トップページへ


漢点字の散歩 (2)

                          岡田健嗣


      2 点字には二つの漢字がある?

 〈漢点字〉を川上先生が発表されたのが一九六九年、私が〈漢点字〉に出会ったのが一九七八年、その間の九年、私は〈漢点字〉を知る機会を得られなかった。正確に言えば、〈漢点字〉に関する風聞は耳にしていたが、東京近辺では、正確な情報が得られなかった。情報を積極的に収集する公的機関がなかったからだ。
 私がどのようにして〈漢点字〉の情報を得たかといえば、ある点字雑誌に載った、通信教育による「漢点字学習」の募集記事を偶然読んだことにある。そこには、川上先生が当時勤務しておられた大阪府立盲学校へ応募すれば、直ぐにも受講できるとあった。
 私は一九七〇年に横浜市立盲学校を卒業して社会へ出たのだが、盲学校では漢字の教育を受けていなかった。盲学校在学中は、視覚障害のある先生方と幼少時からの生徒は、全て漢字の教育を受けていなかった。そのためか盲学校にいる限り、漢字を知らなくともほとんど差し支えなく過ごした。世の中で〈漢字〉が、どれほど大事なものか知らされなかったからであろう。
 社会へ出て、〈漢字〉を知らないことは〈言葉〉を使えないことだということ、また世の中は〈言葉〉によって動いているということを、痛切に知らされた。残念ながら〈漢点字〉には中々出会えなかったが、幸いにして社会人九年目にして勉強する機会に会えた。母語である日本語の実際に触れることができ、初めて自分の〈言葉〉を持ったという実感を得たのである。

       「六点漢字」

 八〇年代に入ると、視覚障害者の間に〈漢字〉へのニーズが大きく広がった。〈漢点字〉を学習する機会が開かれたことが、潜在していた〈漢字〉学習のニーズを、表に呼び起こしたものであろう。また私は、私が味わっていた自分であって自分でない、自らの〈言葉〉を自らが発せられないような喪失感、そんなものを多くの視覚障害者が共有しているのだろう、そう捉えていた。〈漢点字〉には多くのニーズが寄せられ、川上先生は寝る間も惜しんで通信教育に対応しておられたという。
 点字の出版メディアも競って〈漢字〉に関係する書籍を刊行したり、講座を設けたり、そんなニーズに応えようとしていたが、〈漢点字〉を引き受けようとする動きは見られなかった。現在もまだ現れない。
 そんな中、あたかも〈漢点字〉に対抗するかのように、「六点漢字」と呼ばれる点字符号が現れた。
 「六点漢字」とは、元教育大付属盲学校教諭の長谷川貞夫氏が考案された点字符号で、〈漢点字〉から五年ほど遅れて発表された。長谷川氏は、視覚障害者が普通の文字(墨字)を独力で書くためにはどうすればよいかという課題に取り組まれて、まだ黎明期であったパーソナル・コンピュータに逸速く注目なさった。まだ現在のように、ローマ字入力やカナ入力から漢字に変換する方式は日の目を見ておらず、一般にもコンピュータで漢字を処理するのは困難とされていた。
 一九七八年に初めて漢字のJIS規格が制定されて、我が国のコンピュータで扱われる文字がコード化された。長谷川氏はこのコードを、ローマ字やカナからの変換ではなく、一文字一文字を直接変換する方法を編み出したのである。これが現在言われている「六点漢字」である。
 「六点漢字」の考え方は、キーボード上のf・d・sとj・k・lの六つのキーを、あたかも点字タイプライターのキーのように見做すことで、点字タイプライターで点字を打つ要領でキー入力すると、普通の文字に変換される。コンピュータがそのように処理する。つまり、文字変換処理のソフトウェアのための入力に点字符号を応用したものである。
 本誌の一般の読者の皆様には理解し難いことかもしれないが、点字タイプライターの入力は、六つのキーを、点字の組み立てに従って、その幾つかを同時に押す。「め」なら六つ全部を、「あ」なら一つだけをというようにである。元来コンピュータのキーボードの設計には、複数のキーを同時に押すことは想定されていない。しかしソフトウェアでfを一の点、jを四の点として同時に押した場合を仮定してみると、点字タイプライターと同様のキー入力が可能であることが分かったのである。つまりfだけを押すと「あ」を、f・d・s・j・k・lを同時に押すと「め」を出力することができたのである。長谷川氏はこのキー入力の方式を「点字入力」と呼んだ。
 当時の一般の点字はカナしかなかったので、長谷川氏は漢字をどのように入力するか苦心された。そこで着目したのが、漢字の「音読み」と「訓読み」である。音の頭の一文字と、訓の頭の一文字をカナ点字入力する、たとえば「岡」であれば「こ」と「お」を入力することで「岡」という文字に変換されるよう、ソフトウェアを組み立てて行ったのである。このようにしてでき上がったソフトウェアを、「点字ワープロ」と呼んだ。
 この長谷川氏の考え方は、「六点漢字」ばかりに当てはまるものではなかった。少し遅れはしたが、〈漢点字〉の点字符号を応用したソフトウェアが開発されて、私も初めて独力でプリンターに墨字を出力できた。この時の感激は、〈漢点字〉を学習して漢字の世界を知った時に劣らないものであったことを覚えている。パソコンの助けがあれば、墨字を書くことができる、人の助けを得なくとも、取りあえず文字が書けた、このことはそれまでになかったことである。

     点字の漢字は二つ?

 ところが何時の間にか「点字の漢字」とは、パソコンで入力する点字符号という認識が、視覚障害者とその周辺(点字図書館や盲学校関係者)の晴眼者の間に常識となって行った。
 川上先生はこのような推移を大変心配されたが、残念ながらその流れを押しとどめることはできなかった。「点字方式の入力符号」→「漢字入力の二つの方式」→「二つの点字の漢字体系」という認識は、級数的に一般化して行った。
 私は当時、「六点漢字」と呼ばれる点字符号を「漢字の体系」と理解して、その学習を試みた。テキストを取り寄せて勉強してみた。だが、全く力が入らない。どうしてか?考えてはみたものの、これは「読む」ものではないと結論付けるに至ってしまった。テキストとともに長谷川氏直々の解説が録音されたカセットテープが届いたが、そこにも「読む」ことについて、ほとんど触れられていなかった。
 私はその学習を断念した。
 私は八〇年代、九〇年代、そして二〇〇〇年に入って、「二つの点字の漢字」を、漢点字使用者と他の視覚障害者、そしてその周辺の関係者がどのように扱おうとしているかを、つぶさに観察することにした。とりわけ「六点漢字」の推奨者が、それをどのように『読書』に結びつけるか、時間をかけてじっくり観察したのである。点字書籍の出版社である「桜雲会」では、「六点漢字」を使った書物の出版を試みていたし、ニューブレイルという団体では、「六点漢字」を使った雑誌を発行したりもしたが、極めて短期間に終刊してしまった。このような観察は、私の「六点漢字」は「読む」ためのものではないという認識を裏付けた形となったのである。
 川上先生は〈漢点字〉を、触読文字の「漢字体系」と位置づけて私たちに教えて下さった。「読む」とは文字を「読む」ことであり、文を「読む」ことであり、著者の言わんとするところを「読む」ことである。してみるとそれに耐え得る体系が求められる。〈漢点字〉は川上先生の発表以来、試され続けて来た。そして答えて来た。

      結び  「二つの点字の漢字」とは虚偽である

 現在行われているローマ字やカナをキー入力して漢字変換する方式も、文字に変換されるまでは、単に読みの音に従って入力しているのであって、変換されて初めて文字となるのである。パソコンで文を書いている人が、ローマ字をキー入力することを文字を書くとは言わないように、「点字入力」と呼ばれる「六点漢字」の入力も、文字を直接入力しているのではない。
 「二つの点字の漢字」の並立という認識も、既に二十数年を経ている。川上先生は当初から「六点漢字」は「点字の漢字体系」ではないと言われていた。私も自らの体験から、そう考えて来た。
 しかしどうしてこのような認識が現在に至るまで私たちを縛り続けるのか、私にはその当初から不審でならない。「パソコンの入力用の符号」という位置付け、そろそろこの呪縛を解く時期に来ているのではないか、私はそう考えてみたい。
 パソコンへの入力は、一般に行われているローマ字変換をスタンダードとして、〈漢点字〉は読むもの、触読用の文字という位置付けを、そろそろ漢点字使用者の間に確認してはどうか、私はそう考えるのである。
 手前味噌になるが、本会の活動は当初から〈漢点字〉を触読用の文字、触読の方法として捉えて来た。これまでに漢和辞典である『漢字源』を完成し、現在では『常用字解』の製作を目指している。『常用字解』ではできうる限り字式を織り込んで、視覚障害者にも〈漢字〉を形の面から理解できるよう工夫している。これが完成すれば、〈漢点字〉が如何に〈漢字〉を点字符号に実現しているかが、一目されるはずである。
 現在点字の周辺では、〈漢点字〉は〈漢字〉ではない、「代替文字」だとする主張が強く出されている。点字を守り推進しなければならないはずの盲学校、点字図書館を中心に、このような主張がある。
 しかし〈漢点字〉をこのように規定して、従来の点字はそのまま「視覚障害者の文字」だとしているのだが、それならばいったい「点字は文字か?」という議論も出て来るはずである。これは正に、ルイ・ブライユの〈点字〉の創案に逆戻りするものではないだろうか?

 *本稿は、川上先生の〈漢点字〉創案を跡付けて、視覚障害者が〈漢点字〉を学ぶことが〈漢字〉を学ぶことだということを裏付けたいと考える。川上先生のご苦心・ご工夫に敬意を払いたい。


トップページへ