「うか」121 連載初回へ  トップページへ
             わたくしごと
                                 木村多恵子

      30分ほどの巡り会い

 わたしの高校2年は1960年にあたる。
 ある方がICU(国際キリスト教大学)のチャペルでの礼拝に誘ってくださり、6月の日曜の朝三鷹駅の改札口で待ち合わせることにした。
 その日は早くから大降りで、心配した母が浅草橋まで送ってくれ、さらに三鷹まで付いて行こうとした。わたしは三鷹まで1本で行ける電車に乗せてくれたら1人で大丈夫といった。傍でわたしたちの様子を見ていた女性が「わたし、この方とよく会うのでわたしの方はよく知っていますからお母さんは心配なさらないでください。わたしが一緒に乗ります」と言ってくださった。母は恐縮しきっていたが、丁度高尾行きの電車が来たのでその方にお願いした。一緒に乗ってくださった女性は余計なおしゃべりはせず、傍で黙っていてくださった。やがてある駅に近づくと「わたしは今度の駅で降りますが、この先1人で大丈夫ですか?」と聞いてくださった。「はい、三鷹の改札口で友人たちが待っていてくださいますので」と言うとその方はそれでも不安になったのか、「あの、この方三鷹までいらっしゃるので、何方か三鷹まで乗られる方いらっしゃいませんか?」と聞いてくださった。すると「八王子まで行きますから」と男性が言った。「わたしは高尾まで行きますから」という女性も声を上げた。わたしはよっぽど頼りない危なっかしい子供に見えたのだろう。乗る時世話をしてくださった女性は、いざ自分が先に降りる段になって心配になったのは、きっといつも学校への往復のとき、彼(後の夫)が一緒なのを知っていたからであろう。
 そのほか何人もの方が声を上げてくださり、わたしは驚ろくばかりであった。「皆様ありがとうございます。では何方か女性の方お1人にお願いいたします」と言うと、ざわざわお互いに、わたし!わたし!という気配を感じた。と、1人の女性が「じゃんけんで勝った人がお手伝いしましょう」とにこにこ笑顔声で言った。みんな笑いながらじゃんけんが始まった。
 最初は興奮して声高(こえだか)になっているのを「静かに」と合図する人もいたようで、少しずつ車内は静かにじゃんけんゲームが続いた。あいこが続き、だんだん1人抜け、2人抜けしてゆき、またあいこが続いた。やがて1人が「勝ったあ!」
と声を上げ、「わたしがご一緒します」と言ってくださった。なんて素晴らしい人たちであろう。それぞれ単独行動で、友だち同士はいなかったようだ。いつもはぎゅうづめの中央線も、今日は雨の日曜日、空(す)いていてお気持ちにもゆとりができたのだろうか?そうだ、最初じゃんけんが始まるとき、何人か男性も入っていたようで、「今は女性だけでえーす」と言う仲間の声も聞こえ、車内に笑いもこぼれていた。
 もしこの場に「隠れ蓑」を着ている母が居たら、涙を一杯流さずにはいないだろう。「帰る時は電話をしなさいね」と何度も繰り返していた母の声も合わせてわたしの胸はきゅーんとなった。「面倒見係じゃんけん」が終わると皆様大人なので車内も静寂に戻った。わたしも静かに電車に揺られて行った。
 次が三鷹というとき、「今度ですよ」と声をかけてくださり、改札口の仲間がいるところまで送ってくださった。とても自然なエスコートなので、待って居た仲間は、その方もICUへ行くのだと思ったと言ったほどだった。
 三鷹駅からICU行きのバス停はとても近かったし、始発でバスもすぐ乗れたが、雨コートを通してさえ洋服はぐっしょり濡れそぼってしまった。何方かが座席に座らせようとしてくださったとき「あのう、わたしこんなに濡れてるので立っています」と言った。恐らく終点までそんなに時間はかからないだろうと思ったし、わざわざコートを脱ぐのも面倒だったからである。が、運転手さんもほかの乗客の方たちも「そのまま座りなさい」と言った。
 ICUからお迎えに来てくださった女性も大きな傘を持ち、雨コートも着ていらしたが、まるで川の中を泳いでいらしたのではないかと思うほど濡れていらした。とても美しく上品なお声で、わたしは緊張の中にもうれしさが一杯になった。
(ICUの中を案内してくださったこの方のことをわたしは仮にAさんと言う)
 Aさんは先ずわたしたち3人をICUに案内し、濡れねずみのように震るえているわたしたち3人が風邪を引かないように、係の方に暖房を入れるように頼んでくださった。
 礼拝が始まるまでにはまだ少し時間があるようで、校内を案内してくださった。
 わたしが驚いたのは3階建てのようだが、各階の中央位置にポストがあり、葉書と一定の大きさの封書はどの階から入れても全て1階にまとまり、郵便屋さんは1階の取り出し口から全部集めて持って行ってくださるのだという。
ふふっとAさんは笑いながら「今日のような雨の日は特に助かります」とおっしゃった。
 「そろそろ礼拝が始まりますからチャペルへ行きましょう」と言ってエレベーターで案内してくださった。もうかなりの方が着席していらっしゃるようだがとても静かで厳かな静寂が漂っていた。
 司会は多分アメリカの方であろう。
礼拝の順序通り、最初は英語で、次に日本語で賛美歌の番号も、聖書の朗読箇所も1人でなさった。説教も最初は英語でかなり永いセンテンスを述べ、次に和訳したものをちょっとたどたどしい日本語で話してくださった。聖書の箇所はどこだっただろう。多分「汝の敵を愛せよ」というところであっただろう。説教は英語どころか日本語でもわたしには難しくて、何時のまにか学校のことなどへと思いは外れてしまった。
 「讃美歌は英語、ドイツ語、フランス語、日本語、どれでも好きな言葉で歌ってください。」と言われた。やはりICUだわ!当然わたしは日本語で歌った。
 『主の祈り』は子供の頃から教えられていたので、英語(発音はともかく)で唱和することができてうれしかった。
 礼拝の最後の方で、報告とお勧めがあった。それは、「太平洋戦争で、日本軍はヨーロッパや東南アジアや、アメリカの捕虜に対して残虐非道な行為をして、多くの捕虜を殺したこと、この日本軍の犯した罪を謝罪する印として記念碑を建てることになりました。1人でも多くの方に沢山献金していただきたいのです。」
というようなことだった。
 そして礼拝の最後は、今日初めてこの礼拝に来た人の紹介で、他の2人と一緒にわたしも紹介された。
 礼拝が終わると、目の見えない高校生ということで何人かの方が「よくいらっしゃいました」と声をかけてくださった。
 わたしには「さらなる献金依頼」の主旨がよくわからなかったが、あちこちで献金の用意をしていらっしゃる様子が分かり、わたしも少しばかりさせていただいた。
 するとその係の方が「斎藤先生が喜ばれますよ。先生に会っていきませんか?ご紹介します」と言う。わたしはちょっと慌てた。三鷹から一緒に来た人たちはすぐ帰るだろう。「あのう、わたし一緒に来た人たちに三鷹で浅草橋へ行く電車に乗せていただくことになっているのです」と言うと、Aさんが
「じゃあわたしがあなたを三鷹で浅草橋へ行く電車にお乗せすればいいのでしょ?」。「あ、あ、あ、あ、はい」とわたしは恐縮しながらもそう言ってしまった。「すぐお仲間の方に伝えてきます」と言ってから先生に紹介すると言ってくださった方に「ここでこの方と一緒に待っててくださいすぐ戻ります。」と言い、Aさんはほんとにすぐ戻っていらして3人でエレヴェーターでどの階かは知らないけれどある一室に案内された。
 「斎藤先生、今日初めて礼拝に来てくださり、募金してくださった方です。」
「おお、ありがとう。よく来てくださいましたね。」と、と斎藤先生が仰有りもう面会許可も取っていたようである。
「学生さんでしょう?何年生?」
「高校2年です。東京の盲学校に行っています。視力は0です。明暗もありません」
「そうですか。では並んで座りましょう。その方がよくお話もできるから」とおっしゃり、先生の大きなテーブルで、先生の左隣に座らせていただいた。
 「今日の報告と献金のお願いの内容は初めてお聞きし、よく分からないのです」とわたしはおどおどしながら言った。
「そうでしょうね。お若い、あなたたちくらいの方は知らないでしょうね。日本の軍隊は戦争中沢山の国の兵隊さんを拷問にかけたり、食べるものもちゃんとあげなかったり、沢山悪いことをしたんです。日本人はそういう人たちにお詫びをしなければなりません。
わたしたちキリスト者は、まず神様に赦しを請い、実際に日本が殺してしまった沢山の国の人たちにお詫びをしなければなりません。どういう形で謝罪の意を表すかはまだ具体的には決まっていませんが、まずなんにしてもお金が必要なので、仲間で始めたばかりです。1人1人は少なくても重ねていけばいつかは良い方法がみつかるでしょう。」
 斎藤先生は日本軍人が犯した具体的な惨劇に付いてはお話にならなかったが、「ちゃんと食べ物をあげなかったり寒さや暑さにたいしても何もしなかったのです」というのを聞いただけでもわたしは涙ぐんでしまった。
 Aさんが、「先生は連合軍の体験談を、アメリカのスティーブ・ヤングという人が書いているのを日本語に訳していらっしゃるのですよ」と教えてくださった。
 「いやいやわたしのはまだ訳し終えていませんが、菅野和憲さんが訳したものもあるよ」と言われ、わたしは「それならもう読めるのですか?点字でも読めますか?」と短兵急に言ってしまった。「さあ、点字は分からないけれど本はできている」と言われたので、著者名とタイトルをメモさせていただいた。
 「今日あなたがしてくださった献金はね、まだ始めたばかり、ほら、ここにお金が入っている。カンを振って音を聞かせてあげますね。」
「ここから入れるのですね?」
 直径14、5センチ、深さ5、6センチのカンで、上にお金を入れられるように穴が開けてある。「貯金箱みたい!」
 わたしはお財布を出し、「飯田橋まではいくらかしら?と小声で言った。先生は「うん?」と不思議そうに言いわたしはいい加減に百円玉を2つほどポケットに入れて財布を空にした。
「種銭の一部になるかしら?」
「おお、種銭、立派な種銭です。」と先生はにこやかな声で言われた。
 わたしはほんの少しだけれど母からもらってきた交通費とお弁当代、それにわずかしかないお小遣いをカンに入れさせて戴き爽やかな喜びを感じた。
 そして立ち上がり丁寧におじぎをした。先生の大切なお時間をもう30分は戴いたであろう。
 「これから『失楽園』の原文をみんなで読みますから出てみませんか?」などととんでもないお誘いを戴いたが、原文など読むことも聞くこともできない。
「創世記読んでいるでしょ?難しくなんかありませんよ」
さすがにこれは失礼させて戴いた。
 丁度そこへ先生のご同僚らしい方がお部屋へいらして、「学生さんに逃げられました」と磊落にお笑いになった。「この人、帰りの切符代だけ除いて財布を空にしてくれました。ああ、それで大丈夫なの?」
「はい、飯田橋まで買えば後は定期があって電車も都電も大丈夫です。ありがとうございました」
 その後教えていただいた本を探し、苦労の末見つけて読み始めてわたしはあまりの酷い日本軍の仕打ちに「うそでしょう?信じられない、信じたくないと」と思った。もしあのとき先生がこの現実の話をしてくださったらわたしは震え上がっただろう。
 その後「黒いクリスマス」そのほか恐ろしいことを知るたびに先生が「知って欲しい」と言われた意味が分かってきた。
 スティーブ・ヤング著、斎藤和明訳
『死の谷を過ぎて』や、アーネスト・ゴードン著『クワイ川収容所』などを読み、そうして「羽化118号に書かせていただいた横浜の保土ヶ谷の「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」に巡り会ったのである。
 わたしはこの連合軍の墓地がどのような道のりを通って作られたのか知りたくて第25回目の追悼礼拝の折に、わたしなりの「謝罪と赦しの礼拝」に初めて行ったとき資料を買ってきた。その本を点字で読みたくて「希望点訳」を約1年待った。
読ませていただいたときの驚きをどう言い表したらよいか分からない。
 わたしがお目にかかれた斎藤先生は、この墓地での追悼礼拝発起人の3人のうちのおひとりであった。先生のプロフィールを読んで間違いなくあの時の斎藤先生のことであった。
 毎年8月第1土曜の11時に追悼礼拝は行われて、今年(2021年)8月7日は27回目になる。
第1回は戦後50年に当たる1995年だという。
 わたしが先生にお会いしたのはそれより25年も前であったが、先生方は辛抱強く粘り強く多くの国、人々との「和解」を目指してのお働きはどんなに心血を注がれたのであろう。
 あのソフトで温かく明るいお声が今もわたしの耳に残っている。
 「この追悼礼拝は100年も200年も300年も続けること」と会員の方々は熱い思いで伝えて行くだろう。
 斎藤先生は2008年に亡くなられているが、「平和の尊さ」を教えてくださった大切な方である。
 わたしが小学生の時、横須賀の米軍キャンプの病院であった負傷をされたアメリカの方もわたしにそれを教えてくださった大切な人である。
 わたしはこれから何回保土ヶ谷の追悼礼拝に行けるだろう。斎藤先生からの大きな大切な伝言である。
                        2021年4月15日(木)
前号へ 連載初回へ  トップページへ 次号へ