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        漢点字訳書のご紹介 『日本語大博物館』


 平成23(2011)年度の、横浜市中央図書館への納入書として製作しました漢点字書をご紹介致します。
 紀田順一郎著、『日本語大博物館』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、2001年)。
 この書物は、1994年にジャストシステムから刊行された、同じタイトルの書物に増補されたものです。「悪魔の文字と闘った人々」とサブタイトルされていて、わが国の活字文化を、著者ならではの綿密な調査と筆致で跡づけた、極めてユニークな書物です。写真や図版を豊富に掲げつつ、印刷技術の変遷と、その技術に準拠して産み出された多くの書物を紹介しています。漢点字版では、写真や図版はその説明に留まらざるを得ませんでしたが、それでもここに登場する人々の並々ならぬ力と心を、充分に受け止められるものに仕上げられたと信じます。
 まずは目次からご紹介しましょう。

 《『日本語大博物館』目次/ 第1章 幕末活字顛末記…活字に憑かれた人々/ 第2章 活字との密約…荘厳なる森≠ノ魅せられた人々/ 第3章 起死回生の夢…昭和活字文化の70年/ 第4章 ことばの海に漂う…諸橋轍次と大槻文彦/ 第5章 カナに生き、カナに死す…カナ文字運動の理想と現実/ 第6章 ローマ字国字論の目ざしたもの…田中館愛橘、田丸卓郎と日本のローマ字社/ 第7章 日本語改造法案…人工文字に賭けた人々/ 第8章 漢字廃止論VS.漢字万歳論…国語表記論争の過去と現在/ 第9章 縦のものを横にする…横に書いた日本語の歴史/ 第10章 営々と刻まれた一点一画…ガリ版文化の80年/ 第11章 5万字を創った人…石井茂吉と写植の創世記/ 第12章 毛筆から活字へ…邦文タイプライター開発夜話/ 第13章 日本語の工学的征服…ワープロ第一号機の誕生まで/ 第14章 一億人のデータベース…電話帳の過去・現在・未来》

 ここに取り上げられているのは、ハードウェアとしての印刷技術の変遷と、ソフトウェアとしての書物の編纂事業です。何れも明治以降のわが国に取って、初めて直面する、国民国家の威信にかかわる、言い換えれば欧米諸国では既に果たされている、輸入の利かない、わが国独自に解決しなければならない事業でした。

 《大槻文彦が、その勤務先である文部省から国語辞書編纂の命令をうけたのは、明治8年(1875)、彼が29歳のときであった。(中略)依頼する側も、辞書づくりなど簡単な仕事と思っていた節があるが、依頼される側も『ウェブスター英語辞典』を翻訳すれば何とかなると考えていた点で、同じようなものだった。/ ところが、語彙をひろっているうちに、日本語特有の語彙には自分で語釈をつけなければならないことに気がついた。(中略)「言葉の海のただなかに櫂緒(とうしょ)絶えて、いずこをはかとさだめかね、その遠く広く深きにあきれて、おのがまなびの浅きを恥じ責むるのみなりき」と、彼は当時の当惑ぶりを回顧している。》

 あの『大言海』の大月文彦の回顧です。
 国語辞典の編纂もわが国では初めてでしたが、それを印刷し刊行する技術も、同時に開発されなければなりませんでした。
 諸橋轍次は、『大漢和辞典』の編纂に一生を費やしました。大修館書店はその刊行に当たって、石井茂吉に印刷を依頼しましたが、石井の手元には、組み版を組むだけの活字がありませんでした。一つ一つ活字を手作りしましたが、それも全て戦火に焼かれてしまいました。
 戦後石井は活版印刷を諦めて、次世代の印刷技術である写植の技術に取り組んで、『大漢和辞典』の刊行を成し遂げました。
 この二つのエピソードだけでも白眉というにふさわしいものです。しかし私には、もう一つ気になった記載がありました。それはカナ文字運動とローマ字運動についての記述です。
 明治になると欧米から怒濤の如く物品や文化が流入しました。わが国のあらゆるものが、それに置き換えられて行きました。当時の人々には、わが国古来のあらゆるものが、非効率に見えていたようです。効率こそが、国力の源、国の富の源と考えられていました。(もっとも現在の私たちの身の回りの品々も、西洋由来の物ばかりですが…。)
 言葉も例外ではありませんでした。英米では会議のその場でタイプライターを打って議事録を作成し、その場で出席者に配布するという、手品のようなことが普通に行われていました。それに引き替えわが国の言葉は、とてもそのようには行きません。そこで漢字廃止論が擡頭し、一つはカナ文字運動に、もう一つはローマ字運動にと展開されて行きました。
 私がその辺りに感心を惹かれたのは、日本点字の考案者石川倉次が、後年カナ文字運動に身を投じたというところにあります。具体的にどのような運動を展開されたか詳らかにしませんが、日本語点字を、カナ文字に留めてしまった理由も、その辺りにありそうに思われるのです。
 また明治期の日本語の表記には、大きな揺らぎが見られます。以下は、放送大学の印刷教材にある記述です。

 《平仮名・片仮名は、古くからいろいろの字体が自由に用いられていたが、国語教育では、明治33年の小学校令で、平仮名も片仮名も一つの字体に統一され、それ以外の字体は使用を認められなくなった。この規定は、明治40年の小学校令の改正に伴って削除されたが、その後も、国語教育においても一般社会においても、この考えは踏襲され、今日に及んでいる。この規定以外の字体の仮名を、「変体仮名」と呼ぶようになったのは、この明治33年の小学校令以来のことである。/ 仮名の統一が行われた際、字音仮名遣いも簡略化され、いわゆる棒引き仮名遣いが行われることになった。たとえば、「運動」をウンドー、「登校」をトーコーと表記する仮名遣いである。この仮名遣いは、小学校令の改正を受けて、明治41年に削除され、もとの字音仮名遣いに戻った。/ 漢字の字音以外の仮名遣いは、明治の初めから歴史的仮名遣いが行われてきたが、昭和21年に「現代かなづかい」が告示され、それまでの歴史的仮名遣いから表音的な仮名遣いへと改められた。「現代かなづかい」は、昭和61年に一部改訂され、「現代仮名遣い」として告示された。「現代かなづかい」に比べて、制限がゆるやかになっている。》(坂梨隆三・月本雅幸著『日本語の歴史』放送大学印刷教材、2001年)

 つまり日本語点字は、明治30年代の8年間に施行された小学校令のまま現在に至っていること(棒引き仮名遣い)、そして漢字の非効率によるカナ文字の採用ではなく、カナ体系しか作られなかったことによって、漢字を修得する機会を得られない者を産み出したことに、私は強く関心を惹かれたのでした。しかも同書に引用されるカナ文字運動・ローマ字運動を推進する方々の論文は、明らかに漢字仮名交じり文で書かれているものでした。つまり、カナ文字運動・ローマ字運動の推進者の方々は、全員漢字の知識をお持ちである、いや豊富にお持ちである知識人ばかりであることを確認したことが、私にとって、一つの収穫であったことは間違いありません。屋上屋を重ねることになりますが、現在の先天の視覚障害者は、現在通用されている日本語点字によって、漢字を修得する機会を奪われているという事実を、とりわけ教育関係者には心していただきたいと願うものです。
 以上、同書の趣旨とは異なった読み方にはなりましたが、著者・紀田順一郎氏の幅広い見地に、圧倒される思いで読了しました。
 同書の漢点字版は、東京漢点字羽化の会で漢点字訳し、横浜漢点字羽化の会で印刷・製本しました。

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