「うか」117 連載初回へ  トップページへ
             わたくしごと
                                 木村多恵子

      知らぬ間の慰問

 音楽を好きな人は沢山いると思う。ジャンルを問わず洋楽、邦楽、クラシック、ジャズ、また、それぞれのお国の音楽、各民族特有の楽器や、声の出し方の違いなど、全てを網羅したものを含めて、音楽を好まない人はいないのではないかと思えるほどである。
 音楽に魅せられる切っ掛けは当然ひとりひとり異なる。生まれたての赤ちゃんは母親の子守歌であり、家族が作り出す音楽であったりするだろう。
 松の梢を渡る風のざわめき、大樹の間を吹き抜けるゴーと叫ぶ音、もがりぶえもある。桂の木の葉はとても柔らかいので、桂の林を風が吹き抜けても葉ずれの音は本当に幽かだという。その葉を渡る音はかそけくとも、甘く優しい香りを放つと聞いた。幾種類もの雑木林の葉っぱをそよがせてゆく風のさゆらぎ、谷川のささやき、曲がりくねった川の流れ、海のさざ波、大波、小波をも音楽と捉える人もいるだろう。
 わたしは自然界が作り出す音は全て音楽だと思っている。人が音楽を作り出すとき、自然界の音を模倣するところから始まるのではないだろうか?もっとも、今掲げた自然の心地よい音は、自分が安全圏に身を置いて呑気に考えているわけで、大自然が一度猛威をふるったならこんな気楽なことを言っていられないことはわたしにも分かる。

 私が一般的に言う音楽に目覚めたのはラジオから流れる童謡やクラシックの音楽である。また、毎日の朝夕の讃美歌である。(キリスト教に関することは「羽化」の編集者の意図から逸脱していることは申し訳ないのですが、私自身のことに関する限り避けられないのです。布教の目的ではございませんのでどうぞお許し下さい。)

 自分が学校の音楽の時間で教えられた歌はもちろん覚えたし、寮生活をしていた私たちは、中学や高校の上級生が習ってきた歌もおのずと、下級生の私たちもたちまち覚えてしまった。
 春、夏、冬のお休みの時家へ帰って、それぞれの兄弟や友達から仕入れた歌も学院へ戻れば「これ知ってる?」と半ば自慢気に教え合いもした。
 学院長は、時には生徒全員を講堂に集めてベートーヴェンの「運命」や「田園」、シューベルトの「未完成交響曲」、ハイドンの「びっくり交響曲」などのレコードを聴かせてくれた。
 今考えると、それらのレコードは、いわゆる当時電蓄と言われたレコードを聴く機械と一緒に、学院の近くに住む駐留軍の将校たちが寄贈してくださったものだと思う。
 あるときは、もう名前はすっかり忘れてしまったが、外国から来た、高名なピアニストのラジオ放送を、やはり講堂に集められて聴かせてもらった。

 どちらかと言えば、これらの音楽は、讃美歌を含めて上から与えられてきたものである。けれども同じ与えられた音楽といっても「ハモニカバンド」は、ハモニカ、アコーディオン、マリンバを中心にリズム楽器を加えて、わたしたち自身で作り出す音楽で、これは最高に素晴らしいものであった。なにしろ自分たちが演奏するのであるから、これまでの、聴くだけというのとは大きな違いができた。
 或日、ある時、何時もとは全く異なる内容の放送が各寮のスピーカーから流れた。ほぼ全員の名前が挙げられ、講堂に集まるようにというのである。手紙が届いた人の名前ではない。呼ばれた人たちはその理由が分からず心配と期待とで胸が騒いだ。
 講堂へ行くと、一人一人名前が呼ばれ、指定された椅子に座るように指示された。
 「これからあるものを配ります。皆さんは配られたものをわたしが〈開けていいです〉と言うまで、開けたり、何だろう?と自分で振ってみてもいけません。順番に何が配られたか説明されるまでそっと大事に持っているだけで、静かに待っていなさい」
 まず、前列の椅子に座った生徒たちに何かが配られた。2列目の生徒も同じようなものが渡されたようで、それぞれ想像を膨らませていたようだ。
 3列目、4列目になると静けさは次第に破られていった。わたしは3列目の真ん中にいた。
 (え? これはなんだろう。初めて触る)。まるっこい木が二つあるけれど、それぞれ内側は窪んでいて、何かの入れ物の蓋にしては変な形だ。が二つ向き合ってくっついている。しかもそれは一箇所にゴムのようなもので、二つがバラバラにならないようにしばってある。わたしはそっと掌に載せて静かに待っていた。わたしと同じものを配られたのは他に2人だった。
 さあ、それからは静かにしてはいられなくなった。なぜってトライヤングルやタンバリン、シンバルは配る段階で、もう音が鳴るのだから。
 前列2列の人たちも待ってはいられなくなった。彼ら、彼女らは受け取った段階で箱に入っていたとは言え、中身は想像がついていたからである。
 まだ2、3人が何も与えられなかった。多分心配と期待で一杯だったであろう。
 やがて待たされた人たちのうちの一人は、アコーディオンを膝に載せられ、他の二人は職員が他から運んで来た二台のマリンバの前に立たされた。
 これで全員が「楽器」を確かに自分の手にしたのである。
 音楽の先生が前に立って静かに言われた。
 「さあこれでなにも持っていない人はいませんね。自分がなにを持っているか分からない人はいませんね」
 ああ、困った。わたしはなにを持っているのか分からない。どのように使うのかも分からない。仲間の二人も知らないという。
 わたしは恐る恐る手を挙げて小声で言った。
 「あのう、これはなんですか?」
 多分そこにいた全員がどおーっと笑った。
 「カスタネットです」
 今度はみんなが一斉に「おおー!」と言った。
 (「え?これがカスタネットなのか」)
 「手に載せて片手でたたくのです」
 飲み込みの悪いわたしはちっとも分からない。でも確かにラジオの学校放送の時間で、「カスタネットをたたきましょう」というような言葉を聞いたことを思い出しはじめた。ここでリズム感の良い人なら左手に心地の良い木の固まりを載せ、右手で上から打ち合わせてやれば素敵なリズムを作り出せたのだろう。わたしのように途方に暮れるようなことはなかったはずである。
 音楽の先生が言った。
 「さあ、みんなで自分の楽器を使って何か歌を演奏しましょう。ハモニカやアコーディオン、マリンバはメロディーを、打楽器の人は好きなようにリズムを入れてください。なんの曲がいいですか?」
 暫くの間はあの曲、この曲と意見が続出した。そのうちマリンバ担当の人が
「ハモニカは一本ですか?」と聞いた。ハモニカの人たちは「ええ?」と絶句した。
 わたしはその意味を理解できなかったし、ハモニカの人たちも、多分たいていの人は訳が分からなかったのだと思う。そして「そんなあ!一本あればいいじゃない。欲張るなんて!」 暫くは沈黙が続いた。「一本ですか?」と聞いた人への非難がましさもあったのかもしれない。
 音楽の先生も黙していたが、やがてマリンバさんに言った。
 「Mちゃん、ハモニカが一本だけではいけませんか?その訳をみんなに説明してください」
 「多分一本ということはハ長調用だと思います。ハモニカは息を入れたり吸い込んだりしてドレミファを作ります。メロディーを吹くだけでもハ長調だけでは足りないことが多いのです。ですから、今みんなで一曲演奏するにはハ長調だけでできる曲を選ばなければならないのです。」
 この説明をしたのは小学校5年生の男の子である。先ほどの沈黙と今の沈黙には大きな違いがあった。非難から、敬服である。ハモニカが一本しかないことを少し残念に思った生徒もいたようだ。
 先生が言った。
 「皆さん分かりましたか?それではハ長調だけで歌える曲を探しましょう」
 また曲探しが始まった。
 曲名が挙げられるとM君が「それは駄目」と言う。しかもその「駄目」が続く。希望はいくらでも出てくる。次第に我こそはハ長調のを見つけるぞ、とばかりに騒ぎは激しくなった。先生もM君も辛抱強くつきあう。
 が、やがて「春が来た!」と誰かが叫んだ。「大丈夫です」とM君。
すると2、3人が賛成、というより自分が言い出したかのように「春が来た」と言った。
 先生の声。
 「それでは決まりましたね。メロディーを作れる人はメロディーを、打楽器の人は歌いながら楽器を鳴らしていいですよ。」
 もちろん総合伴奏のピアノは音楽の先生である。
 20人くらいのハモニカは揃っている。
 何人かは音を外している。
 アコーディオン、マリンバ担当は最初から音楽に長けている人だから問題はない。
 トライヤングルやタンバリンはそこそこリズムに乗っている。シンバルもここぞというところでシャーンと入る。
 さあーて、わたしたち3人のカスタネットはおぼつかない。
 それでもわたしを除いた2人はだんだん乗ってきた。
 みじめなわたしの音は湿っている。
 ラジオで聴く晴れやかなすきっと乾いた音はぜんぜん出ない。
 カルメンのハバネラ?
 とんでもない、いったいあの方々はどうしてあんなに明るい音を出せるの?わたしがどんなにカチッと打ち合わせたつもりでも濁った音しか鳴らないのである。
 「春が来た」をいったい何十回演奏?しただろう。この短い曲をこんなに続けても、いやになった人はいないようだ。どんどん興奮が広がりテンポまで早まる。さすがのわたしも音の善し悪しなど構っていられなくなった。
 不思議なことに音にこだわらなくなったらわたしにも素直な興奮が染み通った。
 楽器配りから片付けまで恐らく3、4時間は続いただろう。寮までの帰り、興奮と虚脱の中から、なぜか説明のしようもない悲しみが浮き上がってきた。
 それはこの集まりに呼ばれなかった何人もの人のわびしさが蘇ってきたからである。今までの興奮を伝えてはいけない。言葉にはできない「残された人の切なさ」が後ろめたさのように覆い被さってきた。
 わたしはとうとうこの突然の音楽のことは誰にも言えなかった。それこそ残されていた人がいる前では絶対にバンド仲間にもわたしからはこの話題は避けた。
 学院でのこの「バンド」が始まったのは昭和26、27年ころで、わたしは9歳。当時の学院生は音楽好きが多く、練習というより趣味のように遊んでいた。ハモニカも担当者には何調のものかわからないが、もう一本配られ、めきめき新しい曲目をものにしていった。ドラムも加わり、教えられた曲の順序はまるで覚えていないが、最高の指導者はハーモニカで有名な川口章吾先生で、2ヶ月か3ヶ月に一度の間隔で、鵠沼のお宅からお出でくださった。

 やがてこのバンドは視覚障害の子供たちが演奏するというので、珍しさも手伝って評判になり、そこここから「演奏しに来て欲しい」、あるいは「聴きに行きたい」という声が学院へ届き、少しずつ演奏活動が始まり、横浜市内の普通校の小、中、高校へ呼ばれて行くようになった。ときには座間のアメリカキャンプや横須賀のキャンプへも行くようになった。

 キャンプでは演奏が終わるとお菓子やアイスクリームを配られ、これはまたとないご馳走で正直うれしかった。二つ目のお菓子を食べるときは胸がちくんと痛んだが、この一つを残して一人の友達だけにあげるのは難しい。などと言い訳をしながら結局二つとも食べて跡形もないようにしてしまった。そんな訳でわたしたちは申し合わせた訳ではないが、演奏のことは話しても、いただいたお菓子やアイスのことは学院へ帰っても何も言わなかった。

 何度目かのキャンプへ行ったとき、演奏が始まる直前になって、わたしたちがいる周りでガラガラという音が沢山聞こえた。何だろうと思ったけれど演奏はもう始まる寸前で、学院の先生は誰もいない。ピアノの先生の合図で『峠の我が家』(Hone on the range)が始まった。何時ものキャンプと雰囲気が違う。静かさが違う。次はグノーの『アヴェ・マリア』『旧友』『星条旗よ永遠なれ』と続いた。他に何かもう一曲あったと思うが正確には思い出せない。
 予定のものは終わった。与えられた時間も終わった。が拍手はパラパラ。けれどもざわめきは伝わってくる。わたしたちは促されて立ち、静かに退場だ。
 奇妙な気持ちで歩いていると、誰かにスカートを引っ張られ、驚いたわたしは飛び上がった。すると学院の先生が側へ来て、わたしの肩をそっとたたいてから、何方かと英語で話し始めた。そして「多恵子ちゃんと同じ年くらいの女の子がアメリカに居るんですって!さあ手を出して、そっとこの方の腕を撫でてあげなさい」。わたしはこわごわ腕に触り、そっと撫でた。「センキュー」としか言えなかった。慰めの言葉などわたしに分かるはずがない。立ち去りがたくそっと何時までも撫でていた。「さあ行きましょう」と言われても見えないながら後ろを振り向きつつ歩き始めた。みんなから遅れて先生がわたしを仲間の所へ連れて行ってくれた。
 後で先生が教えてくれた。「戦争で怪我をした人たちです。」と。
 戦争?わたしは衝撃を受けた。今思えば、あれは昭和30年であるから、朝鮮戦争のことだと思う。先生方のお話では皆さん泣いていたという。ベッドに寝かされたまま、わたしたちの音楽を聴きに来てくださったのだ。
 わたしたちが演奏した曲はどれも彼らの心をかき乱したのではないか、と今は余計な詮索かもしれないが、おひとりおひとりが故郷の風景を思い浮かべ、自分の家を、家族を思い、望郷と懐かしさにいきなり引きこまれたのではないか。アヴェ・マリアはその悲しみを神に向けて祈りへと入っていったであろう。そしてマーチの『旧友』も『星条旗よ永遠なれ』も厳しい軍隊生活へと思いが移っていったであろう。
 わたしたち打楽器組は『峠の我が家』は楽器を使いながら英語で、『アヴェ・マリア』は楽器を椅子に置いて起立してラテン語で歌った。
 わたしが、戦争で負傷されたアメリカの兵隊さんに、直接その腕に触れさせていただいたのは、この方が最初である。それからは同じような場面に遭遇しても、安心して握手をしたり
 「グッイブニング」
 「グッバイ」
などと荒っぽい言葉がごく自然に交わせるようになった。彼らは概して明るいのだ。それに子供相手なので気楽だったのかもしれない。
 お互いにほんの少しの時間を楽しんだ。
 ある時わたし一人イヤリングを付けてもらって帰ってきたこともある。
 この交流は、それと気づかぬ間のお互いの慰問だったのではなかったか。
 その後、一期一会のこの方たちは今どうしていられるだろう。時々、初めて出会った方のことは特に貴重な体験で、今のわたしに影響を与えている。
                       2019年5月24日(金)
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