「うか」114 連載初回へ  トップページへ
             わたくしごと
                                   木村多恵子

 そぼ降る春の雨の中、久しぶりに会った友と新宿御苑を散策していた。沢山の花の中を、かなり永いこと歩き、わたしの手の届く限りの花々を触らせてくれた。
 広場になっているところでは、お日様があれば、ベンチに座れるのだが、細かい雨とはいえ、やはり雨に打たれるのは冷たい、と思っていたら、彼女が
 「あら、あそこのベンチは濡れていないわ。ちょっと座って休みましょうか」と誘ってくれた。
 ベンチに向かって歩いて行くと傘に当たる雨音はなくなっていった。
 真夏の暑さも避けられるだろうと思われるほど大きな木があって、二人は座った。本当にベンチはぜんぜん濡れていない。人も通らず秘密の話もできそうだ。
 暫くして寒くなったわたしは、「ここには温室もあるわね」と、温室へ行くことにした。
 温室に入ると最初はホワーっと暖かかった。
雨のせいか見学者もいないようだ。少なくとも話し声は聞こえなかった。ここでも彼女はできる限り一杯熱帯の樹や葉や花々を触らせ、添えられている説明文も読んでくれた。中にはトゲトゲだったり針のような鋭いものもあって、「これは痛いから気をつけてね」と前もって注意しながら、一所懸命、一つでも多く触らせてわたしを喜ばせてくれた。
 教えてくださった名前はその時直ぐ復唱し、触った形と一緒に頭に入れるつもりなのだが、覚えるより忘れるほうが速いのは情けない。
 ときどきわたしは、
 「あ、さっきのあの木肌がすべすべしたのをもう一度見せて?」
 「上から垂れていたあの花はなんでしたっけ?」
などと言っては戻って、も一度楽しんでいた。

 ある箇所で、見事なバラのような、(だったかなあ、友よ、ご免なさい!) それでも触っても花びらが簡単に散るようなものではなかったが、豪華な花を沢山咲かせてくれているのを触っていた。
 するとそこへ少数のグループではあるが、一組入ってきて、やはりわたしたちがいるところまでやってきた。そしてその中の一人が、
「あら、触ってはいけないのでしょ?」と言った。
するとわたしの友が即座に毅然として言った。
「この方は触らなければ見られないのです。」
ややあって、非難がましいことを言った人が、小声で、
「ご免なさい」と言った。
友は、「はい」と言い、わたしは頭を下げた。
 そのグループはなんとなくきまり悪そうに、でも何事もなかったかのように少しずつその場を離れて、目を引く他の植物へと移って行った。
 友はあたりまえのようにまだまだ沢山ある、大きいもの、かがんで見るもの、「うーん、これはここからは遠すぎてだめだわ」といいながら花の色、形を説明してくれた。
 気が付くとさっきのグループの声は聞こえなくなっていた。
 「ねえ、さっきの人たちもうここにはいらっしゃらない?」と確かめてから、「さっきは気まずい思いをさせてご免なさい」というと、彼女は、「え?ああ、あのこと?あれは当然のことを言っただけで、ぜんぜん気にしていないですよ。ただこういうことを分からない人が多いから、むしろ丁度よかったのよ」と本当にさっぱりしている。
 わたしは、
「ねえ、それではさっきの、また見に行ってくれる?そしてここを出ましょう」と言い、先ほどよりゆっくり丁寧に触って温室を出た。

 「わあー、綺麗な桜が一杯!といっても群れをなしているのではなく、こっちに一本、あっちに一本って具合に桜があるのよ、行きましょう。…
この桜の名前は、ウミネコ」
「え?なんて言った?」
「ウミネコ」
「桜の名前よねえ」
「そう、白くてとっても綺麗なの」
もちろん触った。
「あっちにもある。えーとこれはオカメ …まだあっちにもある、えーとこれは大黒(だいこく)」
 あんまり奇妙な名前なので、とうとうわたしは笑い出してしまった。
 「わあー綺麗、これはちょっと、これからなのかなあ。たいはくと書いてあるわ」
 「いったいどんな字を書いているの?」
 「太白、ふといに白」(と彼女は言ったと思う)
 彼女は更に言った。「英語では、グレイト・ホワイト・チェリーと書いてあるわ。…ああ、ここに解説がある」と言って、

 これらの桜はイギリスの桜収集家、コリング・ウッド・イングラム氏が日本の桜、特に山桜を愛し、日本から多種類の苗を取り寄せて自分の庭で育てた。ところがこれらの桜が、日本では滅びていく一方なのを惜しんで、かつて日本から取り寄せた桜を、日本に〈お返し〉する目的でこれらの桜の苗を送ってくれたものである…。

のような概略しか覚えていないが、〈チェリー・イングラム〉くらいは覚えていようと思った。それにこれだけの業績を残した人のことなら、既に本になっているだろうとも思った。
 この〈桜物語〉のお陰で、先程来のちょっと落ち込んだわたしの気分は、ほっと和んで、その後の彼女との食事も会話も楽しめた。わたしはちょっぴり苦い固まりを残しながらも、彼女がその場しのぎのことを言ったのではなく、心底〈触って見る〉ことを大切にしているのを知っていたので、この話題に戻りたくはなかった。

 その後、わたしは偶然一冊の本を見つけた。タイトルを見てこれに間違いないと感じた。
『チェリー・イングラム = 日本の桜を救ったイギリス人』〔阿部菜穂子(なおこ)著 岩波書店〕である。
 大急ぎで借り、夢中で読んだ。
 コリング・ウッド・イングラムは1880年10月30日、ロンドン生まれで、虚弱児で、11歳のとき母メアリーとケント州のウェストゲイトの別荘で暮らした。父ウィリアムは週末にこの別荘に帰ってきた。二人の兄は全寮制の寮で暮らしていた。イングラムにとってここは鳥類研究家、桜研究家としての基礎を作る最適な環境であった。山、森林、海辺、沼地が一杯だったから。
 イングラムは1902年(21歳)、1907年(27歳)、1926年(45歳)と3回訪日し、そのおりに長崎、神戸、富士山麓、日光、箱根、京都、松島、仙台、東京の小金井、荒川堤防などで桜に魅せられた。
 第一次世界大戦後の1919年に、イングラムはウェストゲイトからジェネンドンの「ザ グレンジ」に居を移した。その家に、樹齢25年ほどの見事なジャパニーズチェリー2本と、ユーカリの樹1本が植えられていた。
 この桜が彼の桜熱を刺激したようだ。彼は、ここに桜園を作ることに決めた。
 6年間に70種以上の多種類の桜を集め、新種を造り、それらを沢山の人に見て楽しんでもらい、申し出があれば、苗や穂木(ほぎ)を無償で提供した。イングラムが初めてイギリスに導入した品種は最終的には50品種にも及んだが、全てザ グレンジから普及した。 こうして日本の桜はイギリスばかりでなくアメリカ カナダなどにも広がった。
 1926年、3度目の訪日で、イングラムは、既に日本桜がソメイヨシノに圧倒され、古来の山桜や里桜が滅びかけ、手当をしなければ50年で全滅するだろうと、日本の「桜の会」の席で警告した。
 そして、日本の友人たちから桜収集に協力してもらった〈おかえし〉の意味で、イングラムは「太白」その他の苗を日本に送る約束をし、イギリスから日本へ6度(1年に一度の機会)も穂木の輸送に失敗しながら苦労の末7年目の1932年に、京都の植木職人が接ぎ木に成功させた。穂木を枯らさないように大根に刺して、暑いところと、寒いところを一ヶ月もかけて輸送するのは桜にとって無理があった。最後は穂木をじゃがいもに刺してシベリヤ鉄道を経て日本に送り、無事桜は枯れずに届いたのである。

 この本には、桜が間違った形で軍国主義イデオロギーに使われたこと、また、その軍部に抗して命がけで桜の苗圃(びょうほ)を守り抜いた桜守りたちがいたことなども書かれている。
 わたしはイングラムの桜収集にかける熱意にただ感心しながら読んだ。

 ところがこの本の半ばを過ぎてからの展開はわたしを仰天させた。
 イングラムの3人の息子は太平洋戦争の連合軍に従軍し、家族は、その安否を気遣っていたが、息子たちはポチポチと帰ってきた。
 しかし、3番目の息子アレスターの婚約者ダフニーは1940年9月(ダフニー26歳)、ホンコンの病院で連合軍の従軍看護婦をしており、家族は、ダフニーの安否が分からず心配していた。
 1945年8月15日、日本の敗戦によって、ダフニーは3年もの日本軍の捕虜生活から解放されて、やっとイギリスへ帰って来られたのである。
 二人は1947年、ロンドンで結婚式を挙げ二人の子供ももうけて暖かい家庭を作った。
 このダフニーの生き方にわたしは衝撃を受けたのである。

 1971年10月、昭和天皇が初訪英した折り、イギリスでは、日本軍の捕虜にされた多くのイギリス人が、日本の蛮行を許さず、天皇が植樹した杉の木を引き抜いたり、日本の旗を焼いたりして、激しく抵抗した。
 1993年、イギリスの元日本軍捕虜団体(POW)は保障を求めて日本政府に提訴した。
 ケント州在住の、ニコラ・タイラーという女性ジャーナリストが、2008年はじめに、『シスターズ イン アームズ』(従軍看護婦)という本を出版した。
 これは、戦時下、女性がどんな被害を受けたか、聞き取り調査をしたものを纏めた本である。
 2007年、ニコラ・タイラーは、93歳になっているダフニーのところへも尋ねて来た。
 ダフニーは、あの悪名高い〈黒いクリスマス〉のことを初めて、この女性ジャーナリストに語った。
 イングラムを含めて家族の誰一人、このことを知らなかった。タイラーがダフニーを訪問した時には、既にイングラムも、その妻も、更にダフニーの夫も亡くなっていた。
 この本が出版されて、タイラーのサイン入りの本が贈られてきたとき、ダフニーは自分で読むことができず、息子が音読した。
 ダフニーは、家族の平安を保つために、この忌まわしい事件を自分一人の心にしまい込んでいたのであろう。わたしには、このダフニーの強さと限りない優しさが深く身に染みた。
 日本の桜をこよなく愛した義父イングラムのことを〈チェリー〉と呼び、ダフニーとイングラムの二人は善い関係であった。ただ、「二人の間では日本についての話題は暗黙のうちに避けられていたのだろう」と、ダフニーの子供も孫も述べている。

 〔注〕
1975年5月、ダフニーの夫アレスター病死。
1979年、イングラムの妻死去。
1981年5月19日、イングラム百歳6ヵ月で死去。
2008年はじめにニコラ・タイラー『シスターズ・イン・アームズ』(従軍看護婦)を出版。
2008年11月24日、ダフニー94歳9ヵ月の生涯を遂げた。

 わたしは、この『チェリー イングラム = 日本の桜を救ったイギリス人』を読み終えてから、イギリス在住のホームズ・恵子著、『アガペ、心の癒しと和解の旅』(命の言葉社発行)を読んだ。この本は「イギリスPOW」の人たちと日本との和解を求めて奔走し、元日本軍の捕虜の方々を、日本に招いて交流を続けている、ホームズ・恵子さんご自身の報告である。
 続けて直ぐ、『癒しと許しへの旅 = 日本軍捕虜となった人々の戦後50年』(スティーブ T ヤング、ジョン M L ヤング 著、菅野和憲 訳、栄都出版)を読んだ。
 スティーブ・ヤングの本は、主にアメリカ人が受けた捕虜生活の苦しみ、「凍結した激怒」(frozen rage=j から、解放され、憎んでいた人々を許すことができるようになって、ついに「内的平安」(inner peace=jを与えられた人々、高潔な魂を持った方々を尋ね、その心の旅を丁寧に辿って聞き取ってくださった本である。
 わたしは、この〈凍結した激怒〉という言葉に全身を打たれた。それを〈内的平安〉へと導くのは並大抵なことではないと思う。まして多くの捕虜体験者たちは心の痛みだけではなく現実に肉体的傷を負い続けているのである。

 〈黒いクリスマス〉(1941年12月25日)という言葉は、アメリカやヨーロッパの、戦争に関わる本を読むと、戦争の無残さの象徴として使われている。具体的に説明されなくてもキーワードとして使われている。

 なによりも、当時の日本の軍部が、学校や病院を戦場にしてはならないという国際条約を批准しながら、そのトップは、ことの重大さを重んぜず、現場の軍隊にこのことを伝えていなかったのか、それとも現場の軍幹部も、ことの重要性を無視したのか、傍若無人な行為を行ったことにわたしは嫌悪と怒りを感じている。国際条約(ジュネーブ条約)では捕虜の扱いについても人道的に処すること、とあったのを、日本の軍部はこれを拒否したのだという。
 ダフニーがいた病院では、赤痢患者が出ても、ジフテリア患者が出ても、日本軍は必要な薬を出してくれなかった。看護婦長が毎朝交渉してもだめで、とうとう最後に少量の薬をくれたが、それはもう期限切れのものであった。食料は粗悪で少なく、更に非衛生的でもあった。
 ダフニーたちはお湯を飲んでおなかの足しにしたが、当然栄養失調だった。
 イギリスでは、ナイチンゲール以来のことで、看護婦は男性と対等の職業婦人であるが、日本軍はそのことも知らずに無礼な待遇をした。

 戦争は人間が始めるのだとつくづく感じている。戦争をすることでいい思いをするのはごくごく一握りの人で、大多数が苦しみと悲しみ、痛みを負うのである。
                        2018年3月13日(日)

前号へ 連載初回へ  トップページへ 次号へ