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漢点字の散歩 (8)


                               
岡田健嗣

         4  言葉に出会う(承前)

    D点字離れ

 本誌の発刊当初私は、「点字の読みづらさと漢点字の触読について」と題した拙稿を試みた。これは当時(現在はなお加速されているようみ見えるが)、視覚障害者の周辺、とりわけ点字出版界の間で、視覚障害者の「点字離れ」が喧伝されていたことによる。点字を読む視覚障害者が激減したのである。なぜに〈点字〉を読まなくなったか?その訳を、「音訳」の活動が活発になったからだ、と言うのであった。これしか聞こえて来なかった。それ以上の分析は危険とされたのか、あるいは困難とか不可能とされたのか、的を得たと思われる議論には残念ながらめぐり会えなかった。〈点字〉を離れた視覚障害者に、他に〈文字〉があるのか?私はそこが知りたかった。そこで視覚障害者が読書をする行為の解明を試みることにした。それが彼の拙論である。
 ルイ・ブライユが〈点字〉を創案して、初めて視覚障害者にとって〈文字〉と呼べるものができたと言われている。現在でも点字図書館や盲学校では、そのように紹介されている。ブライユの〈点字〉は、視覚障害者の読書環境を一変したと言われる。「触読」し得る〈文字〉ができたのであるから、読書が変わったのではなく、始まったのである。ブライユの〈点字〉が紹介されるとき、このように言われるのである。そう言われながら今、我が国の視覚障害者はその〈点字〉を捨てようとしている。これはどういうことか?私も当事者として、このような情況にどっぷり浸かっていることを隠さず、それでも〈点字〉の、視覚障害者の〈文字〉である働きは、まだ終えるには間があり過ぎるという思いから、その謎に当たったのである。
 我が国では東京オリンピック(一九六四、昭和三九年)を境に、多くのボランティア活動が盛んになった。点訳活動もその一つだったが、視覚障害者の読書環境に大きなインパクトとなったのが、音訳活動の盛り上がりであった。その盛り上がりは、とりわけ個人のニーズに応えようという方向に向かい、読書の幅の大きな変革をもたらすこととなった。点訳活動は、手打ちの点字器かブレーラーと呼ばれる一種のタイプライターを使用していたが、音訳は、当初オープンリールの磁気テープを、次いでカセットテープを使うようになって、一般にも安価で使い易い機器の普及もあって、視覚障害者の読書に対する敷居の高さも、随分低いものになったのである。録音技術の一般化と機器の低価格化は、音訳ボランティアの活動を後押しし、音訳書へのニーズは大幅に拡大した。当初は点字図書館の蔵書の製作が主な活動であったのが、「プライベートサービス」と呼ばれる個人のニーズへの対応が増加して、一般の図書館や社会福祉協議会を拠点とする活動も行われるようになった。音訳のメディア(媒体)にも変化があって、当時欧米ではソノシート(ムーン)が用いられていた。次いで磁気テープが使用されるようになったのである。我が国では当初から磁気テープが採用されたのだが、このことはその後のプライベートサービスなどの柔軟な対応の端緒の一つとなった。言わば後発の強みである。現在はデジタル技術への移行期に当たっていて、アナログの磁気テープは姿を消しつつあるが、一方、全てをデジタル技術(Daisy)で供給する体制も整ってはいない。我が国ではソノシートから磁気テープへの移行という変化は経験しなかったが、このようなメディアの変遷は、それを通して読書する者にとって、大きな負担になっているのも否めない。
 以上のことから思わぬ(?)ことが起きた。「点字離れ」である。
 音訳の普及は多くの視覚障害者にとって、読書の質の変化として受け入れられた。一言で言うなら、大変気楽に読書できるようになったのである。
 音訳を点訳と比較すると、第一に完成が早い。パソコン点訳が一般化した現在と違って、当時の点訳は手打ちかタイプライターであった。それに対して音訳は、校正作業を横に置けば、話し言葉の速度で読み上げればよい。ずっと効率的である。完成も早かった。
 第二は、音訳書は音訳者自身が一度読み込んでそれを声に出したものである。つまり子どもを対象にした「読み聞かせ」と変わらない。音訳者が理解したものを、聴読者はそのまま受け取るのである。現在はこのサービスを「音訳サービス」と呼んでいるが、当初は「朗読サービス」と呼んでいた。点訳書は文字を読む。どう読むか、どう理解するかは読み手に任されている。(おまけに〈日本語点字〉には〈漢字〉の体系はなかった。日本語の標準表記である漢字仮名交じりでは表されていなかった。)
 第三は、触読は大変体力を必要とする。腕力ではない、持久力である。疲労との闘いである。心身が充実していなければ、長時間の読書には耐えられない。私の経験から言えば、多感な青年期には心の持久力がなく、齢を経るに連れて身体の持久力が減衰して来る。〈点字〉を触読して読書して、その質と量を全うするのは極めて困難なのである。残念ながらこのことは、これまで表だった議論に載せられたことはない。それに引き替え音訳書の聴読は、極めて安楽に読むことができる。しかもそれによって、点字書の数倍の読書量をこなせる。単位時間内ばかりではない。長時間の聴読もそれほど苦にならない。現在では再生速度を増すこともできて、週刊誌のような記事ならば、通常の二倍の速度でも十分理解できるのである。
 このように述べれば「点字離れ」は必然だ、〈点字〉はもう要らない、役割は終わった、私自身の読書の方法の中心も音訳に依存しているのだから、こう結論付けなければいけないのかもしれない?だが角度を変えれば、反対も真であることが見えて来る。
 試しに晴眼者の皆さんの目の前に、墨字の活字書と音訳書を置く。どちらを手に取るか?私の知る限り、一〇〇パーセント墨字の活字書である。耳から聴くことを読書と考える人はまずいない。晴眼者の皆さんにとって、「音訳」は「朗読」であって、既に熟知している文学作品の上手な「朗読」を聴く、「朗読」を鑑賞するというのが、このような場合の対応であり態度なのだ。もし墨字の活字書と音訳書を目の前にして音訳書を取るとすれば、「読」んで鑑賞するか、「聴」いて鑑賞するかの選択であって、活字で「読」むか、聴いて「読」むかを選択するのではない。初見の本であれば、間違いなく活字書を取るのである。
 「点字離れ」を考えるに当たって、晴眼者の皆さんがどのように文字を読んでおられるのかを考えてみた。制度上、視覚障害者がどのように位置付けられているかを考えるとき、どうあるべきかも見えては来ないだろうか?
 一般に文字を読み、文章を読む力を養うのには、初等教育から母語の文字表記(我が国ではひらがな・カタカナ・漢字と、そして送りがな法と漢字仮名交じり法)を学ぶ。学びながら繰り返し例文に当たり、練習用の読本を読む。同時に文字を書き、例文を写し、文章の練習をする。このような経験が、後に自身の心情の吐露や思考の記述として結実する。このような経験を一言で言うならば、「フィードバック」である。目と脳、手と脳の繰り返しの往還が記述の下地となり、言語が厚みを増し、表現を支えるのである。現在我が国で言われている識字率九九.八パーセントは、このような教育を公教育として制度化することによって達成したものであった。
 一方視覚障害者が「点字離れ」するのはなぜか?先にも述べたように、一見すると点字書を触読するよりも、音訳書を聴読する方が目的に叶っているからだと言っている。これが本当の答えなのであろうか?
 否である。右に述べた一般の〈文字〉教育、〈言語〉教育と同様の教育が、視覚障害者には施されていないからだというのが真の答えである。
 視覚障害者の〈文字〉は、触読できる〈点字〉であることは文科省から盲学校・点字図書館まで一致した認識である。ところが公教育の場で教えられ使用している〈点字〉は、「カナ点字」だけなのである。(点字の漢字体系である〈漢点字〉は教えられていない。) 従って「ひらがな、カタカナ」の区別も、〈漢字〉の音・訓も、送りがな法も漢字仮名交じりも、その存在は話として聞くことはあるが、教えられることはない。「読み・書き」の練習も無論ない。触読に用いられる手と、文字情報を受け取る脳とのフィードバックも起こらないし、言語上の経験も叶わない。「推敲」という言葉を音声では知っていても、「僧推月下門」の「推」を「敲」の字にするのがよいかどうかと悩むことも、音声で知るばかりなのである。
 かつて詩人の萩原朔太郎は、文芸作品の抽象度について、最も高いのは「詩歌」、中等度が「評論」、低いのが「小説」と言った。つまりフィードバックを盛んに経験し積み重ねて蓄えた力を持ってしなければ読み解けないのが「詩歌」であり、その次に力を求められるのが「評論」であり、さらりと読んでも理解できるのが「小説」だと言うのである。勿論「詩歌、評論、小説」と言ってもすこぶる幅は広いのだが、朔太郎の言うそれらは、それぞれに極めて抽象度の高いものを指していると言えよう。
 現在の公教育制度では、初等・中等・高等教育の課程が用意されていて、文字の数・文法・構文が事細かに規定されている。これだけ身につけておけば、その後は自助努力で何とでもなるという水準まで教えているというのである。そこで訓練し経験を積むことができれば、朔太郎の言う抽象度にも十分対応できるというのがこの制度である。
 だが視覚障害者の教育課程では、こういう水準は求められていないように見える。そうして「点字離れ」が進んでいるのである。
 先に音訳書の聴読と点訳書の触読を比較してみたが、ここで言う「点訳書」は、「カナ点字」のみで記載されたものである。従って「漢字仮名交じり文」を触読することを想定すれば、多少の異同は認められるに違いない。そこで「点訳書」の位置に、〈漢点字訳書〉を置いてみる。
 一番目は完成に時日がかかることである。現在パソコン点訳が主流となっていることと、点字そのものを入力する方法は採らないことから、かなりの変化を見せている。加えて〈漢点字〉への点訳であるので、漢字をどう読むか、分かち書きはどうするかなど、カナ点字独特の表記法に捕らわれることもない。そして複製も容易なので、多数への供給が可能になった。
 三番目は体力と疲労である。これは越え難い課題である。これから先ずっと付き合って行かなければならないことであろう。たとえ〈漢点字〉であっても触読から離れて行くのを留めるのは難しいかもしれない。が触読には、そんな課題を克服するだけの果実を結ぶ何かを蔵しているはずだ。
 二番目は、音訳は「音訳者の読み聞かせ」だといいうことである。これは視覚障害者にとって大きなメリットと捉えられている。このメリットによって、点字(カナ点字)を触読するより遥かに大量の書物を読むことができ、大量の情報を容易に摂取できるようになったのである。点字(カナ点字)の触読しか知らなかった視覚障害者は、こういう聴読のメリットによって、初めて活字による情報の豊かさに触れることになった。またそれを摂取する必要性に気付かされたのである。
 しかし彼らはまだ気付いていないことがある。それが「抽象度」である。この課題は、本来教育課程でアプローチされなければならないものだが、視覚障害者にはその機会が与えられていない。「抽象度」をどう受け止めるか?これも先に述べたように、〈文字〉の習得というフィードバックを通して、言語の経験を積むことしかない。これは人類が〈文字〉を手にして以来繰り返して来たことである。本来なら視覚障害者も例外でなく〈文字〉のフィードバックに与りたいのだが、現実にはその機会は与えられていない。
 教育課程での抽象度の習得に当たって、古典の教科がある。その中から例を挙げてみたい。

   あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
    (あかねさす むらさきのゆきしめのゆき のもりはみずや きみがそでふる)

 「万葉集」にある宮廷歌人・額田王の歌である。宮廷で催された宴で、大海人皇子の舞った舞を讃える歌として詠まれたと言う。「紫」は染料を取る草、「標野」はその紫を栽培する天皇直轄領、「野守」はその管理をする役人である。つまり大海人が袖を振って舞を舞う姿を、額田は「私のところへ来ませんか」と誘いをかけていると詠んだのである。これに対して大海人がどう応えるか、これが満座の注目するところであった。大海人は、

   紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋ひめやも
    (むらさきの にほへるいもをにくくあらば ひとづまゆゑに あれこひめやも)

と返した。見事な返歌である。
 見事と書いたが、実際はどうなのか?大海人と額田、額田と天智天皇との関係を思えば、単に「うまい」と褒めればよいものでもなさそうに思える。この辺りの解釈は読者諸兄姉にお任せしたい。
 額田王は七世紀の人である。今から一三〇〇年余り前の人である。これほどの時を経ても、私たちが現在にあるものごとと同様に、感動を持って読めるというのは、考えてみれば実に不思議なことではないだろうか。この二首の歌が高校の教科書に載っているかどうかは知らない。が少なくとも大学の教養課程の講座では取り上げられている。有名な歌であり、有名な情況で歌われた歌である。メロディーを付けて、ジャズシンガーが歌っているのを、テレビ・コマーシャルで流していたのを聞いたこともある。それほどに現代人にも親しまれている歌である。それと言うのも、公教育の課程は、こういう古典を、その気になれば読みこなせる程度の力が付くように設定されているということである。
 〈漢点字〉は、視覚障害者がこのような文学に親しむとき、決定的な力となってくれる。文学作品は、読むことそのものがフィードバックである。従って抽象度の高い作品を読むときには、〈文字〉を読まなければいけない。「音訳」では物足りないのである。(音訳者の皆さん、ご容赦下さい。)
 現在教育界では、未だに触読用の〈漢字体系〉について、本腰を入れて検討しようという気運は見られない。ルイ・ブライユ以来、触読文字は〈点字〉であるとされて来た。しかしその〈漢字体系〉が提出されても、その検討すらされないのである。


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