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          訳書紹介『論語』

 論語(ろんご)
1963年7月16日 第1刷発行  1996年4月5日 第55刷発行
訳注者 金谷治(かなやおさむ)
発行者 安江良介          発行所 株式会社岩波書店
(編者はしがきより)  はしがき

 『論語』は孔子を中心とする言行録である。それは、『大学』『中庸』『孟子』とならぶ「四書」の筆頭として、中国はもとより、われわれの祖先の血肉となりバックボーンをも形成した、古典のなかの古典である。『論語』という名まえは、孔子の名とともに、世界的に余りにも有名である。だがしかし、それだけに、その名を聞いたとき、過去の東洋社会をささえてきた儒教の経典として、すぐさま古くさい道徳主義を連想する人も少なくないであろう。嫌悪の情をともないながら、冷い非人間的な聖人孔子の姿を思い浮かべる人もあるであろう。しかし、それらの人のおおむねは、いわゆる食わず嫌いである。この訳書は、まず何よりもそうした人々によって読まれることを期待する。
 確かに古いのである。2千年以上も前のものといえば、古くさいのはむしろ当然かも知れない。しかしそれでは、なぜそんなにも古いものが、現代までの長い間を多くの人々に愛読されてきたのであろうか。その理由を、単に過去の政治や社会のあり方だけでかたづけてしまうのは、余りにも単純である。『論語』の内容そのものに、いつまでも人々の共感をよび、新しい歴史の進展をうながすような、そうした不滅の古典としての価値があるからにほかならない。
 20篇の内容は、ほとんどが断片的といってもよいような短いことばの集まりである。そして、その配列の順序にも格別の意味のないのが一般である。学而(がくじ)とか為政(いせい)とかいう篇名でさえも、篇の内容のまとまった意味を示すものではなくて、ただ篇の初めの2字をとったにすぎない。こんな例は、恐らく他のどの国の古典にも見出しがたいものであろう。要するにばらばらの内容である。だから、いそがしい読者は気ままな拾い読みをすることも許される。自分の体験に照して玩味していけば、それだけでもはっとして興奮を覚えるような何章かに出くわすはずである。しかし、もしいくらかの暇(ひま)を得て落ちついた通読をしていくなら、不思議なことに、そのとりとめないばらばらな中から、孔子の人間像が次第に鮮明に浮き上ってくる。孔子をとりまく門人たちのありさまが生き生きと躍動してくる。そして、そこからかもし出される一種の人間的な魅力が、ついにはわれわれの心をしっかりと捉えてしまうのである。
 ここで語られることは、もとより道徳が中心である。ただその道徳は、「人としての生き方」といいなおした方がより適切であるように、極めて現実的人間的である。恐らく、これほどまで日常的な生活や身近い政治の問題について配慮のゆきとどいた古典は、全く珍らしいであろう。窮屈な道徳主義を予想した読者は、この書物の楽天的な明るさにうたれ、とりわけて宗教的神秘的な性格の少ないことに驚くであろう。「老人には安心され、友だちには信ぜられ、若ものにはしたわれたい。」という、日常生活での平安が孔子の望みであった。非人間的な聖人孔子を予想した読者は、この書物の中で、じょうだんを言ったり、自分の過失を指摘されて感謝したりしている孔子を見出して、とまどうであろう。孔子は親しみ深く、ものやわらかな態度で、われわれに語りかけてくるのである。それは、恐らくは簡古なすぐれた文章の力によるところも大きいであろう。そして、孔子が強調した仁の徳は、肉親の間での自然な愛情から発した、一種の調和的な情感をもとにしたものである。道徳の基礎は何よりもまず人間自身のうちにあった。『論語』は何にもまして人間的な書物だといえるであろう。そして、そのたくましいまでの人間肯定の精神こそ、いつの世にも、またどこででも、いかに強調されてもしすぎることのない『論語』の真価であるとしてよかろう。
 『論語』の編纂については、はっきりしたことは分からない。孔子の没(BC479)後、その門人たちの間で次第に記録が蓄えられ整理されて種々のまとまりで伝えられ、やがてある時期に集大成されたもので、その時期は恐らく漢の初めごろ(BC2世紀)のことであろう。武内義雄博士の『論語之研究』、津田左右吉博士の『論語と孔子の思想』の両書は、この問題を追求して精密を極めている。(ちなみに、両書は近年での論語研究の白眉である。)
 さて、編纂された『論語』には、長い年月の間におびただしい数の注釈書が生まれた。その中の特に代表的なものは、魏(ぎ)の何晏(かあん)の「集解(しっかい)」と南宋の朱熹(しゅき)の「集注(しっちゅう)」とである。前者は漢・魏の諸注解を集めて何晏自身の見解をも加えたもので古注とよばれ、後者は北宋学者の解釈を綜合して一家の説を立てたもので新注とよばれる。そして、古注系統の詳解には宋のモ(けいへい)の「疏(そ)」、梁(りょう)の皇侃(おうがん)の「義疏」、清の劉宝楠(りゅうほうなん)の「正義」、潘維城(はんいじょう)の「古注集箋」などがあり、新注を敷衍したものでは宋の金履祥(しょう)の「考証」、清の簡朝亮の「述疏」などがある。わが国のものでは、新注と古注とを取捨折衷して一家をなした伊藤仁斎、荻生徂徠、安井息軒、東条一堂のものなどがすぐれている。
 この文庫本は、原文と読み下しと現代語訳とを合わせのせて、対照して読めるように配慮したもので、広い読者のために、これまでにない最も便利な体裁と最もすぐれた内容とを備えることを主眼とした。そのために、原文では最も正確なテクストを提供すること、読み下しでは江戸時代から一般に行なわれてきた典型的な読み方を伝えること、現代語訳では諸説を参照して正確なもとの意味に迫るとともに、分かりやすい本当の意味での翻訳として成功することに力を注いだ。
 まず原文であるが、武内博士の研究によると、『論語』の異本には大別して2つの系統がある。1つは唐の開成石経に由来するもので、中国の版本は多くこれに属し、いま1つはわが奈良・平安のころ遣唐使によってもたらされた古本の流れを汲むもので、日本の古写本はみなこの系統である。そして、この2系統は、さらにさかのぼると隋・唐間の陸徳明が『経典釈文』で本文に採用したテクストが前者に近く、その注記に採用した異本が後者に似るという結果になっている。博士はわが清原家の証本を底本とし、それを開成石経と対校することによって、岩波文庫の旧版『論語』の原文を定められた。この新版の原文もまた、博士の諒解のもとに、原則としてそれを採用することにした。テクストの重要な異同を明らかにした最も正確な原文といえるであろう。
 次に読み下しであるが、江戸時代に最もひろく行なわれて明治以後まで影響を及ぼした訓点は、その中期から出た後藤芝山の後藤点と初期の林羅山の道春点とである。後藤点では、分かりやすい日本語としての読み方をしようと苦心したあとがうかがえて興味深いが、全体に読みすぎた感じが強く、古い読み方の名ごりをとどめている道春点と比べて、一長一短である。このほかでは初期のもので文之(ぶんし)点、闇斎(あんさい)点、末期で一斎点なども有名であるが、要するにこれらは朱子の新注にもとづいた訓点である。新注が入ってくるまでには、古注にもとづいた王朝以来の博士家の伝統的な読み方があった。嘉永元年に清原家の証本を模刻した北野学堂本は、「本文ニヲコト点アルヲ仮名ニ移シテイササカモ私意ヲ容レテ改メザル者也。」というように、よくその面目を伝えており、慶応の日尾点以後の訓点に大きく影響を与えたとみられる。ここでは後藤点と道春点とを主としながら諸点を参照し、重要な異読は注として保存するようにした。
 さて、最後に現代語訳であるが、新注の解釈に従った倉石武四郎博士のものがこれまでの中で翻訳といえるほとんど唯一のものである。原文と読み下しとをのせて、それに語釈や通釈を加えた類のものは極めて多いが、いずれも解説とか講釈というべきもので、翻訳ではない。この問題は『論語』だけにとどまらないのであるが、中国の古典にはまだ安定した翻訳のスタイルというものができていないといってよかろう。『論語』のような原文の簡単なものでは、文章だけを追って訳してみても、もちろん十分には意味のとりにくい所が出てくる。いきおい解説めいてくるわけであるが、それでは原文の調子は全くくずれてしまう。だれにでも分かるような翻訳という目標からして、この点に困難があった。それに、分かりやすくするということにも、現代的にはっきりさせ過ぎて却って原文の含蓄ある味わいを破るという恐れもあった。補ないを最小限にし、必要な説明を注にまわして、できるだけ原文のニュアンスをそこなわないようにと腐心したが、訳文にはなお未熟なところもあるであろう。博雅の教正を期待したい。
 中扉の孔子像((孔子像絵は省略))は明の万暦版「聖蹟図」(東北大学蔵)からとった。後に従うのは顔回である。孔子の肖像には善いものが少ないが、これなどは伝来の正しさを思わせるすぐれた風貌で、出色のものだと思う。ここに掲げて広く紹介できることは筆者の喜びである。
 なお、恩師武内博士の旧版からは、原文のほかでも少なからぬ教導を受けた。また倉石博士の訳書と吉川幸次郎博士の訳解書とからは、特に現代語の訳文のために多くの示教を得た。ここに合わせしるして深甚の謝意をささげる。
  昭和37年10月
     東北大学中国哲学研究室にて
            金谷 治

(本文より)

 子(し)の曰(のた)まわく、学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる、 亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子(くんし)ならずや。
 先生がいわれた、「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも心嬉しいことだね。〔そのたびに理解が深まって向上していくのだから。〕 だれか友だちが遠い所からもたずねて来る、いかにも楽しいことだね。〔同じ道について語りあえるから。〕 人が分かってくれなくとも気にかけない、いかにも君子(くんし)だね。〔凡人にはできないことだから。〕」

 子の曰(のたま(わく、巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すく)なし仁。
 先生がいわれた、「ことば上手(じょうず)の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、仁の徳は。」

 子の曰(のたま)わく、君子(くんし)、重からざれば則ち威(い)あらず。学べば則ち固(こ)ならず。忠信を主とし、己(おの)れに如(し)かざる者を友とすること無かれ。過(あやま)てば則ち改むるに憚(はばか)ること(な)かれ。
 先生がいわれた、「君子(くんし)はおもおもしくなければ威厳(いげん)がない。学問すれば頑固(がんこ)でなくなる。〔まごころの徳である〕忠と信とを第一にして、自分より劣ったものを友だちにはするな。あやまちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ。」

 孔子の曰わく、君子に侍(じ)するに三愆(けん)あり。言(げん)未だこれに及ばずして言う、これを躁(そう)と謂う。言これに及びて言わざる、これを隠と謂う。未だ顔色を見ずして言う、これを瞽(こ)と謂う。
 孔子がいわれた、「君子のおそばにいて、三種のあやまちがある。まだ言うべきでないのに言うのはがさつ≠ニいい、言うべきなのに言わないのは隠すといい、〔君子の〕顔つきも見ないで話すのをめくら≠ニいう。」

 孔子の曰わく、善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探(さぐ)るが如くす。吾れ其の人を見る、吾れ其の語を聞く。隠居して以て其の志しを求め、義を行ないて以て其の道を達す。吾れ其の語を聞く、未だ其の人を見ず。
 孔子がいわれた、「よいことを見ればとても追いつけないように〔それに向かって努力〕し、よくないことを見れば熱湯に手を入れたように〔急いで離脱〕する。わたしはそういう人を見た。わたしはそうしたことばも聞いた。世間(せけん)からひきこもってその志しをつらぬこうとし、正義を行なってその道を通そうとする。わたしはそうしたことばは聞いた。だが、そういう人はまだ見たことがない。」

 孔子の曰わく、益者(えきし)ゃ三友、損者三友。直きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞を友とするは、益なり。便辟(べんぺき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり。
 孔子がいわれた、「有益な友だちが三種、有害な友だちが三種。正直な人を友だちにし、誠心の人を友だちにし、もの知りを友だちにするのは、有益だ。体裁(ていさい)ぶったのを友だちにし、うわべだけのへつらいものを友だちにし、口だけたっしゃなのを友だちにするのは、害だ。」

 孔子の曰(のたま)わく、命(めい)を知らざれば、以て君子たること無きなり。礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。
 孔子がいわれた、「天命が分からないようでは君子とはいえない。〔心が落ちつかないで、利害に動かされる。〕 礼が分からないようでは立っていけない。〔動作がでたらめになる。〕 ことばが分からないようでは人を知ることができない。〔うかうかとだまされる。〕」

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