「うか」109 連載初回へ  トップページへ
             わたくしごと
                                   木村多恵子

 昨年(2016)の5月26、27日、伊勢志摩で開かれたサミット会議参加のために、バラク・オバマ米大統領は来日した。
 その折り、大統領はサミット終了後の、5月27日の午後、安倍晋三首相と共に「広島平和記念公園」を訪れた。
 オバマ大統領は「広島平和記念公園」で花束を手向け、哀悼の意を示すスピーチを述べた。

 「71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死に神が舞い降り、世界は一変しました。」

 人の胸をぎゅっとつかみ取るこの第一声は、わたしの耳をラジオに集中させた。

 「人類がこの世に生存して以来、戦争は絶えずありました。それは遺物の中から発見されるフリント(岩石の一種)から刃(やいば)を、木から槍を作り出したこと、最初、それらの道具は食料を得るためのものであったはずです。ところがいつの間にかそれは自分たち、人類という仲間にも暴力的に使うようになったという痕跡があることからも推測できるのです。」

 この後、戦争が起きる理由や戦争の悲惨さを述べ、さらに、
 「…科学によって、私たちは海を越え、雲の上を飛行したり、病気を治したり、宇宙を理解できるようにもなりました。しかし、一方で、そうした発見は、より効率的な殺人マシーンへと変貌するのです。」
 「…私たち人間は、邪悪な 行いをする能力を根絶することはできないかもしれません。…私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。」
 「…何時の日か証言する被爆者の声が私たちのもとに届かなくなるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません。その記憶があれば、私たちは現状肯定と戦い、その道徳的な想像力をかき立てられるのです。」
 「…今日広島の子供たちは、平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。」
 「…未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目的の地として知られることでしょう。」

 スピーチの全文を聞き終えて、わたしは暫くどきどきし続けた。
 ああ、でも、「死に神」を差し向けたのは、あなたご自身ではないけれど、あなたのお国の先輩戦争指導者たちではありませんか?とわたしはつぶやいてしまった。
 けれどもまたわたしは感じ取ってもいた。今、この広島で、先人たちが犯した罪を背に受けて、頭を垂れ、語っているオバマの心のうめきを素直に聞いている自分をも発見していた。
 そしてわたしは「広島」に触れる度に思い出すあるできごとを、今日はことさら強く思い浮かべていた。

 自慢できることではないけれど、わたしがマッサージ師として正式に仕事をしたのは、たった9ケ月である。そのわずかな期間でのできごと、というより、わたしにとっては衝撃的なことを「広島」と連鎖的に思わずにはいられない。
 ある日、わたしは一人の中年の男性のお客様のお宅へ仕事に伺った。確かこのお客様のところへは2度か3度目のことだ。いつものようにお優しそうな奥様が出迎えてくださり、丁寧にご主人様のところへ案内してくださった。お部屋へ入ると、きついお酒の臭いが充満しているのは辛かった。
 わたしは仕事を始めた。このお客様は黙しがちであったが、それよりもわたしには強いお酒の臭いが苦手で、不安でならなかった。

 「俺は結核をやっているからもうすぐ死ぬ。何時死んでもいいんだ」と、ぼそぼそと話し出された。
 「まあ、素敵なお優しい奥様がいらっしゃるのにですか?」とわたしはやっと言った。
 確かに最初に伺ったときから肋骨が沢山無いことはわたしにも分かったので、大変な手術をなさったのだろうとは推察された。
 まさか、二十歳(はたち)そこそこのまるで子供のようなわたしが、立派な大人に向かって、「自暴自棄にならないでください」なんて生意気なことは言えない。
 「いいや、早く死んでしまいたいんだ。なんの希望もないし、やりたいこともない。この肋骨が無いことだけで沢山だ。私の今の治療法は苦しいし、効果も上がらない」
 「気胸ですか?」
 「ああ、あれは苦しい。でもその方法はやらなくなった。今は薬だけだ」
 わたしは遠藤周作の本で、〈気胸〉は苦しい治療法だと知らされているだけだ。かろはずみな慰めの言葉など言えるわけはない。
 「私はもっと辛い経験もしているんでね」と話は更に落ち込んでいった。どんなことでしょうか?などと立ち入る訳にはいかない。けれどもその方はたしかに「何か」を言ってしまいたそうにも、また言ったところでどうにもならない以上、言うまい、と迷っていらっしゃるようでもあった。
 沈黙の後、
 「聞きたい?」と揺さぶるようにおっしゃる。
 「聞きたいと申せば人様の苦しみに対してわたしはなんにもお手伝いできるはずもないので、単にお苦しみを引き出すようなことはできません。それにわたしのような子供にお話なさっても埒があかないのではありませんか?」
 「ううーん、たしかにきみが、ぼくになにかしてくれることはできないねー」と言ってからまたしばらく沈黙が続いた。4、5分はあっただろうか。
 「聞いてくれるかい?実際にはきみはなにもできない。ただ聞いてもらえればいいんだ」
 わたしの胸は激しく動悸を打っていた。なんと言われるのだろう。
 「ぼくは…被爆者なんだ!」
 「え?あのう?長崎ですか?」
 「広島だ!」
 わたしは絶句した。
 信じられない、信じたくない、そんな恐ろしい体験をなさり、今も被爆の後遺症に苦しんでいる現実の方が、今、わたしの前にいらっしゃるなんて!わたしはそういう方に、わたし自身がお目にかかることなどあるとは思えなかった。
 わたしの仕事の手は一瞬止まってしまった。そして、「わたしは仕事をしているのだ」と慌てた。止まった手は次に、痛々しい背中をそっと撫でていた。そしてまた慌てて本来の〈仕事〉に戻った。
 ややあって、下手な同情の言葉など言ってはならないと思いながらわたしは、「では、被爆手帳はお持ちなのですか?すぐに手帳は公布されましたか?現地から離れても登録できたのですか?」
 などとごく事務的なことをお聞きするしか方法は見つからなかった。
 この方も淡々と、現地から離れての公布は大変だったこと、そのほか冷静にお話くださった。
 わたしの仕事が終わりに近づいたころ、
 「今日はありがとう。きみは珍しい人だ。普通こんなことを聞かされると同情っぽい慰めを言うか、黙ってしまうか、話をそらせるかする人が多い。きみは、きみが分かる、現実に必要なことを確認してくれた。」
 「わたしにはよい言葉が見つからなかったんです」
 「いいや、へたな言葉はいらない。きみがぼくの辛さを理解しようとしていることはよく分かった。」
 「え?手帳を受け取れて治療を受けられているかなんて、あたりまえのことをお聞きしたわたしでしたが。」
 「いや、充分分かったよ、このことを聞いた瞬間、きみの手は止まった。そして間をおいてから、背中を撫でてくれた。これ以上言葉はいらない。」
 仕事は終わった。わたしはいつもより丁寧にお辞儀をしてその家を辞去した。

 それから何日か経ってその方からマッサージの依頼があったが、他の方が行く順番で、わたしもよその家へ行くことになっていた。それに、わたし自身が間もなくその治療院を辞したことで、あれ以来二度とお目にかかる機会はなくなった。
 今はどうしていらっしゃるだろうか。大きな病魔を二つも抱えて、ながらえていらっしゃるだろうか?
どうぞお健やかでいらっしゃいますように!

 その後、「広島を語る会」などで被爆体験者のお話を伺うことは何度かあるけれど、あの若い日の滅多にない出会いの経験は他にはない。そして当時の仕事の先輩たちにはこの話を伏せてきた。

 9ヶ月の中のたった1時間の体験。わたしにとっては大切な大切な1時間である。

〔参考文、朝日新聞系、ハフィントンポスト日本版  2016年5月27日(金)
バラク・オバマ米大統領「広島スピーチ」より
部分参考 広島平和記念公園にて〕
                           2017年1月7日(土曜)

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