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漢点字の散歩(56)
                    
岡田 健嗣

      カナ文字は仮名文字(7)

 拙稿に筆を染めてから久しい年月を過ごしました。何度か記したことではありますが、この間の事情を、もう一度申し上げることをお許しいただきたいと存じます。
 欧米の視覚障害者と異なって我が国の視覚障害者は、その母国語を表す文字から阻害されているという現状に対して、故・川上泰一先生は、触読文字であるルイ・ブライユが創案された点字に従った構成の点字符号で、〈漢字〉を表現できる点字の体系を開発されました。一九六九年に〈漢点字〉として発表されました。
 私がこの〈漢点字〉の存在を知ったのは、一九七七年のことでした。ある点字の雑誌、残念ながら今では、名称も覚えていないほど以前のことでした。
 当時の私は、モラトリアム(大学生活)を終えて、再度社会生活に挑戦しなければならない情況にありました。そのモラトリアムというのも砕いて言えば、盲学校を出たばかりの私が、その社会生活の厳しさに耐えられないという気持ちになって、一休みしてやり直そうと考えたところから、それなら学校だと、誠に簡単に考えてのことだったと記憶しています。当時の盲学校を卒業した直後の私にとっての生き辛さという状態を当時の私は、視覚障害という障害が社会に理解されていないという理由だと思ってもいたのでした。勿論そういう側面は大きなウェイトを占めているということはあるでしょうし、そういう側面から社会に働きかけるということも大変大事なことだと思ってはおりますが、しかしどうもそればかりではない、別の要件が、それも一つではなく、複数ありそうだ、ということに気づいたのは、そのモラトリアムの間だったに違いありません。
 社会というのがそんなに優しい訳はない、盲学校を出た直後に比べると、考えたり感じたりという、色々な意味での余裕が生まれて来たためか、そんな風に捉えられるようになってきて、何をどうすれば、社会の一員としての手応えのある生活を営めるようになるかと、周囲を見回せる余裕が生じつつあったとも言えるのかもしれません。
 苦労しているのは私だけではないなあ、苦労の内容も人それぞれだなあ、苦労しているように見えない人も結構いるなあ、などと余裕のある観察をしたりもしてもいたのですが、然う斯うしているうちにモラトリアムも期限付きだということを思い出させられる時期が、とうとうやって来たのでした。
 生きている以上、社会生活をしなければいけないのですが、その社会から受け入れられないという気持ちは消失しません。ただ一つの変化があったとすれば、私が社会から受け入れられないというばかりでなく、ひょっとしたら、私が社会を受け入れていないのかもしれないということを考え始めたことかもしれません。社会で行われていることを、私自身も行う必要があるのではないか、そうしなければ社会との交通は図れない、そんな風に考え始めたように覚えております。そんなころに出会ったのがこの〈漢点字〉でした。
 〈漢点字〉は、ルイ・ブライユが創案し構成した六つの点を組み合わせて、触読に適合した触読文字である〈点字〉の構成に従って組み立てられた、〈漢字〉を表す触読文字です。つまり指で触れて読むことができる〈漢字〉です。その〈漢点字〉の存在を知って、私が社会を受け入れるということは、なるほどここから始めなければいけないのだ、直感的にそのように思ったのでした。文字を読むことを通して社会を受け入れることができるかもしれない、文字を読むことができなかったことがそもそもの初めであり、現在直面している障壁だ、何とも勇ましい覚悟をした上で、〈漢点字〉の習得に臨んだのでした。
 当時よく言われていたこと、あるいは現在もなお残照に似た言われ方で言われていることかもしれませんが、〈漢字〉を表す〈点字〉には、二通りある、一つがこの川上泰一先生の創案された〈漢点字〉、もう一つは筑波大付属盲学校で教鞭を執っていた長谷川貞夫氏の考案された「6点漢字」と呼ばれる体系だと言うのです。私はまず〈漢点字〉を習得して、その後に「6点漢字」にも挑戦してみました。そこで分かったことは、「6点漢字」という体系は、点字の符号を利用して〈漢字〉を表していると謳ってはいますが、触読はできないものだということでした。こう書きますと、触読ができないのはおまえさんだけで、他の人は皆さん指で触れて読んでいますよ、という声が聞こえて来そうですが、そうではありません。最初から触読を想定して考案されたものではなく、パソコンに点字キー入力することだけを目的に考えられた符号で、現在も触読している人はおりません。触読ができないというのも、最初からその必要を入れずに考えられたものだったのですから、当然と言えば当然なのでした。断言できることは、触読文字で〈漢字〉を表す文字は、川上先生ご創案の〈漢点字〉しかないということですし、文字は書物として読むためのものですので、この〈漢点字〉を触読して書物を読むことこそが、わが国の視覚障害者が読書することと言ってよいと考えるようになりました。このようにして私は、「6点漢字」の学習を中途で放棄して、〈漢点字〉の触読の熟達に力を注ぐことにしたのでした。「6点漢字」のテキストは、虚しく本棚の隅に忘れられることになってしまいました。〈漢点字〉も、学習しただけでは何の役にも立ちません。習得した後に、何をどのように読むか、読んでどうするかという、言わば読書一般に言われることが問われます。現状として考えますに、現在の〈漢点字〉の使用者に突きつけられている課題は正にこの点にあるので、残念ながらその課題に充分に答えられているとは、到底言えません。〈漢点字〉の普及が遅々として進まないのも、この点に因していると言わざるを得ません。誠に残念なことです。
 その後私は本会を立ち上げて、必要と思われる資料の漢点字訳を進めて参りましたが、活動を進めるうちに、その必要と思われるという点において、目標が絞られて来たように思われます。
 私が社会に出たころ初めて耳にしたこと、しかも現在も視覚障害者のいわゆる有識者の声として、時折耳に入って来ることがあります。「われわれのご先祖様は、なぜカナ文字で日本語を表すようにしてくれなかったのだろう。誠に恨めしいことだ。」というのです。つまりわが国の文字には「カナ文字」という立派な文字があるのだから、昔の人が漢字を廃して、この「カナ文字」だけで表すようにしてくれていれば、われわれ現在の視覚障害者がこれほどまでに苦労しなくてもよいのだ、ということです。無い物ねだりと言えば誠にその通りですし、道理が弁えられていないと言っても誠にその通りなのですが、こういうことは、視覚障害者だけが顔を合わせるような場所でのみ言われることで、一般には漏れることはありません。発言者も充分そのことを弁えて言っているのです。
 これに関連して、一つのエピソードが思い起こされます。私が〈漢点字〉の普及を図る積もりで、ある盲学校をお訪ねした折りに、全盲の理療科(マッサージ・鍼・灸を習得する科目)の先生と校長先生がおられました。私は本題に入る前の雑談の中で、〈漢点字〉のお話に入る前の導入の積もりで、「漢字の知識がないと本が読めないでしょう」と申し上げましたところ、その全盲の先生が、「本が読めない?!」と、訝しんだ、あるいは咎めるような声音で反論しようとなさいました。透かさず校長先生が「それはまあよいでしょう」とお言葉を挟まれて、その先には進みませんでしたが、盲学校の全盲の先生方には、どうやら漢字の知識はなくてもよろしいとお考えである方が多数おられるご様子を、垣間見た思いをしたのでした。
 閑話休題!
 本会の活動の目標が自ずと絞られて来たところで私は、その前に〈漢点字〉の力を確認する必要があると考えました。「力」と書きましたが、勿論私は、〈漢点字〉を学習した当初からその力を疑ったことはありません。疑いはしませんでしたが、それならばなぜに〈漢点字〉の普及が見られないのか、このことが大きな疑問となって来たのでした。そのためには、その「力」を、言わば目に見える形にしておく必要がある、そう考えるようになったのでした。
 そこで考えたのが、最終の目標の設定と、そこへ至るプロセスです。
 最終目標の設定は、それほど困難なものではありません。幸いにして本会の活動は、当時横浜国立大学の教授であられた村田忠禧先生のご尽力で、学習研究社様からデータをご提供いただいて、『漢字源』(藤堂明保編)の漢点字版を製作するところから始まりましたので、この『漢字源』漢点字版の製作という活動の延長線に置くことができそうだということは、その当初から見当が付いておりました。『漢字源』の完成は、それまでには存在しなかった〈漢点字〉を使用して、漢字の意味や由来を調べる方法を確立したことを意味します。本会の活動の当初にこのようなエポックがあったことは、本会にとって、また私にとっても、誠に幸運なことだったと申してよいと考えます。このようにして『漢字源』を手にした私どもにとって次に考えるべきことは、まずは文字を読むのに必要な資料の製作から、その後は古典というところを念頭に置きました。
 『漢字源』の後は文学作品を手がけつつ活動のリズムを整えて参りましたが、九〇年代の終わりに白川静先生の三部作『字統』、『字訓』、『字通』が上梓され、その後に文字を常用漢字に限り、さらにその内容を平易にした『常用字解』(平凡社)が発行されました。誠にタイミングのよい時期でした。
 この『常用字解』の漢点字版は約八年という年月をかけて完成に至りました。これによって、〈漢点字〉を学ばない視覚障害者やその周辺の晴眼者の皆さんから無言の内に向けられていた、〈漢字〉を点字の符号で表すには限界があるだろうという疑義あるいは期待に、見事に否を示し得たと考えられるようになりましたし、〈漢点字〉の力に自信を得たのでした。
 本会の活動が『常用字解』に着手するのと平行して私は、放送大学の古典文学や日本語の歴史に関する講座を受講しました。正に〈漢点字〉がどこまで有効か、大学の講座の受講に不充分さを感じるようでしたら、それが限界ということになる訳ですから、それを試して見る必要も価値もあるはずだと考えてのことでした。放送大学の受講に当たっては、視覚障害者の受講という点で起き得る困難はありましたが、〈漢点字〉の使用による困難は、一切ありませんでした。〈漢点字〉は、見事にその力を発揮して、単位の取得を支えてくれたのでした。
 このようにして取り敢えずの基本的な資料の、極一部ではありますが、完成させることができて、次の目標として、古典を取り上げることにしました。
 私個人としては、これが最も大きな目標であったのではありますが、満を持して『萬葉集』がどうしても欲しいという希望を提出して、会員の皆様のご協力をいただいて、いよいよ『萬葉集』に取りかかっていただくことになりました。『萬葉集』の解説書も数多くありますが、その中の一冊、『萬葉集釋注』(伊藤博著、集英社文庫、全一〇巻)の漢点字訳に取り組んでいただくことになりました。
 私が『萬葉集』を読みたいと申しますのは、勿論その中に収録されている歌を鑑賞したいという気持ちで言っているのではありますが、私にそのような鑑賞力があるとは思われませんので、鑑賞に関しては何も申すことはできません。
 それならばなぜに『萬葉集』か、それは、先に述べました視覚障害者の識者と呼ばれる方々が口になさる、日本語を「カナ文字だけで表記する」ことが可能か、あるいはそのようなことがあり得たか、というところに関心を寄せているからです。現在の日本語の標準的な表記法である「漢字仮名交じり法」ではなく、カナ文字だけで表す表記法があり得るか、あるいは歴史のどこかで、誰かが別の方向に舵を切っていたらどうだったか、というところに関心をそそられるからです。
 実際現在も、カナ文字だけで文章を書いている方もおられるようですし、詩や和歌に、カナ文字だけで書かれている作品もあります。その意味では充分にその可能性はあったはずだと、まずは考えてもよいかと思われます。しかし実際はそうはならなかった。カナ文字だけで表された詩や和歌も、実はそのように表されることが求められて表されたものであって、そのような作品があるからと言って、カナ文字だけで表すことが一般となったということはないことは、反論の余地のないところです。日本語の標準的な表記法が、「漢字仮名交じり」であることは、どうしても揺るぎません。これはどうしたことか……!
 『萬葉集』を通して、幾つか興味深いことを知ることができました。
 『萬葉集』は、いわゆる「万葉仮名」で表されていると言われます。しかしこれは、全てが「万葉仮名」で表されている訳ではないということが隠されて言われることで、「万葉仮名」とは一体何なのかというところから解明する必要があることでもあります。現代のカナ文字とは、どのように一致し、どのように相違しているかが判然とすれば、言い換えれば「万葉仮名」とはどんな文字かということが判然とすれば、カナ文字だけで表す表記法が一般となればということが、如何に幻に過ぎないかということも判然とすることになるのではないでしょうか。勿論結論ありきというのではありません。「カナ文字だけでの表記法があってもよかった」のではないかという、多数の視覚障害者が現実を直視できる環境は、今もまだ整ってはいないようです。そこで以下に、これまで『萬葉集』に当たりながら日本語の表記の当初の姿を想定して来たところをまとめてみたいと思います。
 『萬葉集』の原文はいわゆる「万葉仮名」で表されていると言われて、私もそのように想像して参りましたが、実はそこに使用されている文字は、「カナ」と呼ぶにはそれほど単純なものではないということを知ることになりました。『萬葉集』は、雄略御製歌と舒明御製歌の二つの御製歌から始まります。ところがこの二つの御製歌は、その後に続く歌とは、かなり趣を異にしています。どのように異なっているかと申しますと、それはその後の歌群に見られるような、書記された定型詩(長歌・短歌・旋頭歌、あるいは漢詩)ではなく、書記以前の、舞踊を伴うような、集団で唱された伝承歌と思われる歌(雄略歌)や、儀礼の場で称される「国見歌」(舒明歌)であって、書記されることを想定した表記法とは異なる、多数の声を合わせて唱えるための歌が冒頭に置かれていることです。逆に見れば、その後に続く歌群は、声に出して唱えることは勿論、さらに書記を前提として作られた歌であって、極めて高度な形式によって、またその示すところも極めて多岐に渡った歌だということが言えます。冒頭の雄略御製歌と舒明御製歌の二首に続く歌群が、極めて音数律の定まった定型に従った歌であると言うことは、恐らく現代の詩にも散文にも、根の深いところで何かを指示しているように思われます。
 もう一つ言えることは、この定型の歌群が、ほとんどいきなり出現していることで、『萬葉集』と並んで最古の書と言われる「記・紀」に、記紀歌謡としてこの定型の歌群よりも以前に唱えられていた歌が収められているに留まっています。それらの歌と『萬葉集』の定型の歌群との間が、言わばミッシングリンクとなっていると言えるようなのです。

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