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        漢点字版『萬葉集釋注』のご紹介

                                    
   岡田 健嗣

 本会では毎年、横浜市中央図書館に漢点字書を納入しております。昨年度から、〈万葉集〉の解説書に取り組むことに致しました。

 伊藤博(はく)著『萬葉集釋注 一』(集英社文庫、2005年)

 いよいよ〈万葉集〉だ、私の中には、こういう気持ちが沸々と湧き上がっていました。
 私が本会の活動を開始したのは1996年、今年は18年目を迎えたことになります。
 本会の活動は、今思えば驚きを禁じられませんが、横浜国立大学教授の村田忠禧先生のご仲介をいただいて、学習研究社様から『漢字源』(藤堂明保編、1992年)の電子データをいただいて、漢点字版・全90巻を完成させたのが、その始まりでした。確かに電子データをいただけたことによって、打ち込み・校正という、漢点字訳の活動の基本的な作業はなかったとは言え、漢点字書が90冊とは、誠に気の遠くなる作業が半年あまり続きました。そして97年春に、完成を見ることができました。この90冊は、当時横浜市議会議員を務めておられました大滝正雄先生のご尽力によって、中央図書館に納められて、どなたもが手に取っていただけるようになっています。
 このようにして始まった活動をどう位置づけるべきかは、本会の規約に盛り込まれています。その目的として、3つの柱を立てました。@基本的に必要な資料。これは辞書を初めとする一般には誰もが持っている資料です。しかし視覚障害者には、大変手に入れ難いものでもあり、漢点字版となると、ほぼ手にすることは不可能なものです。Aニーズに応える。読みたい本を手にしたいというのが普通の読書欲です。これに応えたいと考えました。漢点字書は買うことも借りることもできないからです。B漢点字の普及。希望者を募って漢点字の学習会を主催する、必要があれば、テキストを作るということです。
 活動を振り返ってみますと、結果的にこの中の基本的な資料の製作に最も力を注ぐことになりましたが、その中でも私には、最終的な目標として、〈万葉集〉の漢点字版を作りたいという願いが強くありました。私が最初の読者になれなくてはいけない、〈万葉集〉を読むだけの読みの実力をつけて、早く取り組みたいという気持ちが、徐々に高まってきたのでした。
 2009年には『常用字解』(白川静著、平凡社、2003年)を完成して、視覚障害者が漢点字を通して書物を読むことで、一般の読書に匹敵できる読書が可能であることがクリアできたという手応えを得ました。このことは私が試験台になって、漢点字の表記と触読の試行錯誤の末、到達したものです。そして、漢点字であれば視覚障害者も古典から現代文まで、何でも読み取ることができるという確信に、やっと至ることができました。確信を得るのにこれだけの時間が必要であったということをも物語っています。日本語を表記する一般の文字と、視覚障害者には必須の触読文字である漢点字が、その読みにおいて、充分拮抗し得るという確信が、〈万葉集〉の漢点字訳に踏み切らせたのでした。
 〈万葉集〉と言っても数え切れないほどの解説書があります。今回も墨田区立あずま図書館の山内さんのお力を借りて、選書しました。これも誠に間違いのない選書であったことを、最初の1冊の完成によって知ることができました。
 漢点字訳書の原本は、集英社文庫の『萬葉集釋注』ですが、同名のハードカバーが10年以前に刊行されています。そちらを参照しながらの作業となりました。文庫版の体裁はハードカバーを踏襲するものではありますが、残念ながら全てが収められているわけではなかったからです。とりわけ万葉仮名の原文は、割愛されていましたので、その部分だけ、ハードカバーから借用することにしました。
 今回完成したのは、巻1と巻2で、最も古い時代の「雑歌、相聞歌、挽歌」が収録された部です。会員による校正が終わったところで、ほやほやの、まだ湯気が立っているような熱の籠もった本をいただいて、この1冊を最初から最後まで読ませていただきました。
 〈万葉集〉は、冒頭が最も劇的だということを聞いたことがあります。一の雄略天皇御製の求婚歌、二の舒明天皇の国見歌、これは確かに圧倒されましたし、日本語表現の歴史に、大きな位置を占めるものであろうことは、私にもよく理解できたのでした。通読だけではなく、より詳細に勉強してみたいと思わされました。
 ざっと拝読しての感想を述べさせていただきますと、ここに現れる歌人の中でも、額田王(ぬかたのおほきみ)・柿本人麻呂・笠金村の3人は、違わずオリジナリティー豊かな表現者で、日本語の表現の変遷を担った人々であることを、作品から知ることができたということ、またこの〈万葉集〉が、表現の実践場であって、その変遷をそのまま残していることを、作品に触れて知ることができたということです。このことは誠に幸福なことと言わなくてはなりません。
 もう一つ気づいたことがあります。
 歌には先だって、詞書きと呼ばれる前書きがあります。また歌の後に、左注と呼ばれる書き込みがあります。詞書きは、〈万葉集〉編纂以前にまとめた編者の手になるもの、すなわち作歌されてからあまり時を経ていないころの記載と考えられるものです。左注は、〈万葉集〉編纂に当たったと考えられる大伴家持、あるいはその周辺の人々の手になるものと考えられています。その時間的隔たりは、凡そ百年余りと考えられます。しかしながらその表現は、非常に大きく変化しているように感じられたのでした。左注の表現は、非常に読み易く、言うならば、現代にぐっと近づいているように感じられたのでした。
 以上の2点が、私の感想です。
 ご紹介の最後に、先の3名の歌を2首ずつと、著者の伊藤博先生のお言葉の抜粋を引用させていただきます。〈万葉集〉の成立と本書の目論見が、過不足なく語られています。ご精読下さい。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな  (八  額田王)
 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る  (二〇  額田王)
 楽浪の 志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ  (三〇  人麻呂)
 石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか  (一三二  人麻呂)
 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに  (二三一  金村)
 御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに  (二三二  金村)


 『萬葉集釋注』の発刊にあたって

 『萬葉集釋注』全11冊(本巻10冊、別巻1冊)は、集英社創立70周年を記念する出版の一つとして発刊されるものである。折しも平成7年(1995)、齢(よわい)70歳に当たり、著者にとっては古稀を記念する仕事となる。奇縁というべきである。/「古代和歌史研究」という名を副題に持つ、全8巻の著作(塙書房刊)がある。著者年来の万葉集研究を集大成したもので、上下2冊ずつに組まれて4部を構成し、それぞれ、「万葉集の構造と成立」、「万葉集の歌人と作品」、「万葉集の表現と方法」、「万葉集の歌群と配列」をテーマとしている。著者は、かねがね、もし機会があるならば、この8巻本の考察を土台とし背景とする、万葉20巻4500余首の注解を世に問うてみたいものと、ひそかに考えていた。夢見た題名は『釋万葉』。/万葉集の従来の注釈書は、語釈を中心に1首ごとに注解を加えるのを習いとしている。しかし、万葉歌には、前後の歌とともに味わうことによって、はじめて真価を発揮する場合が少なくない。作者自身によってそのように組まれている場合と、編者の手によってそのように構えられている場合とがあるけれども、たった1首によって孤立するようなことは、むしろ稀である。1首だけで立つように見える場合でも、たとえば、開巻冒頭の雄略御製(1 一)や、万葉終焉の大伴家持詠(20 四五一六)のように、他の歌々との関連で重い意味を有しながらそこに位置していることが多いのである。/にもかかわらず、そのような歌々を1首1首切り放して扱い、歌群の構成や組織について無頓着な姿勢を取るというのであれば、それは、万葉びとの心に仲間入りしたことにはならないであろう。それで、万葉歌を歌群としてあるがままに扱い、その歌群の題詞の意味、口語訳、語釈、特性のいっさいを、一つの「釈文」の中で総合して繰り広げる注釈書、すなわち、歌々の生きた姿、歌々の本来の息づかいを蘇らせたいと企図する著者の解釈の展開がそのまま一つの万葉集≠ノなるようなもの、つまりは、先に述べた『釋万葉』なるものを書いてみたいと、ひそかに考えていた。/そんな折、集英社の時の出版部長、塩沢敬氏から、万葉全巻の注釈の執筆を依頼された。昭和55年(1980)の春、今から15年前のことである。内容については著者に一任ということで、すべてが渡りに舟であった。(中略)/したがって、書名も変更の必要に迫られ、思案の末、『萬葉集釋注』と名告るのが適切だということに落ち着いた。/しかし、著者としては、『釋注』とはあくまで解釈としての注≠フ意で、「釈文」に主体を置く名だと考えている。(中略)/平安朝初期、村上天皇の天暦5年(951)、源順(みなもとのしたがう)たちがはじめて万葉集を訓(よ)み解(と)いて以来、千余年。万葉集研究の道は古く久しい。(中略)/そもそも、かの村上朝天暦5年に万葉集の研究が開始されたのは、すべて漢字ばかりで書かれている万葉集を、漢字の知識の乏しかった当時の女性たちに開放するためであった。万葉集が女性を中心とする一般の人々から無縁になっていることを嘆いた村上天皇は、源順以下5人の学者に万葉歌の訓み解きを命じたのである。順たちは、およそ20年の歳月をかけて万葉歌の大部分(4100首ばかり)に訓をほどこした。こうして、万葉集はようやく日の目を見、一般に流布するようになった。この『萬葉集釋注』は、その本来の研究の姿に立ち帰ることを常に意識しつつ、著者の読解の内にある万葉集を、できるだけわかりやすくかつ生き生きと提供することを意図しながら、書かれた。/万葉集20巻は一朝にして成った歌集ではない。それは、桓武朝延暦2年(783)頃、80余年の歳月を経て集成されるに至ったものと認められる。巨大な増築家屋のような歌集、長い時間のもと、多数の工匠たちの手を経て成り立った歌集、それが万葉集なのである。そういう歌集でありながら、万葉集20巻は、結果として、次ページに示すような見事な構造を有している(拙著『万葉集の構造と成立』下)。/本書『萬葉集釋注』は、主要部分を2巻ずつ1組で10冊とし、それに別巻1冊を添えるという組織を持つが、これは便宜の措置ではなく、次ページに示した万葉集20巻の構造を考慮してのことである。巻一・二で1冊、巻三・四で1冊というように組み立てられたことによって、読者は、ここにいう万葉集20巻の体系に、ごく自然に対応しながら万葉集を読み進めてゆくことができるであろう。(中略)/しかし、万葉集20巻について大きな体系を有する一つの作品体と考える本書、歌群の位置と構成に関心を注ぎながら「釈文」を主体として展開される本書は、辞書としてのみ扱われることを望まない。誤解を恐れずに言えば、本書は、万葉集20巻という作品≠ノ対する一貫した読み物である。一字一句を尊重するという姿勢を貫きながら、懸命かつ自由に繰り広げられた万葉の物語である。よって、読者には、できることなら、本書について、「釈文」を中心に、順序を追って読み継いで行って下さることをお願いしたい。

 第一部(巻一〜巻十六)
 巻一、巻二 ̄中核的古撰集 ̄古歌巻
 巻三、巻四 ̄拾遺的後撰集 ̄古今歌巻
 巻五、巻六 ̄天平雑歌集 ̄今歌巻
 巻七、巻八、巻九9、巻十 ̄三部立・四季分類集 ̄古今歌巻
 巻十一、巻十二 ̄古今相聞往来歌集 ̄古今歌巻
 巻十三、巻十四 ̄長短歌謡集 ̄類聚歌巻
 巻十五、巻十六16 ̄長短物語歌集 ̄付庸歌巻

 第二部(巻十七〜巻二十)
 巻十七、巻十八、巻十九、巻二十 ̄日記的歌集 ̄別類歌巻

 ついでながら、本書は拙著八巻本を土台とし背景とすると先に述べたが、煩雑を避けるため、その典拠をいちいち示していない場合が多いことをお断りしておく。また、どの巻も初稿脱稿後10数年を経ており、その間に数々の新説が提出されたけれども、読者に対しては、著者多年の持論を見ていただくよう、多く初稿の姿勢を貫き、新説の参照は必要不可欠な一部に限った。なお、このたびの第一冊について言えば、巻第一に関しては、別に拙著『万葉集全注 巻第一』(有斐閣刊)があり、巻第二に関しては、拙著『万葉集相聞の世界』(塙書房刊)があることを付け加えておきたい。(後略)

                             1995年(平成7)7月1日
                                             伊藤 博


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