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漢点字の散歩(33)
                    
岡田 健嗣

              「万葉」の入り口から瞥見


 本誌前号でご紹介しましたように、横浜漢点字羽化の会では、伊藤博著『萬葉集釋注』(集英社文庫)の第一巻、巻第一・巻第二を漢点字訳して、横浜市中央図書館に納入しました。本会はこれまでにも、視覚障害者が触読でわが国の古典を読むという、誰も試みなかったことに挑んで参りました。その成果はまだ点に過ぎません。点を線にし、線を面にして行く、活動の本来の到達点はそんなところにあるはずです。たとえば和歌を見ても、万葉以来平安初期・醍醐朝の『古今和歌集』に始まり、室町前期・後花園朝の『新続古今和歌集』に至る21集が編まれた勅撰和歌集を漢点字訳することを想定しても、実際上どのようなプランを立て、どの程度の規模で、どの程度の年数をかければ叶うかと考えるだけで、ほとんど気の遠くなるものがあります。しかも勿論それだけでは到底充分とは申せません。勅撰和歌集は、時の天皇から委嘱された選者によって選ばれた歌が入集して編まれたもので、そのもとになった家集と呼ばれる個人の歌集の存在が必須です。古典と言っても和歌集ばかりではありません。説話文学、物語文学、日記文学、正史やその他様々な記録など、その対象は無数に広がり、厚みを増してきます。一般にはこういう資料は、希望するときに所定の場所へ出かければ、手に入るようになっています。しかし視覚障害者の視点に立つと、たちまち登攀を固く許さない、全容も定かでない、霧の中に未踏峰を前にしているような、頼りない思いに曝されます。その理由は誠に明白で、誰かが作らない限り、そのような資料を手にすることができないし、しかもそれは期待の外だということです。忘れてはいけないことは、視覚障害者の読書を直接支えているのは、点字図書館でもなければ公共図書館でもありません。ましてや出版社やマスコミでもありません。それは「ボランティア活動」だけだということです。
 本誌『うか』を創刊して以来私は、先が見えないまま活動を開始し、同様に見えないままその活動を続けていると、幾度も嘆息交じりに記したことを覚えています。今思えばそれは誠に無理のないことで、現在やっと「万葉集」に手が届き始めたわけで、建築で言えば地鎮祭の準備が整い始めたと言うのが、誠に相応に思えます。一つの点に過ぎない「万葉集」の漢点字訳のアプローチが、また次の何かのステップに繋がることを、切に願っている次第です。
 『萬葉集釋注』は、万葉歌の一首一首を独立した歌とだけ捉えるのではなく、歌々を1つのグループとして、それらの応対に筋道を引いて見る、言わばそのグループを一篇の説話と捉えて見ると、綴られる「釋注」そのものが、自ずと歌で織り上げられた物語の姿として浮かび上がってきます。そしてこの物語が、2つの経糸を中心に、宮廷儀礼(雑歌)、男女の恋情(相聞歌)、葬送(挽歌)を緯糸に、様々な色模様を織り上げています。それは実に絢爛でありながら率直な、色彩豊かでありながら過美でない、額田王、人麻呂、金村等の御言持ちたちの見事な文学水準を示して、現代の私たちを魅了します。
 2つの経糸とは、その1つは皇統です。「万葉集」は、雄略天皇の御製歌を第一に置いて、その次に舒明天皇の御製が置かれます。二番のこの舒明天皇の御歌から始まる形になって、舒明皇統を宣言しています。この舒明天皇に始まり天智天皇・天武天皇を経て持統天皇、そして持統直系の元明天皇とその子の文武天皇という、舒明皇統と持統直系の皇位継承を主題としたもので、そこには2つの悲劇が歌われます。
 1つは舒明皇統から外れる、孝徳天皇の王子・有間皇子の悲劇です。孝徳天皇は舒明天皇の弟、その皇太子はあの中大兄皇子、舒明天皇と皇極天皇(孝徳天皇の前帝)の子、後の天智天皇です。しかし孝徳天皇には有間皇子という利発な王子がいました。孝徳天皇の崩御後、皇極天皇が斉明天皇として重祚(再び帝位につくこと)します。有間皇子は天皇の行幸の留守中、明日香を守る蘇我赤兄に唆されて謀叛をもくろみます。これは中大兄の計略で、皇子はかの蘇我赤兄に捕縛されて、処刑されます。
 もう1つは天武天皇の王子・大津皇子の悲劇です。天武天皇には草壁皇子という持統天皇との間に生まれた王子がいました。大津皇子はその異母弟に当たります。大津皇子は成人して、行政官として、また政治家として手腕を発揮し、ぐんぐん頭角を現します。持統天皇はその王子・草壁を皇太子に立てたいと考えますが、草壁は身体が弱く、病がちでした。それに引き換え大津は、実績を重ねて、支持者を増やして行きます。支持者が増えるということは、政治的に勢力が大きくなることを意味します。そこで天皇は一計を案じて、大津に謀叛の嫌疑をかけて、磐余の池の辺で処刑してしまいます。
 しかし天皇の願いも空しく、草壁皇子は、譲位されることなくこの世を去ります。天皇は止むなく草壁の妻・阿閉皇女(天智天皇の姫、後の元明天皇)に譲位することにし、草壁と阿閉の子で孫である軽皇子(後の文武天皇)の成長を待つことにしました。
 大津皇子の同母姉・大伯皇女と、有間皇子のお歌をご紹介しましょう。

\2  我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし  一〇五、大伯
 ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ  一〇六、大伯
 岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む  一四一、有間
 家なれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る  一四二、有間\\

 先の2首は、伊勢に訪ねてきた弟の大津皇子を、大和へ見送ったときの姉の歌、弟の死が待っているかもしれない帰路を、それでも急がせなければならなかった姉の悲痛な心の歌です。
 後ろの2首は、謀叛に失敗し、信頼していた部下に裏切られて、死を賜ることを覚悟した、若い有間皇子の心情の吐露の歌です。
 正史に埋もれて行くはずのこの2人の皇子、正史に掲げられるべき人々を超えて、この紙面に留めさせたものは何か、今に至るまで私たちの心を揺するこの2人への追慕の念を、「万葉集」は記留めたのでした。

 経糸のもう1つ、これは国際関係、外交問題です。
 本来記紀を参照しながらこの課題に当たらなければなりません。しかし私の手元には、残念ながら漢点字のよい資料がありません。
 そこで昨年完成した漢点字書、書家の石川九楊氏が著した『万葉仮名で読む「万葉集」』を参照したいと思います。

 《漢詩・漢文の日本語化と、それから書かれることによって成立する和語以前の言葉(倭語)を和語化する。書くことによって和語化し、登録していくというような形で西暦900年までの間に日本語ができていく。この日本語づくりの本格的なスタート点は、大体650年ぐらい。万葉歌の始まりと同じ頃の時期に置いてよい。/ この西暦650年は、東アジアを前史と後史とに区分できるほどの実は大変な時代であった。これは大陸と一体化した歴史を辿っていた弧島(前日本)にとっては、白村江の敗戦でもって、大陸・半島から独立し、国を建てざるを得なくなった時期である。その必然的なつながりを、本当にどれだけリアリティを持って感じ取られるかという心配があるが、それでもなおあえて言えば、この650年とは、書でいえば楷書の成立した時期に当たる。(中略)/ そこからは、律令国家の形成に向けてまっしぐらに走っていく。大陸と弧島に挟まれた半島にも統一新羅という律令国家ができてくる。その北側には、渤海国という、今の北朝鮮からかつての満州あたりを含むところの国が建っていく。したがって、650年頃は東アジアが3つないし4つに分節される時期である。「ほんとかな」と保留してもいいから、一度そういう目で東アジア史を見直してみれば、東アジアの大転換は650年にあることは、誰の目からも確認できよう。これ以前の東アジアは、だいたい大陸に連動している。半島も弧島も大陸と連動して動いている。ところが650年過ぎには独立せざるを得なくなったのである。/ 平仮名は900年頃に大体形を整え、1000年には完璧な姿を見せる。1000年には物語文学『源氏物語』が書かれた。この頃、日本語と日本の文化の基本的な方向がはっきりと決定された。650年から女手が成立した900年に向かうこの日本語づくりの過程に位置するのが『万葉集』である。したがって、万葉の歌の中には漢詩まがいの、ほとんど漢詩のような歌から、もうほとんど古今和歌に近い一字一音で、少し書き方を変えれば、もう古今和歌になるという段階までさまざまな歌が含まれているのである。》(石川九楊著『万葉仮名で読む「万葉集」』、岩波書店、2011年)

 引用が長くなりましたが、ここで言われているのは、東北アジアの国家の関係が、唐の成立とともにがらっと変化したということです。どう変化したか。わが国に国家らしきものが成立したのがいつ頃か、それは極めて困難な課題ですが、国家らしき形ができあがるのは、恐らく朝鮮半島から玄界灘を渡ったり、大陸南部から南島沿に北上したりして九州から本州へと入ってきたりした人々によってであったろうことは、容易に想像できます。恐らくそれぞれに出身母体との連絡を保ちながら居住環境を整備していったに違いありません。半島の三国(百済・新羅・高句麗)からやってきた人々は、その出身母体を保ちながら、それぞれ定住した地域で共同体を営むようになったのでしょうし、大陸出身の人々も同様の共同体を営んだものと思われます。
 そのようなところに唐の成立と強大化は、朝鮮半島の三国の力関係を破壊しました。唐と結んだのは新羅で、新羅と対立関係にあった百済は、窮地に立たされます。そのころわが国で最も勢力を張っていたのが、その百済を母体にした政権でした。百済はそこに支援を要請します。
 「万葉集」にはこの辺りが生き生きと語られています。当時の天皇は斉明女帝で、661年に難波津を出港し、伊予の熟田津に寄港し1月あまりをここで過ごします。そして筑紫の朝倉の宮を目指して出港することになります。一行には天皇を初め中大兄と大海人、そしてその妻子を伴って、言わば一国を挙げた総力を注ぎ込む覚悟の出陣でした。
 ところが筑紫に到着すると直ぐに、斉明天皇の容態が急変し、崩御してしまいます。そのために中大兄や大海人が海を渡ることなく都へ帰り、中大兄が文字通り実験を握るようになります。
 663年、唐・新羅連合軍は百済を滅ぼします。わが国と百済連合軍も、朝鮮半島南西部の白村江(はくすきのえ)において、唐・新羅連合軍の急襲を受けて、全滅してしまいます。こうしてわが国の政権は、その出身母体を失うことになったのでした。
 中大兄は暫くの間即位せず政務に当たっています。その多くが、国土防衛だったと言われています。都も明日香から近江へ遷します。(これは天智天皇崩御後直ちに放棄されて、後に「近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ」(二六六)と人麻呂は歌っています。)また「防人」と呼ばれる防備軍を筑紫に派遣して、海の防備を固めようとします。
 このようにしてそれまで維持してきた朝鮮半島との連絡が断たれて、わが国は否応なく独自の歩みを始めざるを得なかった、「万葉集」の表現、表記の変遷は、それを跡づけている、と石川氏は言われます。
 氏はさらに進めて、「万葉集」の表記は、漢文から仮名への変遷の架橋を果たしていると言われます。大陸と一体であった時代には漢文さえ表せればよかった。ところが大陸から切り離されて、あるいは解き放されてみれば、わが国の言語は漢語圏の言語ではなかった、漢字だけでは表記し切れない言語であったことに、気づかされたのでした。そして『古今集』の編纂に至って新たな仮名文字表記の方法が提出されたのでした。氏はこの変遷を「万葉集」の万葉仮名の分析から、跡づけようと試みられます。
 大変興味を惹かれる分析です。万葉第二番・舒明天皇のお歌を例に、氏の捉え方を見てみたいと思います。まずは舒明天皇のお歌、漢点字版の表記に沿って、漢字仮名交じり文、ルビ(総仮名)、原文の順に掲げます。

\2  大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
*B`やまとには*Bむらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには
    【原文】
 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜■國曽 蜻嶋 八間跡能國者\\
 * ■=立心偏+可 か

《という舒明天皇の歌が出てくる。この歌はたいていの本には、(前掲・漢字仮名交じりの文参照)/ と漢字仮名交りで印刷してあり、我々はこの文字の姿に馴れ親しみ、口誦(くちずさ)み、朗誦を耳にすることによって、万葉歌になじんでいる。こういう漢字仮名交り文で書かれた歌から、奈良の写真を撮って有名な写真家・入江泰吉の、奈良の景色がおぼろに霞んだ美しい写真のような世界として、我々は万葉歌を解釈し感じとっている。/ ところが実際には−−知っている人は当然知っているが、知らない人ははじめて聞くことだろうが−−、漢字をずらずらと並べて書いている。それが、実際の『万葉集』の歌の姿である。しかも右の、「大和には 群山あれど…」の歌の「ヤマトニワ」は、「山常庭」と記されている。「ニワ」には2字ではなく、「庭」の1字を当てている。/(中略) だが、「ヤマトニワ」の「ニワ」が2字で表記されるのではなく、「庭」の1字であるということは、「ニワ」という助詞が、今我々が使うように助詞「に」+助詞「は」ではなくて−−「大和にゃ」と「に」と「にわ」の中間音があるが−−、「ニワ(“nwa”)」という一語であったかもしれないということまで想像がつく。/ いずれにせよ、万葉歌はすべて漢字で書かれていた。漢字で書かれている「山常庭」を「大和には」と表記するようになったのは、「山常庭」をどう訓(よ)むかよく分からない時代が、やがてやってきたからである。それは平仮名(女手)ができることによって起きた。平仮名ができて、漢字を借りて表記する必要がなくなったからだ。「やまとには」と書けばいいという時代になると、「山常庭村山有等…」と漢字が羅列された歌をどう読めばよいか分からなくなっていったのである。/ そこで、どう読むべきか読みをつけていったわけだが、やがて近代以降になると、今度は仮名文字ばかりではまた意味をとりにくいため、その意味を漢字に変えて、『古今和歌集』の歌とも変わらない表記の歌にしてしまった。漢字仮名交り歌に変えてしまったことによって、分からなくなることがいっぱい起こってきた。/ 例えば、この「山常庭」の歌を万葉仮名の通りで読んでみると、そこにはすごい驚くような表現がある。「國原波煙立龍」の箇所の「煙立龍」、この「立龍」、ここではタチタツのタツに「龍」の字を当てている。それから鴎=カモメには「加萬目」、「加える萬の目」と書いている。そして、ここでのタチタツは「多い都」と書いている。/ 「たちたつ」のたつは、煙の場合は「龍」であり、カモメでは「多都」。こう万葉仮名でははっきりと書き分けられている。龍は、中国神話の天に住む架空の獣。神や天子・皇帝の象徴であり、それが雲になったり、電気的な現象になったりする。ここで当てられているのは、そういう意味を含めた龍である。見下ろすと、そこに村々があり、そこからは天に向かって煙が、いたるところで竜上(たちのぼ)っている。その姿を「煙立龍」で生々しく表現している。/ それに対して「加萬目」−−これは今のアニメーションやコンピュータ・グラフィックスでも作れないぐらいの臨場感あふれるすごい表現−−、加える萬の目だからほとんど無数を表し、さらに無数のカモメを「多い都」と書く。都と関係があるかどうかはともかく、「都」は「すべて」と訓(よ)む。加える萬の目で、すでに多さを表現している上に、「すべて」を重ねる。いかにたくさんのカモメがそこに飛んでいるかという風景がリアルに甦ってくる。/ こう読んでくると、冒頭の「山常庭村山有等」では、「村」が「群山」にとどまらず、どれほどたくさんの村があるかという意味合いを含んでくるということも分かってくる。そして、「海原波加萬目立多都」の「加萬目」の表記から「目」の像を取り出し、それと韻を踏むようにして眼の特徴的なトンボの島=蜻嶋(あきづしま)へとつづける。日本のことを「トンボの島、蜻嶋」だと言った姿が、万葉仮名に戻してやるとよく分かる。/(中略)/ 万葉仮名の歌を漢字仮名交りの歌に変えてしまうことによって、失ってしまった損がもう一つある。それは、万葉歌が漢字歌であるというもっとも基本的な認識を失ったことである。『古今和歌集』の古今和歌とは、平仮名歌を指す。和歌とは、平仮名歌の別名。したがって、「万葉和歌」とは言わない。「万葉和歌集」とは言わずに、『万葉集』としか言わない。なぜなら平仮名ではなく、万葉仮名は漢字であるから。漢字をずらりと並べて書いた万葉歌と平仮名(女手)をずらりと並べて書いた(一部漢字を交えるが)古今和歌とは、まったく異なった段階の歌である。同列に並べて比較することはできない。「和」とは、平仮名(女手)の別名なのである。》(『万葉仮名で読む「万葉集」』)

 わが国の文字表記は、漢文の表記で充分だった。ところが650年を境に、日本列島が政治的に大陸から切り離されてしまいます。すると一国の集約点が求められて、表記法にも独自の方式が必要となりました。それまでの漢文の表記は明らかに外来のもので、わが国の言語はそのままでは表せないことに気づかされたとも言い換えられます。
 「記紀」は8世紀初頭に、『古今集』は10世紀初頭に成立します。この「万葉集」は大伴家持の編纂と言われますので、8世紀中頃の成立と考えられます。ところが2つ目の勅撰集である『後撰集』が編まれる頃・10世紀半ばには、この万葉仮名は読めない文字になっていたと言われます。村上天皇は『後撰集』の選者に委嘱して、「万葉集」の当時の現代語訳に着手したのでした。ここから私たちが読んでいる「万葉集」が始まったと言っても過言ではありません。
 引用にもありますが、舒明御製歌を見るだけでも、万葉仮名で記された歌は、私たちが知る「万葉集」とは、随分と異なった印象を与えます。まず私の固定観念では、万葉仮名の多くは字音仮名だと思っていました。その字音仮名が整理されて今の仮名文字に直結しているのだと捉えていました。ところがそう単純なものではないことを、石川氏は指摘しておられます。万葉仮名は、漢字という文字の内側にある意味や像を引き出して、わが国の言語や民や風土を表現し得る文字として使用する試みだったのです。その試みのうちの一部が仮名文字となって、『古今集』が編まれたと考えられます。
 あえて単純でないところを単純に捉えてみると、漢字表記の万葉仮名で表された『萬葉集』が成立した後、一世紀半の時を経て、『古今集』が編纂されました。『古今集』は既に仮名文字だけの表記で表されています。その50年後には万葉仮名は読めなくなっていて、当時の現代語訳に着手されます。仮名表記の『古今集』も写本される間に読み手の手が加わって、「年の内に 春は来にけり ひととせを 去年(こぞ)とやいはん 今年(ことし)とやいはん」のように、漢字仮名交じり文に変化して行きました。つまり、漢字の表記でわが国の言語を表そうとした『萬葉集』から、その一部を取り分けて仮名文字に至って『古今集』が編まれます。『萬葉集』はそのままでは読めない文字表記となって、仮名文字に改められます。そしてもう一転回して、仮名文字だけでは読み難い、意が通らないと感じるようになって、両者ともに漢字仮名交じり文に変化しました。このようにわが国の言語の表記の方法と方向を確定づけます。しかしそのような変遷の間に、恐らく私たちの知り得ない何かを、零し続けてきたのではないか、石川氏の言うところを聞けば、そのように言っておられるように思われます。氏は、万葉仮名の分析からそれが何かを探ろうとしておられるように見えます。
 『古今集』に至ってわが国の表記が取りあえず仮名文字に落ち着いておれば、現在の漢字仮名交じり文はなかったことになります。しかし既に『萬葉集』の表記から、漢字の訓読を読み取ることができます。氏が指摘しておられるように、現在では助詞2つで表す「には」を、「庭」1文字で表していること、「けぶりたちたつ」を「煙立龍」、「かまめたちたつ」は「加萬目立多都」と表記するなど、ここに蓄えられた訓読のノウハウは、どこかで顔を出さない訳には行きません。さほど時を置かずに、仮名だけの表記のアクセントとして訓読の漢字が交じるようになり、やがては漢字仮名交じり文がわが国の標準的な表記法となってきたのでしょう。
 実に興味の尽きない課題です。
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