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        漢点字訳『萬葉集釋注』第二巻

                                    
   岡田 健嗣

 本会では昨年度に引き続き、『萬葉集釋注』の第二巻を、横浜市中央図書館へ納入すべく、漢点字訳書の製作の作業が進められております。
 『萬葉集釋注』(伊藤博著、集英社文庫)は全10巻、それぞれに万葉集巻第一・第二、第三・第四……第十九・第二十が収められており、今回の第二巻は、巻第三と第四が収められた巻です。
 前巻のご紹介でも申し上げましたように、同書の編集は、歌番号に沿って歌が掲げられて、その歌あるいは歌群に、「釈文」として、伊藤先生の解説が付されています。先生によれば、万葉集の歌は、一首一首が独立しているわけではなく、何らかの関係を持ちつつ配列されていて、そこには一つの物語とも言うべき流れがあると言われます。また巻々によって、それぞれの編集に、特徴があるようです。
 ここにその中から、幾つかの歌をご紹介します。全て短歌です。ご紹介は、漢点字版の編集に沿って、漢字仮名交じり文、読み仮名、そして伊藤先生の現代語訳の順に掲げます。

 一  巻第三
 巻第三の部立ては、「雑歌」「譬喩歌」「挽歌」となっています。ここにご紹介しますのは、「雑歌」に収められている大伴旅人(おおとものたびと)の歌の一群、「酒を讃むる歌十三首」と題されているものです。
 旅人は、持統・文武帝の白鳳時代から天平にかけて生きた官人で、大伴氏の統領として活躍しました。しかし時代は大伴氏には厳しく、藤原氏の擡頭が顕著になるに従って、徐々に地位を失って行きます。旅人は中納言まで昇りながらも、既に老境の歳を迎える身で、太宰帥(だざいのそち)として筑紫の太宰府への赴任を余儀なくされます。
 この巻では、旅人の赴任と都への帰還、そして旅人の死までの様子が描かれています。妻の大伴郎女(おおとものいらつめ)は、赴任先の太宰府で歿し、同地に葬られました。この巻に収められる歌々は、そのような境遇の旅人の心情を偲ばせるのに余りあります。また旅人をめぐる人々との交流の跡を偲ばせる歌々は、私たちを何か儚い思いに沈めます。
 左の歌(この巻の旅人と旅人をめぐる人々の歌も)は、ある酒宴で交わされた歌と言われます。おもしろくもあり、また悲しくもあり、胸に迫る歌々です。
 なお伊藤先生は、三三九と三四〇の歌を一連なりと捉えておられます。従ってその現代語訳は、三四〇の歌の後ろに置きました。

三三八
 験なき ものを思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
 しるしなき ものをおもはずは ひとつきの にごれるさけを のむべくあるらし
 〈この人生、くよくよ甲斐のない物思いなどに耽るより、一杯の濁り酒でも飲む方がましであるらしい。〉

三三九
 酒の名を 聖と負せし いにしへの 大き聖の 言の宜しさ
 さけのなを ひじりとおほせし いにしへの おほきひじりの ことのよろしさ

三四〇
 いにしへの 七の賢しき 人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし
 いにしへの ななのさかしき ひとたちも ほりせしものは さけにしあるらし
 〈酒の名を聖人と名付けたいにしえの大聖人の言葉、その言葉のなんと結構なこと。いにしえの竹林の七賢人たちさえも、欲しくて欲しくてならなかったのはこの酒であったらしい。〉

三四一
 賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし まさりたるらし
 さかしみと ものいふよりは さけのみて ゑひなきするし まさりたるらし
 〈分別ありげに小賢しい口をきくよりは、酒を飲んで酔い泣きでもしている方がずっとまさっているらしい。〉

三四二
 言はむすべ 為むすべ知らず 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし
 いはむすべ せむすべしらず きはまりて たふときものは さけにしあるらし
 〈なんとも言いようも、しようもないほどに、この上もなく貴い物は酒であるらしい。〉

三四三
 なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染みなむ
 なかなかに ひととあらずは さかつほに なりにてしかも さけにしみなむ
 〈なまじっか分別くさい人間として生きているよりも、いっそ酒壺になってしまいたい。そうしたらいつも酒浸りになっていられよう。〉

三四四
 あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む
 あなみにく さかしらをすと さけのまぬ ひとをよくみば さるにかもにむ
 〈ああみっともない。分別くさいことばかりして酒を飲まない人の顔をつくづく見たら、小賢しい猿に似ているのではなかろうか。〉

三四五
 価なき 宝といふとも 一坏の 濁れる酒に あにまさめやも
 あたひなき たからといふとも ひとつきの にごれるさけに あにまさめやも
 〈たとえ値のつけようがないほど貴い宝珠でも、一杯の濁り酒にどうしてまさろうか。とてもまさりはしない。〉

三四六
 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに あに及かめやも
 よるひかる たまといふとも さけのみて こころをやるに あにしかめやも
 〈たとえ夜光る貴い玉でも、酒を飲んで憂さ晴らしをするのにどうして及ぼうか、及ぶはずがない。〉

三四七
 世間の 遊びの道に 楽しきは 酔ひ泣きするに あるべかるらし
 よのなかの あそびのみちに たのしきは ゑひなきするに あるべかるらし
 〈この世の中のいろいろの遊びの中で一番楽しいことは、一も二もなく酔い泣きすることにあるようだ。〉

三四八
 この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我れはなりなむ
 このよにし たのしくあらば こむよには むしにとりにも われはなりなむ
 〈この世で楽しく酒を飲んで暮らせるなら、来世には虫にでも鳥にでも私はなってしまおう。〉

三四九
 生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は 楽しくをあらな
 いけるひと つひにもしぬる ものにあれば このよにあるまは たのしくをあらな
 〈生ある者はいずれは死ぬものであるのだから、せめてこの世にいる間は楽しく過ごしたいものだ。〉

三五〇
 黙居りて 賢しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほ及かずけり
 もだをりて さかしらするは さけのみて ゑひなきするに なほしかずけり
 〈黙りこくって分別くさく振る舞うのは、酒を飲んで酔い泣きするのに、やっぱり及びはしないのだ。〉


 二  巻第四
 巻第四の部立ては「相聞歌」です。
 この巻のヒロインは何と言っても大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)です。郎女は、旅人の妹、大伴家持(おおとものやかもち)には叔母に当たります。郎女は旅人の没後大伴氏の家刀自(主婦)として、家中を切り盛りしました。
 郎女には坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)と、坂上二嬢(さかのうえのおといらつめ)の二人の娘がいました。姉の大嬢を甥である家持に娶せ、思惑通り婚約にまで漕ぎ着けましたが、悲しいかな大嬢はまだ一〇歳、余りに幼かった。家持は年上の女性に心を引かれて、大嬢との関係は絶えたかに見えました。
 ところが家持の相手の女性は、数年の後には病を得て、亡くなってしまいます。家持は、遺児である娘とともに残されます。
 郎女は、娘の大嬢をもう一度家持に思い出させようと、一策を労します。そこで送ったのが、左の七首の歌と言われます。
 この七首の歌の跡に、大嬢と家持の相聞が続きます。

(大伴坂上郎女)
六八三
 言ふ言の 恐き国ぞ * 紅の 色にな出でそ 思ひ死ぬとも
 いふことの かしこきくにぞ くれなゐの いろにないでそ おもひしぬとも
 〈他人の噂のこわい国がらです。だから思う気持を顔色に出してはいけません、あなた。たとえ思い死にをすることがあっても。〉

六八四
 今は我は 死なむよ我が背 生けりとも 我れに依るべしと 言ふといはなくに
 いまはあは しなむよわがせ いけりとも われによるべしと いふといはなくに
 〈そうはいっても私はもう死んでしまいますよ、あなた。生きていても、あなたが私に心を寄せてくれるだろうとは、誰も言ってくれそうもないから。〉

六八五
 人言を 繁みか君が 二鞘の 家を隔てて 恋ひつついまさむ
 ひとごとを しげみかきみが ふたさやの いへをへだてて こひつついまさむ
 〈人の噂がうるさいためでしょうか、二鞘ふたさやの刀のように間ま近くにある家なのに、あなたが隔たったまま来て下さりもせずに、私を恋しがっていらっしゃるというのは。〉

六八六
 このころは 千年や行きも 過ぎぬると 我れかしか思ふ 見まく欲りかも
 このころは ちとせやゆきも すぎぬると あれかしかおもふ みまくほりかも
 〈この頃では逢わずに千年も経った気がするが、私が勝手にそう思うだけなのか、それとも逢いたくてならぬのでそんな気がするのだろうか。〉

六八七
 うるはしと 我が思ふ心 早川の 塞きに塞くとも なほや崩えなむ
 うるはしと あがおもふこころ はやかはの せきにせくとも なほやくえなむ
 〈すばらしいお方と私が思う心、この心は、早川のように、いくら堰せきとめようとしても、やっぱり崩れてほとばしり出てしまうことだろう。〉

六八八
 青山を 横ぎる雲の いちしろく 我れと笑まして 人に知らゆな
 あをやまを よこぎるくもの いちしろく われとゑまして ひとにしらゆな
 〈青山を横切ってたなびく白雲のように、私にだけはっきりほほえまれて、しかもそれと人に知られないようにして下さいね。〉

六八九
 海山も 隔たらなくに 何しかも 目言をだにも ここだ乏しき
 うみやまも へだたらなくに なにしかも めごとをだにも ここだともしき
 〈海や山を隔てるというそんな遠くにいるわけではない、目と鼻の先にいるのに、何で目くばせ一つする機会さえこんなにも少ないのであろうか。〉

(大嬢)
七二九
 玉ならば 手にも巻かむを うつせみの 世の人なれば 手に巻きかたし
 たまならば てにもまかむを うつせみの よのひとなれば てにまきかたし
 〈あなたが玉だったら手に巻きつけもしように、この世の人なので手に巻くこともできません。〉

七三〇
 逢はむ夜は いつもあらむを 何すとか その宵逢ひて 言の繁きも
 あはむよは いつもあらむを なにすとか そのよひあひて ことのしげきも
 〈お逢いできる夜はいつでもあったでしょうに、何でまたとくに人目に立つあんな夜にお逢いして、うるさい噂の種になってしまったのでしょうか。〉

七三一
 我が名はも 千名の五百名に 立ちぬとも 君が名立たば 惜しみこそ泣け
 わがなはも ちなのいほなに たちぬとも きみがなたたば をしみこそなけ
 〈私の浮名はどんなにひどく立っても我慢できますが、でもあなたの浮名が立ったらそれがくやしくて泣かずにはおれません。〉

(家持)
七三二
 今しはし 名の惜しけくも 我れはなし 妹によりては 千度立つとも
 いましはし なのをしけくも われはなし いもによりては ちたびたつとも
 〈やっとお逢いできた今はもう、名を惜しむ気持など私にはさらさらありません。あなたのせいなら千度も浮名が立ったとしても。〉

七三三
 うつせみの 世やも二行く 何すとか 妹に逢はずて 我がひとり寝む
 うつせみの よやもふたゆく なにすとか いもにあはずて あがひとりねむ
 〈この現し世がもう一度繰り返されるなんていうことがあろうか。このかけがえのない夜を、あなたに逢わぬまま、どうして一人寝ることなどできようか。〉

七三四
 我が思ひ かくてあらずは 玉にもが まことも妹が 手に巻かれなむ
 あがおもひ かくてあらずは たまにもが まこともいもが てにまかれなむ
 〈こんなに苦しい思いをせずに、いっそ玉でありたい。そして、仰せのとおり、あなたの手に巻かれていよう。〉

(大嬢)
七三五
 春日山 霞たなびき 心ぐく 照れる月夜に ひとりかも寝む
 かすがやま かすみたなびき こころぐく てれるつくよに ひとりかもねむ
 〈春日山に霞がたなびいて、うっとうしく月が照っている今宵、私はただ一人夜を過ごすことになるのであろうか。〉

(家持)
七三六
 月夜には 門に出で立ち 夕占問ひ 足占をぞせし 行かまくを欲り
 つくよには かどにいでたち ゆふけとひ あしうらをぞせし ゆかまくをほり
 〈あなたがいわれるその月夜の晩には、門の外に出で立って夕方の辻占つじうらをしたり、足占あしうらをしたりしたのですよ。あなたの所へ行きたいと思って。〉

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