Uka96    トップページへ

漢点字の散歩(34)
                    
岡田 健嗣

               読 書


 「(前略)蛇足とは思いますが、もう一言付け加えさせていただきます。/ 視覚障害者の読書の方法として音訳書の聴読が大変大きなウェイトを占めるようになって参っております。/ しかしこれが本当に読書と言えるのか、これまでにどなたも問うたことはありません。/ しかも中途失明者が増えているのと、先天盲でも私どものような単純な視覚障害者が減って、点字使用者は激減しています。/ そこで皆様のような晴眼者の方が読書をするということを読書と位置づけた場合、視覚障害者が読書をするとは、どんな行為なのか、考えてみたいと思います。/ 面倒なことは省いて、飛ばして申しますと、皆様が文字を目で追って読まれるということは、文字が目から入って来て、脳に到達して、そこで文字の音・意味が分離されて、文意を理解するということになるのではと思います。/ つまり文字が目から脳へ到達するまでは、それが文字であるかさえ、理解には至らないということです。脳に到達して初めて文字であることを認識して、その意味を理解するということで、そこに一つの文章にも様々な理解が生じる謂われがあります。/ そこで視覚障害者が聴読するということを考えますと、対面でも録音でもかまいませんが、音訳者の方が上のようにして読み込んで、それを口から発語された音声を、耳から入れて脳に達して、そこで了解するというプロセスになろうかと思います。/ ここで大事なことは、音訳者の方が理解したものを音声にされて、それが耳に入り、脳に達するというプロセスだということ、そこには文字は介在しませんし、しかも既に他者の理解が含まれているということです。喩えは適切ではないかもしれませんが、聴読というのは、あたかも雛鳥が親鳥から口移しに餌を受け取るような行為で、雛鳥は巣立ちまでの期間そのようにして成長を待つわけですが、聴読する視覚障害者は、永久にその情況から抜けられない情況にあるということです。/ 従って、私は漢点字訳書の製作活動を行っておりますが、これもまだどなたも試みていなかったことに挑戦することになったのですが、お陰様で、その方法も掴めてきたと、羽化の会の皆さんには感謝しておりますが、今回の聴読者へのサービスを念頭に置いた音訳書の作成は、上に申したようなプロセスに、適切な、しかも過不足ない情報を載せることを、何とか実現させなければいけないと、無理なお願いであることは承知の上でお願いしております。(後略)」
 これはつい先頃、現在進めております『常用字解』の音訳版の製作プロジェクト・グループ向けのMLに書いたものです。推敲もせぬまま書き殴ったまま送信したもので、本誌に収録するなら改稿すべきとも思いもしましたが、敢えて誤字の訂正だけに留めて、このような荒れた拙稿を収めることにしました。と言うのも、このような考えは、私が読書を意識し始めたころから持ち続けてきたもので、これまでごくプライベートな、あるいは本会の会員間のようなごく身近な間で口にし、あるいは書いたりもしましたが、このプロジェクトのような半公の席に持ち出したのは、私としても初めてのことでした。もっともこのプロジェクトも、スタートしてから既に2年余りが過ぎて、この間には正に丁々発止とも言えるやり取りもあったわけで、その意味では半公と言うのでなく、既に身近な間柄と申しても、ご一緒に取り組んで下さっておられる音訳者の皆様からの異論は、なかろうかとも思われます。とは申しても、このような考えを開陳するに当たっては、視覚障害者が採っている読書の方法そのものに疑問を差し挟むことでありますので、一般の点訳や音訳に携わっておられるボランティアの皆様に向けての発言であれば、反感を覚悟せぬものではなかったことを、付言させていただきます。
 そこで右の拙稿の前提となっている「読書への意識」とはどういうものだったか、述べてみたいと思います。
 本誌では毎回のごとく私が読書を意識し始めたころのことを申し上げておりますが、今回もそこから話は始まります。私は盲学校を出るまでは読書といえる読書はして参りませんでした。それが盲学校を出てみると、読書が一人の人間を形成するのにどれだけの力を発揮するかを、思い知らされたのでした。裏から言えば、私の読書の貧しさが、どれだけ私を栄養不良に陥らせていたかを、身を以て知ったのでした。そこでいわゆる乱読を試みることにして、点字図書館の蔵書のうち、主立った文学書、漱石や鴎外、トルストイやドストエフスキーなどを、片端から読んだのでした。当時の視覚障害者の読書の手段といえば、カナ点字で点訳された点字書(現在もそれが主流ですが)を触読する方法と、磁気テープに録音された音訳書(当時はカセットテープではなく、オープンリールと呼ばれる大掛かりなテープで、録音・再生に用いるレコーダもテープも、大変高価なものでした。)を聴読(ここでは、音訳された音訳書を耳から聴いて読書することを呼びます。)する方法でした。片端からの読書とは、文字通り手当たり次第、思い当たった物、人から聞いて興味を惹かれた物、蔵書目録を隅から隅まで調べてノートを作るなどして借り出して読んだということです。点字書というのは大変小規模なもので、1つのタイトル、例えば『カラマーゾフの兄弟』であれば、20分冊を遙かに超えてしまうために、優に書架一段を超えて占めてしまいます。それで点字図書館の職員はあたかも、これだけの大部な書物があります、と胸を張ったものでした。点字図書の1分冊に収まる規模が乏しいために、点字図書館の蔵書は、一見豊富なものに見えるのでした。しかしその大半が私には縁の遠いもの、流行作家の大衆向けの小説であったり、ハウトゥー物であったりして、数年のうちに、蔵書のうちに読みたい書物を見つけられなくなったのでした。
 そのようにしているなかで、以前本誌にご紹介しましたように、友人が本を読み上げてくれるということがあって、私の読書に、点字図書館には入らないであろう書物への扉がひらかれるようになったのでした。そうして書物に関する知識も格段に広がって行き、同時に、一般の皆さんが本を読む現場に、初めて触れることになったのでした。それは誠に目を見張る思いの経験でした。盲学校にいるころの晴眼者の皆様とのお付き合いは、家族とごく身近な友人と、そして盲学校の先生方に限られていて、そこには読書の現場は残念ながらありませんでした。先生方は私たちの前に読書をする姿をお見せになられませんでしたし、友人たちとは、読書以外の付き合いに終始していたからでした。
 さて何に目を見張らされたか、これは今でも新鮮な思いで振り返ることができます。ある1冊の本を読み合わせます。一節・一章を担当者が読み上げて、参加者は同じ速度で黙読します。私はそれに耳を傾けます。一区切り読み終えたところで担当者は、自らの言葉に置き換えて解釈します。それに応じて参加者から異なった理解や疑問や質問が提出されます。これは誠によくある風景です。私も読み上げられた文章を反芻しようと頭を巡らせます。しかしこの辺りから他の参加者とテンポがずれてきます。どのようにずれるか、参加者は視読(晴眼者の読書法を仮にこう呼びます。)をしているので、幾度も読み返している様子です。私は何とか読み上げられた文章の記憶をたどっています。そのようにしながら質疑が交わされますが、そこで分かるのは、記憶とは誠に頼りないものだということで、1つの文章を丸ごと覚えて、反芻するなどということは、私には不可能だということを知ったのでした。読書とは、文字通り書かれた文字を読む≠アとだったのでした。一言一句を文字を追いながら、文意を理解し解釈する、これが本を読み合わせることでした。
 こう言えばあまりに当然のことで、何に驚いているのか読者諸兄姉にはお分かりにならないかもしれません。一言一句を文字に当たるということ、このことがそもそも私には驚きとともに、力の及ばない、手の届かない、遙かな彼方のありようと思われたのでした。
 然う斯うしているうちに私にも余裕ができたのか、周囲の様子が徐々に分かるようになってきました。参加者の反応にも個性のあることが分かってきました。むしろ本を読むときの癖のようなものという方が適切かもしれません。予めかなり読み込んで来る人、その場で初めて本を開く人、担当の箇所だけ下読みをする人、様々でした。どうしてそのようなことが分かるかと言えば、勿論読み上げるときの滑らかさを第一に挙げなければいけません。しかしそればかりではありません。充分読み込んできた人、担当箇所だけ下読みをしてきた人、ぶっつけ本番の人、それぞれの理解度や解釈の展開に、どうしても差ができてしまいます。さらに充分読み込んでいると思われる人の間でも、その理解に相違が見えてきます。この相違こそが、読書会の醍醐味と言っても過言ではありません。私も予め読んでおればと思わなかったとは申せません。
 さらにもう1つ、読み込んできていると思われる人たちは、意見を交換しながら本を読み返しているのですが、どうやら文字を追っているのではなさそうだと、私は気づきました。予め読んでこなかった人は、その場で文字を追うのに汲々としていて、意見の交換には間に合いません。何を読み取るかというところでは、どうやら文字を追っていては間に合わないということを、私は理解したのでした。既に文字ではなく文の世界に、文を超えた何か、言葉の織りなす像の世界に、心を委ねること、それが読書だということを、知ることになったのでした。
 そのようにして私も、読書に親しみを深めたのですが、むしろそれによって、それまでに持ち続けていた読書への乖離感が、大きくなった感を強くしたのでした。カナの点字を触読し、音訳書を聴読しても、墨字を目で読んでいる人の、文字を超え、文を超えて像に至るのが読書だとすると、到底私のやっているのが読書だと言うことはできない、そう感ぜざるを得なくなって参りました。カナの点字書の触読では、五十音の文字を追うのがやっと、音訳の聴読では、文字で表された書物を読むのではなく、流れている音声を聴く、音声の流れに身を委ねるところまでで精一杯で、文章を総体として捉えたという実感には、ついに至りませんでした。
 もう暫くそのような人を観察して見ることにしますと、これは本誌のレギュラー執筆者である・現ひきふね図書館の山内薫さんにも当てはまることですが、書物を読む人は、まず文字を追うことから始めるには違いありませんが、直ちにその理解を、意識として目を通してその文面に投射する、さらにその誤差を受容して再度投射する、このような行為を猛烈な勢いで繰り返し行っているように感じられます。これは読書が能動的な、積極的な行為であることを、信じられる一瞬でした。がそれとともに、当時の私には到底真似のできないものでもありました。
 冒頭の拙稿にもどって、その要旨を整理してみますと、@視読のプロセスは、文字を追うことから始まるが、要旨を把握すると直ちに目を通して文章と脳による理解とが交信される。これによって理解が一定の程度まで整理され純化され、高度化される。目で受け取り、脳で理解し解釈し、目から文章に投射する、この一連のプロセスこそが、一般に行われている視読による「読書」であって、正に「読書百遍」とは、このプロセスを指した格言である。私はこのプロセスを「読書のフィードバック」と呼ぶ。
 A視覚障害者の読書は、カナ点字の文章を触読する方法と、音訳書を聴読する方法が採られている。あくまで私の経験ではあるが、点字の触読とは、漢字仮名交じりで表されている文章を、カナの点字に書き改められたものを指先で触れて読むのだが、もともとカナ文字だけで表されているものならともかく、漢字とカナ文字で織り上げられている日本語文を読むには、あまりに必要な情報が足りないのではなかろうか。私には、視読の読書のプロセス(読書のフィードバック)を獲得するには、この方法では到底至らないように思われる。一方聴読は、音訳者が視読して、書かれている文章に沿って発語したものを、視覚障害者が耳で聴き取って理解し解釈するものである。音訳者の読書の成果である理解と解釈に裏打ちされて発語されたものを、耳で受け取る行為であって、そこでは視読の能動性は、音訳者に委ねられていて、視覚障害者の関与できる余地は、ほとんどない。また聴読の対象は文字ではなく音声であって、視読の対象である文字を音声に実現することは、恐らく不可能である。試しに晴眼者の皆様の前に、活字書とそれを音訳したメディアを置いて、お好きな方を取ってお読みくださいと勧めてみる。音訳書を手にとって試し聞きなさる方はあるかもしれないが、それで読書しようと試みる方は、恐らく皆無のはずである。私はずっと以前に、これに近いことを試してみた。晴眼者の皆様には、音訳書は、書物ではないのである。
 Bしかしながら視覚障害者は、視覚を失っているのである以上、視覚によらない読書の方法が構築されなければならない。その1つの有力な方法が、本会の活動である〈漢点字〉の触読であるが、残念ながら視覚障害者の有識者と言われる人々には、〈漢点字〉は極めて評判が悪い。しかも視覚障害の現状を見ると、先天的な障害者は急速に減少している一方、中途失明者、しかも高齢に達してからの失明者が、これも急速に増加しているのが現状である。そして私には驚きであったのだが、私の若いころには聞かれなかった新しい主張が、この増加している高齢の視覚障害者の方々の中に、大きな位置を占めていることを知った。その主張とは、「点字の触読はしたくない、読書は全て聴読で行いたい」というものである。この20年、あるいはそれ以前から、読書は聴読だけという声を、多く聞くようになってきた。である以上、恐らくわが国の視覚障害者の読書は、触覚ではなく、聴覚によるものが通常ということになって行くのがトレンドであろうし、それに応じた音訳書の製作が求められて来るのが必定と捉えなければならないであろう。
 やや長くなりましたが、整理し付言すれば、以上のようになろうかと思われます。
 本会は活動を始めてから17年余りが経ちました。私の漢点字の触読、漢字仮名交じり文に日常的に触れる環境を得るようになってから、17年が経ったことになります。これは私にとって、珠玉のような経験で、この経験から、視読のそれと同様のものかは分かりませんが、肉体的な感覚として(読書の)「フィードバック」を感得しています。古い表現ではありますが、「書物との対話」を実感しております。また、漢点字の触読の機会が増えて、日常的に漢点字と接するようになったころ、触読する指の感覚に、左右差のあることに気づきました。もともと私は、カナ点字の触読は右手が主で、左手はそれに添えるように使っていましたが、漢点字の触読では、全く逆転して、左手が主で、右手はそれに添えるようになってしまいました。このことと「フィードバック」は、無関係ではないのではないか、そう考えております。
 しかしこのようなことは、今のところ私一人に関わる事柄で、私にとっては誠に幸いなことで、横浜と東京の会員の皆様のお力に負うものですが、残念ながら決して普遍とは言えないのが現状です。
 『常用字解』の音訳のプロジェクトの活動を開始して以来、聴読を、如何に視読のレベルに近づけるかということを模索して参りました。この活動にご参加下さっている音訳者の皆様には、これまでに出されたことのないニーズが突きつけられた思いをなさっておられるものと存じます。その理由は、先にも申しましたように、聴読による読書は、音訳者の理解と解釈に全面的に負っているもので、まずは音訳者の文章の理解であり、解釈の質が問われてきます。その次に、通読するばかりでなく、文字や意味や配置などを音訳者の説明として、文章の流れを妨げないようにしつつ、挿入することが求められます。これは本来最終的な読者である視覚障害者に帰せられなければならない事柄ですが、現在の視覚障害者は、自ら文字に距離を置いており、その分音訳者に負担を求めていることなのです。
 このように、通常音訳者は、文面を正しく読み上げることが求められるわけですが、ことはそれだけでは済まないところまで来ています。私はこういうニーズの高度化に沿った音訳のあり方を、『常用字解』の音訳を通して提出したいと考えているところです。
前号へ トップページへ 次号へ