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漢点字の散歩(48)
                    
岡田 健嗣

    漢点字文の構成を考える

 先頃、本会の読者のお一人から、川上泰一先生の推奨された漢点字の文章は、触読には適していないのではないかというお手紙を頂戴しました。短いものですので、全文を採録してみます。

 「いつも 漢点字の 資料を ありがとーございます。読んでいて 思うのですが、漢点字文で あっても 普通に 升明けを した方が ずっと 読みやすいと 感じて います。川上 先生の 意わ 十分に 分かるのですが、読みやすい、早く 読めると いうのも 大事な 要素だと 思います。その点 お考え いただけないでしょーか?
 感想を 書かせて いただきました。今後とも 宜しく お願い いたします。」

というものです。読者のお一人から頂戴しました漢点字文を、そのまま墨字文に直してみました。
 要約しますと、「川上先生は、漢点字の文章は、従来のカナ点字の文章とは違って、分かち書きをする必要はない、とおっしゃって分かち書きをしないようにして来られたが、触読の見地からみれば、やはり従来の点字文に従った分かち書きをする方が、触読し易いと思うので、検討していただきたい。」ということになります。「普通に 升明けを」というところを、「従来の点字の分かち書き」と解してみました。「従来の点字の分かち書き」というのがどういうことを言っているのか、そのことからご紹介して参りましょう。
 ここでいう「従来の点字」とは、漢点字に対して、これまで、と申しますか、現在も一般に使用されております「日本語点字」を言うもので、明治23年に、石川倉次によって翻案され、文部省によって「日本語点字」と認定された点字体系を言います。これには漢字を表す点字符号は含まれておりません。いわゆる「カナ点字」だけで日本語文を表現しようというものです。「いわゆる」と申しましたのは、この体系には、ひらがなとカタカナの区別がありませんことと、表記法が墨字のカナ文字とは異なって、分かち書きされなければならないことによって、正確には「仮名」ということもできないのではないかと考えられるからに他なりません。
 このカナ点字の体系は、明治期に入ってから行われた、アルファベットで日本語を表そうという試みであるローマ字の構成を参考に、欧米から渡来した点字の体系を50音表に当てはめたものです。その意味では「カナ点字」ではなく、「ローマ字点字」と呼ぶ方がふさわしいものと言えます。ローマ字にはひらがなもカタカナもありませんように、これは正しく「ローマ字点字」と呼ばれるべき点字体系ではありますが、何時しか「カナ点字」と呼び習わされるようになりました。
 ローマ字の表記法は、欧文の表記に倣ったもので、欧文の表記は、文章を単語に分けて、単語と単語の間にスペースを一つ入れる方式が採られています。アルファベットは音素文字ですので、発音される音声を音素に分けて、それを文字に置き換えて紙の上に移したものです。その文章の最小単位は単語と呼ばれます。その表記法は、単語と単語の間にスペースを入れることで区切りを付けるものでした。
 ローマ字の表記もこれに倣って、日本語の発音を音素に分けて、それをアルファベットで表記するものでした。文章も単語の集合と捉えて、単語と単語の間にスペースを一つ入れて表すようになりました。

 Kyo wa yoi tenki desu.

 「Kyo」は「今日」、「yoi」は「良い」、「tenki」は「天気」、これらは日本語文の根幹をなす単語ということができますが、「wa」(は)と「desu」も単語と捉えての表記となりました。手元に十分な資料がありませんので、確実なことは申せませんが、初期の日本語点字の表記もこれに倣ったものだったのではなかろうかと考えられます。

 きょー わ よい てんき です

 このように単語ごとにスペースを入れる表記法を、点字の世界では「分かち書き」と呼んでいます。さすがにローマ字の表記に倣った分かち書きは、触読文字である点字の触読向けには、評判が悪かったようで、現在は助詞と助動詞は、前の単語との間にスペースを入れない、ということになりました。従って右の単文は、

 きょーわ よい てんきです

となります。勿論墨字でもこの程度の文でしたら、カナ文字だけで表記されても充分理解できます。実際カナ文字だけで表記される文章もありますが、このような表記にはならないはずです。「きょうはよいてんきです。」でしょうか。
 お気づきのように、ローマ字表記に倣った名残が、ここに幾つかあります。@単語ごとの分かち書き(助詞・助動詞は、前の単語に付ける)、A助詞のははわ、へはえと表記する、Bうで表されるウ音とオ音の長音はーで表す、などです。後ろの二つは、明治初期に文部省令として発せられた、小学校においての仮名表記法に基づいたもので、「棒引き仮名遣い」と呼ばれています。これは一般には受け入れられなかったようで、直ぐに廃棄されました。が点字の表記には現在も有効です。点字の表記を墨字の表記に合わせるということは、兆しもありません。またお気づきのように、昭和30年代までは、句読符号も使用されておりませんでした。読点は分かち書きで代用、句点はスペース二つで表すとなっていました。現在では原則として、分かち書きしながら句読符号を付すことになっています。
 分かち書きの原則は右に述べた通りです。つまり単語と単語の間にスペースを入れる、助詞と助動詞は前の単語の後ろに付けるというもので、誠に緩やかにできています。これで片付くなら誠に目出度し目出度しなのですが、原則が緩やかであれば、それだけ例外も増えるという、予想し得ることがそのまま現実になって参ります。
 2、3例を挙げてみましょう。
 「として」は一般に助詞として登場します。「…として…」、「と思って、の状態で」の意味と広辞苑にはあります。したがって「として」は前の単語に続けて表記されると理解できます。ところがこの「して」が、動詞「する」の活用の連用形ではないかという指摘が提出されました。もしそうならば、一つの単語ではなく、「と して」と二つの単語だと考えなければいけないことになりますが、ならば助詞としての「として」はないものになるのだろうか、そうすると広辞苑の記述も宙に浮いてしまう、ということになります。
 また助詞・助動詞はスペースを入れずに表記するとあります。「です、でした」は助動詞ですので、そのまま続けます。それでは「である」はどうか、この「ある」は助動詞ではなく、動詞であるから、「で ある」とスペースを入れる必要があるということになります。
 もう一つ、漢語の熟語は、漢字三つまではスペースなしに、漢字四つの場合は原則として前後二つづつに分けて、その間にスペースを入れることになっています。「試行錯誤」は「しこー さくご」、「弱肉強食」は「じゃくにく きょーしょく」と表記されます。これはあくまで原則で、これに当て嵌まらない熟語も数多く出て参ります。
 頻繁に使用される熟語に「五里霧中」があります。このように漢字を並べて読めば何のことはないと思える熟語です。意味は五里に渡る霧の中に迷い込んで、前後不覚の状態になってしまうというものです。これにどのようにスペースを入れるか、原則通り「ごり むちゅー」でよいか、それとも別の表記にするか。同様に「蝸牛角上の争い」という格言はどうか、これも原則通り「かぎゅー かくじょーの あらそい」でよいか……。このような例は無数に出現して、点訳者の皆様を繰り返し悩ますことになってしまいました。
 さてそれでは実際に文章を従来の点字文に点訳しようとする場合、どのようなことになるのでしょうか。ほんの僅かではありますが、例示してみましょう。
 山内薫さんの著された『本と人をつなぐ図書館員』の後書きの冒頭の部分を使用させていただきます。

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 公共図書館は地域に生活するすべての人に開かれている。
 誰もが図書館や資料を利用する権利を有しているのだ。それは、生まれたばかりの赤ちゃんから寝たきりのお年寄りまで、目の見えない人から矯正施設に収監されている人まで、すべての人を含む。
 しかし、図書館や資料を利用したくても利用できない人が大勢存在する。そうした人に対しては、その人のもとに出かけていったり、読めるように資料を変えなければならない。こうしたことを実現するのが、いわゆる障害者サービスと言われる図書館サービスだ。
 図書館の障害者サービスは、心身に障害のある人へのサービスを指すわけではなく、図書館や資料を利用しようとしたときに、何らかの障害が生じた場合に、その障害を取り除くサービスである。

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 この文章をカナ点字の点字文に変換するのだが、分かち書きされていない文章を分かち書きしようというのであるから、結構勇気が要ります。どのような勇気かといえば、もとの文章を別の文章に替えてしまうのではないか、こういう虞のようなものと言えるように思われます。それを振り切ってやってみましょう。
 私の妻は、中学生のときに視力を失って、盲学校に入学しました。そこから点字の世界に入ったのですが、この分かち書きには、なかなか慣れることができませんでした。そこで級友にそのコツを尋ねたところ、これもユニークな答えが返ってきました。「文章のそれらしいところにネを入れてみて、おかしくなければそこにスペースを入れればいいんだよ」というのです。如何にも未熟な稚拙な考え方に聞こえますが、よく考えてみると、案外正鵠を得ているものかもしれません。そこでこの考えに沿って、右の文章に分かち書きを施してみましょう。

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 公共ネ 図書館はネ 地域にネ 生活ネ するネ すべてのネ 人にネ 開かれてネ いるネ。
 誰もがネ 図書館やネ 資料をネ 利用ネ するネ 権利をネ 有してネ いるのだネ。それはネ、生まれたネ ばかりのネ 赤ちゃんからネ 寝たきりのネ お年寄りまでネ、目のネ 見えないネ 人からネ 矯正ネ 施設にネ 収監ネ されてネ いるネ 人までネ、すべてのネ 人をネ 含むネ。
 しかしネ、図書館やネ 資料をネ 利用ネ したくてもネ 利用ネ できないネ 人がネ 大勢ネ 存在ネ するネ。そうしたネ 人にネ 対してはネ、そのネ 人のネ もとにネ 出かけてネ いったりネ、読めるネ ようにネ 資料をネ 変えなければネ ならないネ。こうしたネ ことをネ 実現ネ するのがネ、いわゆるネ 障害者ネ サービスとネ 言われるネ 図書館ネ サービスだネ。
 図書館のネ 障害者ネ サービスはネ、心身にネ 障害のネ あるネ 人へのネ サービスをネ 指すネ わけではネ なくネ、図書館やネ 資料をネ 利用ネ しようとネ したネ ときにネ、何らかのネ 障害がネ 生じたネ 場合にネ、そのネ 障害をネ 取り除くネ サービスでネ あるネ。

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(句読点の前にもネを入れてみました。)

 本来でしたら次に、漢字の部分をカナに替えた表記にしてご覧に入れるところですが、それは皆様の想像にお任せしたいと思います。むしろこの「ネ」という音を挿入してみるという、ばかばかしいとさえ思われる試み、その「ネ」に当たるところにスペースを入れれば、従来の点字の分かち書きの原則に適った表記になるという事実、これは重大な何かを暗示しているように思われます。
 川上先生は、私たちに「漢点字」という、画期的な触読文字を残して下さいました。その表記法も、従来の日本語点字の表記法である分かち書きを廃棄して、一般の文字の表記に倣った表記法を採用なさいました。それは、先生が年来抱いておられたこの分かち書きへの疑問によりました。
 日本点字委員会によれば、従来の点字の表記法に大きな位置を占めている分かち書きは、その原則に従えば、カナ点字だけでも充分に文章を表現できると評価しておられます。しかし歴史的にはその順序は逆で、漢字を表す触読文字を案出しないまま現在に至り、漢字の体系の触読文字に目を瞑って、従来の日本語点字の表記法で充分文章を表現できるとしなければなりませんでした。そうしなければ、委員会の権威を保つことができないからです。現在でもそのように固執しておられます。
 川上先生は、漢字の体系のない文字で、漢字の知識を持たない者が、音を頼りに読書をするということに、大きな違和感をお持ちになられたのでした。しかもそれを分かち書きする。分かち書きされた文章の分かたれたところに「ネ」を挿入してみると、これは実に細かな区切りを示していることに気付かされます。従来の点字文ではそこがスペースになっているために、気付かぬまま過ごしてしまったに違いありません。先生は、文章をブツブツと切り刻んでいるのが従来の点字文の表記だと感じておられたようでした。時折漢点字協会の機関誌の『新星通信』に、「カナ点字の分かち書きでは、短歌のリズムが台無しだ」とお書きでした。
 一つ、短歌の例を挙げてみましょう。

 春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山

 「小倉百人一首」の持統天皇の御歌です。
 私はこの漢点字の活動を始めるまでは、短歌のリズムとは五七五七七のことだとばかり思っておりました。勿論このリズムがベースにあるのですが、まるで西洋音楽がドレミファの音階によって構成されていながら、作品となるとその音階を遙かに超えた羽ばたきを見せるように、短歌も、五七五七七という韻律の中に、更に区切りや切れ字と呼ばれる技法によってリズムの変化がはかられることを、この間に知りました。現代短歌では、句読符号やスペースの導入も盛んで、リズムの変化を自在に操った歌も、決して珍しくありません。そのような短歌を見ながら、川上先生は、右のようにおっしゃったのであろうと、現在の私は考えております。
 さてこの持統天皇の御歌、カナ点字の表記法によって表記したらどうなるか、ご覧下さい。

 はる すぎて なつ きにけらし しろたえの ころも ほすちょー あまの かぐやま

 如何でしょうか?皆様これをどうお読みになられましょうか?
 以上、この例からお分かりいただけますように、従来のカナ点字の分かち書きで表された文が、単に漢字の知識を与えないばかりでなく、日本語のリズムの偏向にまで及んでいることを、川上先生は看破しておられたということが、遅まきながら私にも理解できるようになってきた次第です。
 その意味で、読者のお一人から頂戴したこのご提案は、触読し易い漢点字文とはどのようなものかということを考えてみなければいけないことをお示し下さいました。ご提案のように、従来の点字表記法である分かち書きの規則を、そのまま漢点字文に当て嵌めることはできないことは右に述べた通りですが、直ぐに実現できずとも、行く行くの目標として、触読し易い漢点字文の実現について、その考え方を練る必要があることを、痛切に感じた次第です。
 こうしてみると、川上先生の奥様がこの4月にご逝去されましたが、漢点字の表記法については、まだまだ揺籃期を抜けてはいないという感を強くせざるを得ません。知恵も力も乏しくはありますが、頑張って行きたいと思っております。


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