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             わたくしごと
                                   木村多恵子

 「昭和20年、8月6日・9日・15日」
 と、太平洋戦争終結につながる忘れがたい日にちを、見事にまとめた方がおられる。
 現在60歳代以上の日本人であれば、たいていの誰もが、はっとさせられる日だと思う。
 改めて説明する必要はないかもしれないけれど、昭和20年8月6日は、米大統領トルーマンの命令によって、人類史上初の原子爆弾が、広島に投下された日である。
 9日は、日本に更なるダメージを与えるかのように、広島に落としたものとは異なる形式の原子爆弾、もう既に作ってしまった原子爆弾を、使ってしまわなければならないかのように、長崎の上空からも投下した。
 そして8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印し、敗戦の日となった。

 ごく真っ直ぐに言えば、戦争は、自分が所属している国が勝ったとしても、直接戦場に立たされる個人にとっては、戦死も戦傷もあり、結果として勝っても負けても不幸である。
 戦争に限らず、人にはそれぞれの忘れられない「その日」がある。
 それがその人にとって、とくに喜ばしい日であるなら、それは幸いである。そのような「特別の日」をいくつか持っている人はさらに幸せに違いない。なぜなら、喜びはどちらかというと個人のことがらであり、悲しみは多くの人と共通していることが多いからである。

 近年のことを思い起こしても、群馬県御巣鷹山での日航機墜落事故、阪神淡路大震災、東京地下鉄でのサリン事件、近くは2011年3月11日の東日本大震災は、大きな津波を伴い、さらにさらに今なお危険にさらされている福島の原発問題を抱えている。
 どれをとっても厳しいことばかりなのに、わたくしは肉体的に被害を受けていない。が、一人の人間として心を痛めているのは多くの人と同じだと思っている。

 70余年生かされてきたわたくしも、誰もが経験する肉親や親しい友を失った悲しみを知っているが、直接わたくし自身が死の危険に直面したことはない。
 ところが、家族や親類を通して、わたくしは間違いなく自分の命が救われていることを知らされている。
 それは昭和20(1945)年3月10日の東京本所、浅草の大空襲、あの早乙女勝元さんの詳細な記述で知られている東京大空襲のことである。

 わたくしは兄4人、姉1人の6人兄弟で、両親とわたしたちは東京浅草で暮らしていた。
 昭和20年のこのとき、既に長兄は兵隊に取られていた。
 何時から、どのように具体的に父と次兄Aと、川崎の田舎の父の本家の伯父との間で相談が進められていたかは知らないが、ある日、母とわたしたち下4人の兄弟は、次兄Aに送られて父の本家へ行くことになった。
 A兄は、新宿までわたしたちを連れて行き、無事小田急線に乗せてから、少し大きくなった3番目の兄Fに、「お母さんを助けて、気をつけて伯父さんの家に行きなさい」と言葉にならない言葉をかけたであろう。そしてA兄は浅草へと戻っていった。
 わたしは母の背に負われていたと思う。電車が混んでいたかどうかも知らないし、その日が正確にいつなのかも分からないが、少なくとも昭和20年の初めには疎開していたようだ。もしこれよりもっと遅くなっていたら、小さい子供を連れての移動は困難だったと、聞かされているからである。

 3月10日の夜空を焦がす真っ赤な東京を呆然と見つめていた母や伯父夫妻、従姉たちも、まだ浅草に残っている父やA兄のことをどれほど案じていたことか!

 空襲後1週間ほど過ぎて、大火傷をして包帯だらけの父が、次兄Aも伯父のところへ戻っているだろうと期待して帰ってきたが、いない。父の話によると、空襲のさなかに、近所の家の青年と、Aに向かって「直ぐ田舎へかえれ!」と言ったものの、気になって念のため遺体収容所に行ったが、見つからなかったので、伯父のところへ帰っただろうと思ったという。
 父や伯父たちは「明日は帰って来るだろう」と待ちわびていたが、日はむなしく過ぎていった。
 後々(わたしが学校を卒業してから)、従姉妹が、「叔母さん(わたしの母)は、なにも言わずに毎朝毎晩玄関口でたたずんでいたの、最初は待っているんだ、と思っていたけれど、そのうち、その姿を見ているのが辛くなってね、そのことをお父さん(従姉妹の父、わたしの伯父)に話したの。そうしたら叔母さんは外へ出なくなってね、今度はその姿を見なくなったこともかわいそうだった!」と、わたしの手を握りながら涙をながしていた。

 昭和21年1月の末近く、父はどこかの新聞で、長兄の部隊が復員船に乗れるという記事を読み、追い打ちをかけるように、その船が沈み、全員死亡という記事を読み、落胆しきって悄然と家に戻ってきた。
 が、その1月29日の真夜中、戸を叩かれて、出て見ると、「幽霊だ!」と驚かされたほど痩せ衰えた兄が立っていた。家族全員真夜中に起こされて兄の無事を喜んだことはいうまでもない。
 長兄の話で、船が沈んだのは確かで、しかも、その船に乗船したのは、現地中国にいた邦人で、その人たちを先に帰国させ、兵隊はその後の便と、命じられたという。
 いったい運命は何処で分かれてしまうのだろう?

 このような際どさの中にもかかわらず、戦地から無事帰って来られた長兄と、父は早々に一家を浅草に移した。
 わたしはまだ学齢に達してはいないけれど、横浜の寄宿生となった。

 その後、小学校2年か3年の夏休みになってからであろうか。母に連れられて父の実家へ行ったときのことである。従姉妹がわたしを出迎えて「大きくなったわね、元気になってよかった」と言いながらわたしを抱きしめてくれた。わたしにはこの従姉妹の深い思いやりの言葉の意味が分からなかった。喜んでくれていることはわたしにもわかったけれど、子供心にも気恥ずかしかったことをよく覚えている。そのころわたしは疎開して、この一家に世話になったことの意味をよく分かっていなかったのである。小さいうちに、親からも離れて暮らしたので事情が飲み込めていなかった。
 けれどもその後、わたしが小学校3年の終わりに父が死に、わたしが家から通学するようになった高校時代になってから、家族がゆったりと集まった時々に、東京空襲を奇跡的に免れた訳を知るようになった。そして初めて、あの日の従姉妹のただならぬ喜びの意味を知ったのである。
 それからわたしは戦争に関する小説や各地の被害の記録などを読むようになった。
 今年の東京平和記念日(3月10日)に3番目の兄から「わたしたち兄弟は、A兄さんたちのお陰でこれまで生きてこられました。」というメールが送られてきた。
 東京墨田区本所に戦災慰霊堂がある。母は、行方不明のままのAの名前を、この慰霊堂に納めて少しばかり慰めを得たようであった。この母も80余歳で病死したが、その死の間近に、意識の混濁状態になったとき、18歳で戦災死したAの名を呼び、さらに二人の男の子の名前を呼びかけていた。この二人の男の子は赤子のうちに早逝したわたしの兄である。
 命とはなんと尊いものであろう。一人一人の命が、数え切れないほど多くの人の命とかかわりあっている。
 それだけに、人間が引き起こす愚かな戦争は決してしてはならない!
                                    2016年3月30日(水)
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