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漢点字の散歩(58)
                    
岡田 健嗣

      カナ文字は仮名文字(9)

 不充分な理解のまま拙稿を書き始めましたのには、幾つかの理由があります。最も大きな理由は、何回かここに記しましたように、視覚障害者が使用できる文字に〈漢字〉がないために、子どものころからの視覚障害者には、〈漢字〉の教育が施されていないという現実があって、子どもたちが成長したとき、〈漢字〉を習得しないまま社会で生きなければいけないという情況が生じてしまっております。このことは近代教育制度が始まった明治期以来現在にまで続いている情況ですが、しかもそういう中にあって、視覚障害者の有識者と言われる先生方の、この情況を打開すべく抵抗を試みようという姿を、1度として見ることができなかったのでした。この視覚障害者の有識者と言われる先生方とは、やはり〈漢字〉の教育を受けて来られなかった方々で、この情況を甘んじて受け入れて、周囲に特定された視覚障害者と特定された晴眼者だけがいる場などで、「日本語の表記がカナモジだけでできるようであったならどんなによかったか、ご先祖様が恨めしい」などと言っておられるのを、よく耳にしたものでした。
 このような「カナモジ」だけで書かれた文章とは、実際に存在しているものです。誠に惨めなものであっても、彼らが想定しているのは、現在視覚障害者が公式に使用している〈日本語点字〉を念頭に置いて言われるものです。明治期にこの〈日本語点字〉を採用することによって、視覚障害者にも文字の世界が開かれたというのが彼らの言うところです。このような「カナモジ」だけの表記に日本語の表記が合わせてくれていれば、視覚障害者の言語生活は、もっと心地よいものになっていたに違いない、しかし現状はそうはならなかった、実に「恨めしい」と言うのが彼らの言い分です。言い換えれば彼らも、現状の「カナモジ」だけの〈日本語点字〉を使うことに、決して満足しているわけではないとも言えます。「恨めしい」というのですから、現状に対しては不満を持っているということのようですが、とは申しても、その情況を破ろうというのでもない、どうやらこれが現在の視覚障害者の置かれている立ち位置と言ってよいようです。しかもこれは、受動的とばかりとは言えない、彼ら自身が選択した情況であるとも言えるのではないか、その辺りを考えて見たいと思います。
 しかしながら一般には初等教育の中で、1000字を超える「教育漢字」と呼ばれる漢字の習得が義務づけられております。学校教育制度の中で、子どもたちは否応なくそれだけの漢字の習得を求められます。学年が進めば辞書の使い方を覚えて、進んで漢字を学べるようになりますが、それにしても相当の努力が求められます。
 一方視覚障害者の子どもたちは、視覚に障害があるというだけでその義務を免除される、この表現は行政や教育機関が使用しているものですが、しかしその義務の免除とは、〈漢字〉の習得の機会が奪われるということと同義であることに、なぜかそこに関わる皆様、どなたも関心を持たれておりません。そういう中で視覚障害者の有識者の方が言う「ご先祖様が恨めしい」という言葉が、密かに発せられます。
 このように考えて参りますと、わが国も国語と呼ばれる日本語の表記を、「カナモジ」だけで表すことが可能か、あるいはそのような可能性があったか、そのようなことを考えて見たかったというのが、この拙稿の書き始めと言ってよいと思います。

 春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山

 『小倉百人一首』の2番目に置かれている持統天皇の御歌です。現在私たちが『百人一首』の御歌として読むことのできるものは、このような表記になっております。このような表記がいつ頃から行われているのか、浅学な私には見当がつきませんが、多分『小倉百人一首』を選したと言われる藤原定家の生きた平安末期・鎌倉初期には、表記法として定まった方式は成立していなかった可能性が高く、このような表記になっていたかどうか、あるいは別の表し方がなされていた可能性も充分あるように思われます。
 何れにせよ右に掲げた持統天皇の御歌のような表記法を、現在では「漢字仮名交じり文」と呼んでいます。その意味は、「漢字と仮名を交えて表記された文」というものです。しかし「漢字」と「仮名」を交えればこのような文ができるのかと言えば、そうではありません。そこには1つの方式があって、1つのルールに則って書かれる必要があります。私たち現代人は、教育制度の初等でそれを学んで、当然と受け止めています。
 右の御歌は『万葉集』にある御歌、

 春過ぎて 夏来るらし 白栲の
      衣干したり 天の香具山   万28

が原歌です。『百人一首』とは細部が少しだけ異なりますが、鎌倉時代は『万葉集』の時代から既に400年を過ごしているのですから、この程度の違いは許容範囲、いや違いには当たらないと言ってもよいほどのものでしょう。しかし最初の『万葉集』にこのような表記で掲載されていた訳ではありません。

 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾 有 天之香来山

これが原文です。この『万葉集』の原文をいきなり突きつけられて直ぐに読めるだけの力は、私にはありません。しかしこれをいわゆる「漢字仮名交じり文」に変換した先の表記と比較してみれば、この原文は、比較的読み易い表記と言えます。この中でも際だつのが「而・良・之・能」の4文字、これを「て・ら・し・の」と読ませていることです。これらは助詞・送り仮名に当たります。また「春・過・夏・来・白・妙・衣・乾」は、それぞれ「はる・すぎ・なつ・きた・しろ・たへ・ころも・ほす」と漢字の訓読として読んでいること、また「有」は「たり」と読ませているようですので「訓仮名」なのでしょうか。「天之香来山」は奈良3山の1つ、訓読と音仮名・訓仮名で表された固有名詞と取ってよいと思われます。
 この原文を見る限り、際だって迫って来るのが、〈漢字〉の訓読です。『万葉集』は「記・紀」と並んでわが国で最も古い文献です。言い換えればこれ以前には、文献と言われるものはなかった、あるいは現在まで残るものはありませんでした。しかしここで見るように、〈漢字〉がわが国に入って来て、最初の文献であるこの表記に使用されているにも関わらず、〈漢字〉の読みとして、中国の音でなく、わが国の言語に対応した「訓読」が使用されていること、このことによって『万葉集』の初期には既に、〈漢字〉の「訓読」がほぼ完成していたということが表明されており、その事実は驚きを持って再認識され、銘記されなければならないと思われてなりません。かなりの長い時間、恐らく1000年を超える時間をかけて、〈漢字〉をわが国の言語に合う文字とすべく試行錯誤が繰り返された結果が、この『万葉集』だったと言っても過言ではないのでしょう。〈漢字〉の3要素である「形・音・義」を損ねることなく、日本の事物に合った読みである「訓読」を開発し、更にその文字で日本語の文章を表そうとしたのがこの『万葉集』だったのでした。

 もう1首、柿本人麻呂の歌、

 大汝 少御神の 作らしし
   妹背の山を 見らくしよしも  万1247

 「大汝」は「おほなむち」、「少御神」は「すくなみかみ」と読みます。この歌の意味は、「おほなむち、すくなみかみの作られた妹背の山は、見ても見ても素晴らしい景色だ」というものです。
 この歌の原文は、

 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉

です。この歌は「略体表記」と呼ばれる表記法で書かれています。持統天皇の御歌でも同様ですが、漢字の使い方は訓読です。持統天皇の御歌では、その他助詞・助動詞・送り仮名が漢字の読みを、音仮名・訓仮名として使用して表されていますが、この人麻呂の歌では、助詞・助動詞・送り仮名はそっくり省略されています。このように現在では仮名文字で表記される文字を省略する表記法を、「略体表記」と呼びます。あくまで私の印象ですが、『万葉集』の時代の表記では、まだカナモジが〈漢字〉から分離しておらず、「漢字音」で読ませる方法が採られており、〈漢字〉で表記すべき部分と「カナモジ」で表記すべき部分を、一目で見分けることができませんでした。そこで人麻呂は、公的に発表する歌でない歌の表記を、このような「略体表記」で行ったのではなかろうかと、そんな風に考えております。

 もう1首、『万葉集』の「常陸相聞歌」から、

 常陸なる 浪逆の海の 玉藻こそ
  引けば絶えすれ あどか絶えせむ  万3397

 作者は未詳、「浪逆」は「なさか」と読みます。歌の意味は、「常陸の国の浪逆の海で取れる玉藻は、引けば絶えてしまうだろうが、私の恋は絶えることはありません。」というものです。「浪逆の海」について『萬葉集釋注』の注には、

 浪逆の海…利根川の下流、茨城県鹿島郡北浦の南方、外浪逆浦(そとなさかうら)のあたり。常陸国府石岡への通路にあたる。

とあります。当時からよく知られた要地だったようです。
 この歌の原文は、

 比多知奈流 奈左可能宇美乃 多麻毛許曽 比氣婆多延須礼 阿杼可多延世武

です。ご覧のように「春過ぎて」の歌とは様相が甚だしく異なっています。〈漢字〉に意味を求めない表記法と言えます。このような文字遣いの〈漢字〉は、いわゆる「万葉仮名」と呼ばれます。また、このように漢字音で音を表す「万葉仮名」を「音仮名」、訓読音を仮名読みとする「万葉仮名」を「訓仮名」と呼びます。つまりこの歌は「音仮名」だけで表されている歌ということができます。従ってこの原文の「音仮名」は、現在の「カナモジ」に置き換えられることも可能です。更に言えば、私ども日本人の遠い祖先は、現在の視覚障害者が「恨めしい」と言うのとは異なって、1つの試みとして、「カナモジ」だけの表記に挑戦していたということができますが、後に「カナモジ」だけの表記という方法は採られなくなって、ここに掲げた3首の歌も、やがて現在のように「漢字仮名交じり」で表されることになります。
 『万葉集』は、歌の部分は右の3首のように、漢字の訓読と音仮名・訓仮名による「漢字仮名交じり」、助詞・助動詞・送り仮名を省略した「略体表記」、音仮名だけで表記した「カナモジ表記」と、その表記法を大別することができます。また「題詞」と「左注」は、漢文で表記されています。すなわち日本語の表記が試みられているのは、歌の部分だけで、他は漢文で表記されてという編集です。
 また歌の表記法によって、『万葉集』の成立時期を推測することができると言われています。
 同じ時期に成立している「記・紀」について申しますと、『古事記』の表記は、本文は読み下し漢文、すなわち漢文を日本語として読み下して漢字の訓読や音仮名・訓仮名を当てた表記で表されています。またそこにはしばしば古歌謡が挿入されておりますが、その歌謡は、全て「音仮名」で表記されております。すなわち漢字の訓読や訓仮名は使用されていないのです。
 『日本書紀』の表記は、本文は漢文、古歌謡は『古事記』と同様、「音仮名」だけで表されております。
 『古事記』の成立は和銅5(712)年、元明天皇に献上されるために編纂されたと言われます。そのためか、長く宮中の奥深くに留めおかれて、一般の目に触れることがなかったと言われます。『日本書紀』の成立は養老4(720)年、わが国の国史として編纂されたものです。正式の国史として編纂されたことを示す意味でも、漢文で表されることが必要と考えられました。
 一般に「万葉仮名」と呼ばれる「音仮名」が成立し、「カナモジ」の表記だけで『古事記』・『日本書紀』の古歌謡が表記されるに至って、やっと歌謡の表記の標準が「音仮名」であるとされることとなったようです。
 翻って、『万葉集』の作歌年代を特定するのに、「音仮名」による「カナモジ」だけの表記となっている歌は、『古事記』・『日本書紀』の成立と同時期、あるいはそれより後に作られたものだと考えてよいようです。『古事記』・『日本書紀』の成立以前と言えば、持統・文武朝のころで、最も活躍していた歌人はあの柿本人麻呂です。人麻呂の歌の表記は、「音仮名」だけではありません。文字を意味として捉えた表記法を採っています。そのような表記法が続くのは、持統・文武朝の宮廷歌人の流れ、大伴旅人・山上憶良・山部赤人等の流れが続くまでで、その後の歌人の歌は「音仮名」だけの表記が急速に主流となって参ります。
 日本語の文章の表記はこのように、中国から渡ってきた〈漢字〉を、その文章とともに日本語に変換するところから始まりました。「訓読」の成立です。その〈漢字〉の「訓読」に歌謡を乗せて、文字として表記されたのが恐らく「和歌」の始まりだったのでしょう。『万葉集』を見る限り、題詞や左中によれば、かなり古い時代の歌とされるものもありますが、長歌も短歌も、その形式は極めて厳密に守られていて、形式だけ見れば、持統朝以降の歌と、異なるところはありません。このことは歌謡として口伝されて来たものをそのまま文字に写したものと言うよりは、一旦文字化したものを更に推敲して、音数律を整えた結果にできた作品ではないかと考えてよいように思われます。このようにして〈漢字〉の訓読の成立が、〈漢字〉を日本語を表す文字となったことを現したのだと言えると言ってよいと思われます。
 読み下し漢文で表されていると言われる『古事記』も、〈漢字〉の訓読なしには成立しません。その漢文の水脈が、もう1つのわが国の文章表記の大きな流れとなっております。
 「漢文」の訓読は、正しく〈漢字〉を訓読し、そこに送り仮名と助詞・助動詞を挿入し、〈漢字〉を中国語の並びから日本語のものへと変更すべく指示符号を付けるという方法で行われました。これは現在も行われている方法ですが、ここでも「カナモジ」が大きな働きをしております。現在行われている漢文の訓読の方式は、漢字の並ぶ行の右側にカタカナの送り仮名と助詞・助動詞を置き、行の左側に「返り点」と呼ばれる指示符号を置いて、漢字の読みの順序を指示しております。このカタカナの送り仮名と助詞・助動詞と指示符号である「返り点」を合わせて「訓点」と呼びます。現在ではこのような操作も省略して、読み下してある、「訓点」のついていない文章を読むことで、漢文の古典を読むのが普通になっております。しかしつい先頃まで、一般の文章の中に、漢文の読み下し文と同様に、ひらがなではなく、カタカナが用いられた表記法が見られました。たとえば、朝日新聞令和3年2/06号掲載の、原武史氏著「歴史のダイヤグラム」に引用されている文章があります。「軍ハ陸海軍共ニ健全ナリ、国民ノ後ニ続クヲ信ズ 宮中尉」(『吉沢久子、27歳の空襲日記』)。昭和20年の敗戦直後に東京に撒かれたビラの文章です。旧日本軍の軍人が、抗戦を呼びかけるために戦闘機から撒いたものと言われます。

 現在私たちが読み書きしている日本語の文章は、繰り返しになりますが、「漢字仮名交じり文」と呼ばれる文章です。この形式が定まったのは、右に述べて参りましたように、決して古いものではありません。この「漢字仮名交じり文」がどのような形式か、お浚いをしてみたいと思います。
 「漢字仮名交じり」と言うのは、文字通り〈漢字〉と「カナモジ」を交えて表された文章を言いますが、現在は「カナモジ」と書きましたのは誤りで、「かなもじ」と書くべきなのです。上にも述べましたように、少し前までは、〈漢字〉と「カナモジ」で表された「漢字仮名交じり文」も珍しいものではありませんでしたが、現在、第2次世界大戦後に、わが国の表記法が、ほぼ1つに統一されたと言われます。つまり〈漢字〉と「ひらがな」を交える方式だけが採られることとなりました。どのように交えるか、小学校1年生の子どもたちに仮名遣いを教える際、子どもたちがよく行う間違いがあると言われます。「……しまし田」。〈漢字〉の勉強をしていて、「田」という文字を覚えたところで、今度は文章の勉強をします。子どもたちには、この「ひらがな」で書かなければいけないということが、大変理解し難いようで、このような書き方になるお子さんが結構おられるとお聞きします。しかしここのところを理解している大人もどれほどおられるか、せいぜい経験則でクリアしているだけで、その理由まではなかなか分かってはいないのではないでしょうか。
 右の『万葉集』の表記の中で触れましたが、『万葉集』の初期の歌の表記では、〈漢字〉の訓読と音仮名・訓仮名によって表されていました。つまり当時の歌人は、日本語を文字で表そうとしますと、どうしても「仮名」でなければ表せない言葉のあることに気付いたのでした。中国から渡って来た〈漢字〉で、わが国の事物について書き表すことを目指して「訓読」を開発したとは言え、これは〈漢字〉の「表意文字」としての特性を応用したもので、その他に日本語には事物を表す語に加えて、それらを繋ぐ語があったのです。現在では品詞として「助詞」と「助動詞」に分類されていますが、語と語とを繋ぐ、あるいは文を結ぶ語としての働きを持つ語の存在です。また事物を表す語でも品詞によっては語尾の変化(活用)するものがあることが分かって来て、それも次の語へ繋ぐ働きをしています。そこで当時の歌人は、それらを「漢字音」を利用して表すことにしました。これが「音仮名」と「訓仮名」です。当時は文字と言えば中国渡来の〈漢字〉しかありませんでしたので、仮名も〈漢字〉で表すことになったのでした。
 この〈漢字〉で表記される部分と「仮名」で表記されなければならない部分については、国語辞典の『広辞苑』に、以下のように述べられています。〈漢字〉で表記される部分を「詞(シ)」、「仮名」で表記されなければならない部分を「辞(ジ)」と呼んでいます。

 詞  文法上、それ自身で或る1つの概念を表し、思想内容を概念的・客体的に表現し、言語主体に対立する客体を表す語。単独で文の成分を構成しうる。助詞および助動詞(一説に、助詞・助動詞の大部分と陳述副詞・接続詞・感動詞)を除いた他の品詞をいう。

 辞  文法で、言語主体の客体に対する種々な態度を表現し、詞と結合して初めて具体的な思想を表現する働きをもつ語。形式語・虚辞・付属語などと称せられる。助詞および助動詞(一説に、助詞・助動詞の大部分と陳述副詞・接続詞・感動詞)をいう。

 つまり品詞で言えば名詞・動詞・形容詞・副詞の語幹に当たる部分を「詞」、助詞・助動詞と動詞や形容詞の活用語尾を「辞」と呼ぶ、ということです。この「詞」に当たるところは〈漢字〉で表記され、「辞」は「かなもじ」で書かれなければなりません。仮名は、伝統的に和歌を中心とした和文は「ひらがな」で、読み下し漢文は「カタカナ」で書かれますが、現在の「漢字仮名交じり文」では、〈漢字〉と「ひらがな」を交えた文章が一般となりました。
 そのために「カタカナ」は、従来の読み下し漢文の仮名の表記を担うという役割から解放されて、現在では専ら、外国語を日本語として発音するときの、外来語の表記に使用されるようになりました。従ってこの「カタカナ」も、「辞」ではなく、「詞」を表す文字となったことになります。更に言えば、現在の日本語の文章の中には、どんな文字も挿入が可能です。実際にアルファベットは、通常の表記として、やはり「詞」として使用されています。「詞」は、少しややこしくなるのですが、〈漢字〉の代わりに「ひらがな」を当ててもかまいません。文章に柔らかみが出るとも言われて、むしろそういう表記が積極的に行われる傾向もあります。
 しかしそのまま総仮名の表記が一般となるかと言えば、そのような気配はなさそうです。

 『万葉集』の初期に編まれた部分は、〈漢字〉の訓読・音仮名・訓仮名と、現在のような仮名文字はまだなかったにしても、既に「漢字仮名交じり」を指向していました。後期の『万葉集』や「記・紀」の歌謡では、音仮名による仮名文字だけの表音で表記されました。その後平安期には現在に近い「かなもじ」が成立して、「仮名文学」が開花しました。
 一方中国から渡って来た「漢文」は、わが国の学問や政治に深く根を下ろして、公式な文書は「漢文」で書かれることになって行きました。現在でも公式な文書は、読み下しの「漢文」です。ただ戦後は、「読み下し漢文」の調子の文章も、「カタカナ交じり」ではなく、「ひらがな」を交えた表記の文章になりました。
 この平安期以来の和歌や物語の表記として用いられた「仮名文字」の文章と、公式の文書として使われ続けて来た「漢文」が、現在ではどちらも「漢字仮名交じり文」として、形式としては見分けの付かないほどに近づいております。ほとんど同じです。せいぜい筆者の個性の違いとしか認められないほどです。そして文頭に掲げた3首の歌のように、現在では「仮名文字」だけで表されたものではなく、間違いなく「漢字仮名交じり」で表されるようになりました。一体これはどういうことか、「ご先祖様が恨めしい」と言う視覚障害者の声は、この辺りを指して言っているのではないかと思われてなりません。
 『万葉集』の後半から平安時代を通して、「仮名文学」が花を開きました。そののち私どもにその文化が伝えられる間に、「仮名文学」の「ひらがな」で表記された「詞」の部分が、徐々に〈漢字〉に置き換えられて行ったと考えてよいでしょう。そして現在に至って「漢字仮名交じり文」が成立することになりました。
 その理由は、断言することはできませんが、言えることは、「ひらがな」だけで表された文章は、恐らく読み難かったのではないでしょうか?もう1つ読み難さに通底することとして、書かれた文書は何度でも読み返されること、著者も読み返しますし、読者も何度も読み返します。また印刷技術のなかった当時は、「書写」だけが文書の流布の方法でした。読み難い文章は「書写」もし難い、「書写」に当たった人々も、「書写」に叶った文字遣いを選択したのではなかったでしょうか。
 また「概念」や「論理」を表すのには、「ひらがな」は大変不都合だったのではないか、もし「概念」や「論理」を「ひらがな」だけで表すとすれば、おそらくわが国の言語も、もっと入り組んで複雑な音韻の体系が求められることになったに違いありません。その前に、既に〈漢字〉の「訓読」が完成して、日本語の表記に〈漢字〉が受け入れられていることを思えば、「概念」や「論理」を表現する文字として、〈漢字〉に期待することは当然と言えます。
 現在も、「ひらがな」だけで表記される文章の存在を、視覚障害者の有識者の先生方は、このような幻の文章の存在を、信じておられるのかもしれません。その先生方の口からは、残念ながら〈漢字〉の習得の必要性については、言及されることはありません。憂慮に耐えません。是非とも体系付けられた〈漢字〉の教育が、視覚障害者の子どもたちに施されることを望んで止みません。
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