」、不思議なお話ですが、私には大変新鮮な体験だったのでした。お話には聞いておりましたが、旧仮名というのは大変読み難いものだと思い込んでおりましたが、初めて触れた印象は、日本語の本来の姿に接した思いがしたことを覚えております。それに比べて私がこうして書いている現在の文章は、どこか雑な、荒いものに思われても来ました。現代の仮名遣いで「思う」「言う」と書くところを、旧仮名遣いでは「思ふ」「言ふ」と書きます。現代の送り仮名では「あいうえお」を使うところを、旧仮名遣いでは「はひふへほ」が用いられます。また、原則はよく分かりませんが、現代では「い・え」で表されるところに、「ゐ・ゑ」が使われることがよくあります。こういうことに実際に接してみますと、現在では特別なことになっていることが、嘗ては普通に行われていたということが、ある意味、懐かしさのようなものとともに理解されて来るように感じられたのでした。
 旧仮名遣いの例を挙げますと、現在では既に分からなくなっていることに、嘗て電報の文字を誤りなく伝えるために、カナの音を1つ1つ分けて伝えるということが行われていました。「お」は「おおさか(大阪)のお」、「と」は「とうきやう(東京)のと」、「な」は「なごや(名古屋)のな」というように言われるものです。多くは地名を利用したようですが、「ゆ」は「ゆみや(弓矢)のゆ」、「る」は「るすばん(留守番)のる」、「れ」は「れんげ(紫雲英)のれ」と使用されました。
 ところが最後の方にある「を」が、「をはりのを」となっています。さてこの「をはり」とは何のことでしょうか。旧仮名遣いの知識がなければ分からない語です。当てられていた漢字は「尾張」でした。名古屋を中心とした地域の旧国名です。この「尾」の訓読の「お」が、旧仮名遣いでは「を」となっていて、旧仮名遣いが一般であったころにはこのことは常識とされていたものだったことが分かります。この常識が、現在では既に通用しなくなって、発音の音で「おわりのお」と言われて「を」を頭に浮かべることは困難になっているのが現在では常態です。「男(をとこ)・女(をんな)・鼻緒(はなを)」などと、元々は「尾」以外にも「を」で表される「お」の音は多数ありましたが、現在は忘れられてしまったということでしょうか。
 私達視覚障害者は、発音に従った音で表されたカナ点字しか知らなかったのと、「おわりのお」が「をはりのを」で、その「をはり」が「尾張」であることも知らないままに、しかも耳には入って来ていたので、意味を理解できぬままに「そんなものか」と受け入れざるを得ない状態だったということでした。このようにして私は、初めて独歩の短編に触れて、初めて旧仮名遣いに触れて、これが「温故知新」ということかと、微かながらも納得した思いを抱きました。歴史の厚みを旧仮名遣いに触れることで実感したように思いますし、歴史は断絶されてはいけないことを知らされた思いをしたのでした。
 序でに申せば「をはりのを」は「尾張」ですが、発音の音で「おわりのお」と耳にしますと、私達はまずは「終わり」と受け止めたのではなかったかと思います。これは間違いなく間違いなのですが、この「終わり」を旧仮名遣いで書きますと、「をはり」となります。大変奥の深いことと思わずにはおられません。現在でも、助詞では「は・へ・を」が使用されていますし、発音に従った表記を標榜しているカナ点字も、助詞の「を」は「を」を採用しています。この辺りも、一貫し切れない何かを垣間見る思いがします。
 さてここで、一言白状しなければならないことがございます。
 こうして川上先生は漢点字書を多数お作りになって漢点字を使用する視覚障害者に貸し出しする活動を行われましたが、私はよい読者ではありませんでした。私には、「本を読む」ということには、その前に、「読みたい」という一語を置かなければ、落ち着きが悪いという思いがありました。ところが残念なことに、『新星通信』に紹介される漢点字書には、なかなか「読みたい」と思わせる本を見出だせませんでした。勢い先生へのご連絡も間遠になって、空間的ばかりでなく時間的にも距離を置く結果となってしまいました。

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 1980年代当時、私は漢点字とどのように向き合っていたのでしょうか。
 先にも述べましたように、漢点字書を読むということはほんの僅かでした。従って漢点字を読むことから何かを得たということも、ほんの僅かということが言えます。
 その代わりと申しますか、それに代わることはできないことが後に分かるのですが、音訳書を貪るように聴読しました。音訳されていて、私の興味を惹く音訳書を、手当たり次第借り出して、聴読しました。人生の時期としてはかなり遅くはありましたが、いわゆる乱読これ努めたということになります。読書と言うには、このころ仕込んだ読書の経験が、現在の私の財産となっているように思います。読書の総量としては極僅かなものですが、それでも書物の選択と聴読には、力を緩めることはなかったのではないかと記憶します。
 80年代も終わりに近づいたころ、私達視覚障害者の周辺にも音声で画面を読み上げるソフトウェアが開発され始めて、パソコンが普及し始めました。このことが、私達視覚障害者にとって、極めて大きな意味を持つようになりました。漢点字の普及が現在も遅々として進まないことも、このことがその1つの因となっているのではないかと、私は考えているのですが、視覚障害者の間にパソコンが普及することは、視覚障害者の言語活動の可能性を広げたという面とともに、文字の読み書きの安易さをも「保証」してしまったという側面もあるように思われております。この点については、後ほど触れたいと思います。
 私達視覚障害者は、それまでは文字の世界から疎外されていました。取り分けわが国の文字の情況は、絶対的な疎外と言ってよいものです。その疎外とはどのようなものだったかと申しますと、ここまで述べて来たことに重なる事柄です。視覚障害者の使用できる触読文字に、「漢字」がなかったこと、それによって視覚障害者は、「漢字」を学ぶ機会を得られなかったということです。従って先天の視覚障害者は、「漢字」を知らないまま、一生を送らざるを得ませんでしたし、現在もその情況は、ほとんど変化ありません。このことは文字を巡る全ての事柄に言えることで、文字を巡って何が行われるかと言えば、それは「読むこと」と「書くこと」に集約されます。そのどちらもが閉ざされて来たのでした。
 ここで欧米の事情を見てみましょう。
 欧米では、1825年にフランスで、視覚障害者のルイ・ブライユが、触読文字である「点字」を開発しました。現在英語で「点字」のことを“braille”と呼ぶのは、このブライユの名に因んでのことです。この文字は、六つの点の組み合わせでアルファベットを表すもので、その後の各言語に沿った開発がなされて、現在では話し言葉と同じ速度で音読できる触読文字となっています。
 その後、1874年に、一般の欧文タイプライターが開発されて、視覚障害者も、読み返すことができないということはあっても、キーを打てばアルファベットが書けるという情況がもたらされました。点字であれば自分で読むことができ、読み返すことはできなくとも、タイプライターで文字が書けるという情況が、わが国とは言語が異なるということもあって、わが国より一早く訪れたのでした。私も英文タイプライターで英文を書いて、何とか先方とコミュニケーションを成立させた経験があります。
 振り返ってわが国では、「日本語の特殊性」ということでしょうか、川上先生によって「漢点字」が開発されるまで、視覚障害者は、日本語の表記の中心的な文字である「漢字」を、習得することができませんでした。「漢点字」の登場で、やっと視覚障害者の触読文字として、「漢字」の世界が開かれました。ここに「漢字」を習得して、「漢字」を読むことで、わが国の言葉の世界に、視覚障害者も参加できる環境が整ったかに見えたのでした。
 そしてそこに、音声で操作するパソコンが登場して、自らの手で文字を書くということが、曲り形にもできるようになりました。「曲り形にも」とは、何を言おうとするのかと問われましょうか。
 当時の私は、パソコンにはあまり親しみを持てずにおりました。しかし、パソコンを使うことで文字が書けるという話を耳にして、文字を書きたい一念で、何とか私もパソコンを使いたいと考えました。まず試みましたのが、音声ワープロと呼ばれるワード・プロセッサーのソフトウェアとパソコンを購入することでした。説明書に従って組み立てて、ソフトウェアを起動しますと、確かに文字が書けるようになりました。このソフトウェアは、漢点字の符号を利用して、1字1字入力する方式を採用していました。そのように入力しますと、まずファイルが作られて、印字というコマンドを起動しますと、文字データがプリンタに送られて、紙に印字されます。そうして初めて印字に成功した時は、感動さえ覚えました。私が私自身の力で、機械を頼ってではありますが、初めて文字を書いたのですから、今でもその感動は忘れません。
 こうして「漢字」を表す触読文字である「漢点字」と、音声ワープロの登場で、視覚障害者の読み書きの環境は整ったと言えた、のでしたが、何故か「漢点字」は、普及しませんでした。
 拙稿は、ここのところを考えたいと思い書き始めたのだということを、私自身、今改めて自覚して臨もうとしております。
           つづく
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