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漢点字の散歩(36)
                    
岡田 健嗣

               万葉集初体験 (1)


 本誌前号でご報告致しましたように、本会では1昨年度に引き続き昨年度も、『萬葉集釋注』(伊藤博著、集英社文庫)の第二巻を漢点字訳して、横浜市中央図書館に納入致しました。全国の図書館にお申し込みいただければ、貸し出されます。ご愛読賜りますことを願って止みません。
 これまでにも繰り返し申し上げて参りましたが、視覚障害者が「万葉集」に触れる機会を得られるようになったのは、今回が初めてのことです。残念ながらこのことは、ほとんど知られることがありません。「万葉集」のみならず、欧米と異なるわが国の文字言語の環境から申せば、書物に触れたことのある視覚障害者は皆無と言ってよい、と私は考えています。母国語を表記できる文字の体系を持たない者が、書物を読むということが可能かという問いを問い続けているのが、この漢点字の点訳活動だということを、再度ここに申し上げたいと思います。と申すのも、驚くべきことに、漢字の知識を持たない視覚障害者が、点字図書館からカナ点字で表記された点訳書や音訳書を借り受けて、触読したり聴読したりして、「本を読んでいる」と胸を張る姿に、私は屡々行き会って参ったからに他なりません。点字書を読むという行為は、誠に労力のかかるもので、その苦労を乗り越えて触読したのだというのが、そのような彼らの言い分だとは思われます。しかし読書が、肉体的な・精神的な苦痛に耐えることを意味しているのであればそれも許容されてしかるべきかと思われますが、まずはそこに疑いを差し挟む必要があるはずと私には思われますし、視覚障害者の間にだけで通用する、そのような労り合いと認め合いで読書の満足を得るのかという疑いを、差し挟んでおく必要も感じております。かつての私には、このような文字を知らないことへの無自覚は、誠に信じ難いことでしたが、実際には現実に存在しており、現在も再生産され続けております。
 このような情況下に、初めて本書『萬葉集釋注』に触れてみますと、誠に驚くことばかりだったと申しても過言ではありません。何に驚いたか、まだ巻二十までのうち巻第四までに触れたばかりで、今後どのように展開して行くのか想像もできませんが、ともかくこれまでに読むことのできた範囲で、私にとって意外に感じたところを、幾つか挙げてみたいと思います。これはあくまで、これまでに生きてきた中で、「万葉集」について耳にしてきたことからの印象以外には、その知識を持つことがなかったという環境下でのこととお受け取りいただいて、稚拙であり取るに足りないことと思われるところもありましょうが、ご容赦いただきたくよろしくお願い申し上げます。
 私が「万葉集」について抱いていたイメージと言えば、誠に漠然としたものでした。わが国最古の歌集であることと、表記されている文字が「万葉仮名」と呼ばれる、漢字音を日本語の音に当てて、カナ文字のように用いたものであって、後に現在のカナ文字の基となったものであることの二点くらいのもので、この2つの点でさえ、極めて朧気な知識であったことを、今では思い知らされております。
 「万葉仮名」についてはここでは置くとして、『萬葉集釋注』に初めて触れたときの戸惑いを申しますと、何と言っても歌の並べられ方でした。
 私が抱いていた最古の歌集としての「万葉集」は、当時の皇室、あるいは皇室を取り巻く人々の、宮中の冠婚葬祭の儀礼に応じて作られたお歌を、時系列に配列したものであろうというものでした。
 ところが「万葉集」は、冒頭から、誠に堅固な編集意識を突きつけて参りました。長歌・短歌・旋頭歌など四千五百首余りを単に時系列に並べるなどあるはずはないことは、少し考えれば当然のことではありますが、今日まであるいは未来に至るまで何かを訴え続けるには、強烈な意識が働いていなければならないことは、これもまた当然のことに違いありません。その編集に関する強烈な意識に思いを致すことこそが、「万葉集」に歩を踏み入れる第一歩であることが、これまた朧気ながら分かり始めました。
 「万葉集」は巻一から巻二十の二十巻からなっています。それぞれの巻には、類別されてお歌が集められています。それを、「部立」と呼びます。「部立」には、「雑歌(ざふか)」(宮中の儀礼や出来事、公事に関するお歌)、「相聞歌(さうもんか)」(男女の恋愛に関するお歌、男女間で交わされたお歌)、「挽歌(ばんか)」(葬送に関するお歌、哀悼のお歌)などがあります。さらに巻三には「譬喩歌」と呼ばれる部が設けられています。これは相聞と同様に恋愛を題材にしたお歌でありながら、「相聞歌」とは呼ばれずに新たに部が立てられたお歌の集まりで、恋愛に関して直截な表現を避けているところから、平安時代の、恋愛の心を何かに仮託するという成熟したお歌に触れているような錯覚に襲われるお歌です。「万葉集」の編まれた8世紀は、わが国の言語表現の1つのピークの時期だったと言えるのでしょう。ここに収められているお歌たちは、既に後世に展開される表現を先取りした作品ばかりに思われて参ります。
 巻はそれぞれ部立に分けられているばかりでなく、定まった編集方針の下に編纂されているようです。そこでここでは、巻一から四の、それぞれの冒頭歌をご紹介して参ります。そしてそれぞれの理解を、伊藤先生の「釈文」から引用してみます。お歌は漢点字版の表記に倣って、漢字仮名交じり文、カナ読み、そして伊藤先生の現代語訳の順に掲げます。

(巻第一、雑歌)

 籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
 こもよみこもち*Bふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いへのらせ なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそをれ われこそば のらめ いへをもなをも
 〈おお、籠(かご)、立派な籠を持って、おお、掘串(ふくし)、立派な掘串を持って、ここわたしの岡で菜を摘んでおいでの娘さん、家をおっしゃい、名前をおっしゃいな。幸(さき)わうこの大和の国は、隈(くま)なくわたしが平らげているのだ。隅々までもこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方からうち明けようか、家も名も。〉


 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
 やまとにはむらやまあれど*Bとりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには
 〈大和には群がる山々があるけれども、中でもとりわけ神々しい天の香具山、この山の頂きに出で立って国見をすると、国原にはけぶりが盛んに立ちのぼっている。海原にはかまめが盛んに飛び立っている。ああ、よい国だ。蜻蛉島大和の国は。〉

 以下「釈文」より、第一のお歌について、
 《『万葉集』開巻冒頭の歌。作者は第二十一代雄略(ゆうりゃく)天皇。いついかなる場合でも、最初に位置するものには、それなりの意味のあるのが、世の習い。この雄略御製も、『万葉集』二十巻に対して何らかの意味を負わされて、この位置を占めているのであろう。/ 標題に「泊瀬の朝倉の宮に云々」とある「泊瀬」は、当時隠り処(こもりく)とされ、とくに「泊瀬小国(はつせをぐに)」とも呼ばれた。また、「朝倉の宮」は、奈良県桜井市朝倉の地にあった雄略天皇の皇居。古くから今の黒崎付近がその跡とされてきたが、昭和59年(1984)6月、桜井市による諸宮調査会によって、桜井市脇本小字燈明田(とうみょうでん)の地に、南北に3列に並ぶ13の柱穴が発掘され、この地がにわかに有力視されるに至った。脇本燈明田は、泊瀬の谷の入口、三輪山南麓、初瀬川北岸の地。/ さて、歌は、一読のもと、次のような情景を、人びとに想像させるであろう。/ 雄略天皇の支配する泊瀬小国のさる岡で、明るい春の日ざしをあびながら、入り乱れて若菜を摘む娘子(おとめ)たちの中に、とりわけ気品の高い女性がいた。身におびる籠(かご)や掘串(ふくし)の格別なさわやかさは、どこから見ても、彼女が今日の野遊びのあるじで、一族を代表して神を祭る尊い女にちがいないことを示していた。ちょうどそこを通りかかったのか、それともみずからも人をひきいて国見(くにみ)にやってきたのか、雄略天皇は、いちはやくこの娘子に目をとめて呼びかけた。「籠もよ み籠持ち…」。/ これから万葉四千五百余首の歌々を読み進めてゆけば、おのずから明らかになることであるけれども、『万葉集』の名義は、諸説ある中で、おそらく、万代集=i万世ののちまでも伝わる歌集)の意と見るのが(『万葉代匠記』)最も穏当だと思われる。その名義を象徴するかのように、『万葉集』は、うららかな春の日の、この呼びかけ歌によって幕をあける。》

 この後ろに、雄略御製歌として冒頭に掲げられたこの歌は、求婚と婚姻の成立を象徴した歌劇に基づいた、広く流布された、普遍的な形式の歌であって、それゆえにこの歌を御製として掲げたのであろう、と述べられております。言わば「万葉集」開巻の宣言としての役割を、編纂者が、この雄略御製歌に担わせたのでしょう。
 第二番のお歌については、

 《古代日本人が国家の意識をはっきり持ちはじめ、神々と人間との分離を知りだした第一歩は、仁徳〜雄略朝あたりに求めることができる。『古事記』が、神々の物語である上巻(天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)〜鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと))、神と人との物語である中巻(神武〜応神)、純粋に人間の物語である下巻(仁徳〜推古)の三巻に分かれ、その下巻を仁徳天皇からはじめている構造を掘りさげてゆけば、右の認定がたやすく得られる。『宋書(そうしょ)』倭国伝(わこくでん)における「倭(わ)の五王」の始まりを仁徳王朝に擬する考えがあるのも、そうした探究による成果である。/ 仁徳朝以降、人びとの心に培われた神人分離の認識は、欽明〜推古(6世紀後半〜628年)、とくに推古朝に至って時期を画した。聖徳太子による冠位12階制(603年)や十七条憲法の制定(604年)、大陸との正常な国交の開始(607年)や仏教統制機関の設置(624年)などは、推古朝における国家意識の飛躍を物語る。また、天皇記・国記・本記(ほんぎ)などが編まれたこと(620年)は、推古朝が古代における歴史体系の未曾有の獲得期であったことを示す。人間の個の自覚は、国家意識の生成と密接にかかわる。/ 抒情詩の個性は、集団を構成する人間が国家の確立による統一的な秩序や機構によって制約をうけ、一定の義務や権利を与えられて矛盾や喜びを感じる時に形成されてくるといわれる。記紀に収められる古代歌謡ならぬ万葉和歌が、推古朝を継ぐ舒明朝頃から急増し、新しい相貌を見せてくるのは偶然ではない。万葉の時代を築きあげた天智・天武両帝や持統女帝の、父であり祖父である人が舒明天皇であったために、『万葉集』においてとりわけ舒明朝が重んぜられたという事情も考え合わせなければならないものの、舒明朝あたりが万葉の黎明(れいめい)であったことは否定できないであろう。そして、このことを身をもってあかすのが、舒明御製の歌柄(うたがら)であり、その歌を二番歌(にばんか)として開巻冒頭歌の直後に据えた巻一の構造である。/(中略)/ 歌の第五句「登り立ち」は斎(い)み清(きよ)めた身を、香具山の山頂に定められた斎屋(さいおく)(いおり)の中に立てることをいうものと思われる。そのようにして、大和群山中とりわけすぐれて神聖な香具山から国見をするので、天皇の目には躍動する自然が立ちあらわれることになる。その自然、具体的にはその土と水とがともに生気に満ちて躍っていることを述べた表現が、「国原はけぶり立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ」の対句(ついく)である。「けぶり」は陸地一帯に燃え立つもの、水蒸気や炊煙などを称し、「かまめ」は海原に飛び交う鴎(かもめ)をいうのであるらしい。このように、国土の原核であり、農耕の必須の媒材である「土」と「水」とが充実しているというのは、国土の繁栄、一年`ひととせ*Bの五穀の豊穣が確約されたことを意味する。だから、一首はただちに「うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま)大和の国は」と、高らかな讃美のもとに結ばれる。/ この歌には、「大和」が冒頭と末尾とに現われるけれども、冒頭の「大和」はむろん天皇が今在(あ)り今目にするヤマト(奈良)である。だが、「国原はけぶり立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ」をくぐりぬけたあとの「大和」は、映像を大きく広げて、天皇の領国全体を意味するヤマト(日本)に変貌している。奈良なるヤマトには「海」がない、したがって「かまめ」が舞うのは不思議だとする視野に立つ者には、この古代特有の詩想は理解できないのではあるまいか。天皇は奈良なるヤマトの池どもを「海」と見、そこに舞い立つ白い水鳥を「かまめ」と見たのであろう。そのように思い見たからこそ、「うまし国ぞ」と称揚された末尾の「大和」は、陸と海とによって成る日本国¢S体の映像をになうことになった。まえの「大和」には枕詞がなく、あとの「大和」には枕詞「蜻蛉島」が冠せられているのも、このこととかかわりがあろう。「蜻蛉島大和の国」は日本に対する神話的呼称の一つで、五穀の豊かに稔る聖なる国の意であり、一首の文脈によく合う。》

 この舒明天皇のお歌が冒頭第二番に置かれていることは、「万葉集」が舒明天皇の系統、天智・天武・持統天皇の世に始まり、営々と歌い継がれることを示唆するものであり、そのように編纂されて行くことを意味していると言われています。そして、「雄略天皇は、『古事記』下巻の時代を代表する天子の一人で、とくに、歌の霊力によって物事のすべてを統治していく天子として名が高かった。一〜五三番歌において、雄略御製は、一つ上がりたる世≠象徴する天子の歌、古き世と新しき世とのつなぎをなす歌として押し立てられたとみられる。」と述べられており、「万葉集」が舒明天皇の系統、とりわけ持統天皇の歌集という性格が色濃いことを述べておられます。
 この舒明天皇の国見歌に対応して、天皇の国見を褒め称えるお歌が、五二・五三番(作者未詳)で、巻第一の持統天皇の世のお歌は、ここで終わります。巻第一の後半の五四〜八四番のお歌は、元明天皇を中心とする時代に移って行きます。
 五二と五三番のお歌は、「藤原の宮の御井(みゐ)の歌」と題されて、

五二
 やすみしし 我ご大君 高照らす 日の御子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水
 やすみしし*Bわごおほきみ たかてらす ひのみこ あらたへの ふぢゐがはらに おほみかど はじめたまひて はにやすの つつみのうへに ありたたし めしたまへば やまとの あをかぐやまは ひのたての おほきみかどに はるやまと しみさびたてり うねびの このみづやまは ひのよこの おほきみかどに みづやまと やまさびいます みみなしの あをすがやまは そともの おほきみかどに よろしなへ かむさびたてり なぐはし よしののやまは かげともの おほきみかどゆ くもゐにぞ とほくありける たかしるや あめのみかげ あめしるや ひのみかげの みづこそば とこしへにあらめ みゐのましみづ
 〈あまねく天下を支配せられる我が大君、高く天上を照らしたまう日の神の御子、われらの天皇(すめらみこと)が藤井が原のこの地に大宮(おおみや)をお造りになって、埴安の池の堤の上にしっかと出で立ってご覧になると、ここ大和の青々とした香具山は、東面`ひがしおもて*Bの大御門(おおみかど)にいかにも春山(はるやま)らしく茂り立っている。畝傍のこの瑞々(みずみず)しい山は、西面(にしおもて)の大御門にいかにも瑞山(みずやま)らしく鎮まり立っている。耳成の青菅(あおすが)茂る清々(すがすが)しい山は、北面(きたおもて)の大御門にふさわしくも神(かん)さび立っている。名も妙(たえ)なる吉野の山は、南面(みなみおもて)の大御門のはるか向こう、雲の彼方(かなた)に連なっている。佳き山々に守られた、高く聳え立つ御殿、天(あめ)いっぱいに広がり立つ御殿、この大宮の水こそは、とこしえに尽きはすまい。ああ御井の真清水は。〉

 短歌
五三
 藤原の 大宮仕へ 生れ付くや をとめがともは 羨しきろかも
 ふぢはらの おほみやつかへ あれつくや をとめがともは ともしきろかも
 〈藤原の大宮仕え、その仕えの者としてこの世に生まれついたおとめたち、ああ、おとめたちは羨(うらや)ましい限りだ。〉
                  (以下次号)
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