「うか」099 連載初回へ  トップページへ
             わたくしごと
                                   木村多恵子
 シューベルトの歌曲の魅力を教えられたのは、中学2年か、3年の夏休みに入ろうとしていたころのことである。
 教えてくれたのはラジオであったが、わたし自身が積極的に聴こうとしてかけたのではなく、寮生共有のラジオが偶然かかっていて、わたしの耳を強い磁石のように引きつけたのである。
 わたしは夏の夜の涼を求めて一人学院内を散歩し、もう9時近いと思うころ、自分の寮に入ろうとしていた。そのときがシューベルトとの出会いである。

 「次はシューベルトの歌曲 『魔王』です。バスか、バリトンの人が歌うのが一般的です。今日は、若く新しい歌手と、円熟したピアニストとの見事な演奏を聴いていただきましょう。」と言って、二人の名前を紹介したはずなのに、わたしはどちらも覚えられなかった。
 「ゲーテの詩に、18歳のシューベルトが作曲したもので、あの『野バラ』のような愛らしいものでも、甘い恋の歌でもありません。劇詩と言うべきでしょうか。一人で、語り手と父親と、子供と魔王の4役を歌い分けるという難しいものです。」と前解説があり、ざっと粗筋を紹介した。

 「父親が息子を抱いて、暗い夜の森を馬に乗って家路を急いでいます。馬の蹄の音も高く、疾駆してゆきます。
 子供は、突然何かに怯え、不安と恐怖の叫びをあげます。
 〈父さんには魔王が見えないの?〉
 〈何でもないよ。霧が流れているんだよ〉
と、父は取り合いません。
 〈かわいい坊や、一緒に遊ぼう〉
 〈父さんには魔王の声が聞こえないの?〉
 〈落ち着くんだ。枯れ葉にザワつく風の音だよ〉
 〈いい子じゃ、行こう、わしと一緒に。うちの娘に世話させる。歌って、踊って、寝かせてあげる。〉
 〈父さん、あそこの陰に立ってる魔王の娘が見えないの?〉
 〈見えるよ、見える、古い柳が光ってる〉
 〈かわいい子供、奇麗な子供、嫌と言うなら無理に連れて行く〉
 〈父さん、父さん、魔王が、魔王がぼくにつかみかかって来る〉
 父は震えて馬を駆り立て、呻(うめ)く子供をしっかと抱え、やっとのことで家にたどりついた。
 腕の中の我が子は、もう 死んでいた。」

 わたしは、寮の縁側から上がって、ラジオが置いてある棚の間近に行き、ただ立ち尽くして聴いていた。
 歌は、ドイツ語なので、言葉を聞き分けることはできないけれど、薄気味悪いほど優しく囁く声は、一層恐怖を誘い、「マイ ファーテル、マイ ファーテル」と必死に叫ぶ子供の声は、わたしの胸を揺さぶり、ドキドキさせる。そして、高く、低く、複雑に鳴り響き続ける、3連音のピアノの音は、ますます不安をかき立てる。恐らくこのピアノの中には葉ずれの音も、風の音も、柳の揺らぎも描写されているのだろう。

 〈見えないの?〉
 〈聞こえないの?〉
 〈見えないの?〉
と、恐怖を訴える切迫感が、父にも伝染し、馬を駆り立てさせたが、襲いかかる魔の手は子供を奪い取ってしまったのだ。
 子供ばかりではない。同じ魔の手はわたしの背後にまで伸びて、わたしをも掴み取ろうとしていた。息詰まるその時間は長いような、あっけないような妙な感覚で、歌も、ピアノも無音になり、やや間があいた。わたしはヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。
 そして、ラジオはわたしを置きざりにして、「次の曲は…」と言ったようだが、わたしの耳には、もう何にも入らなかった。それどころか、わたしはラジオを消してしまいたかった。どうしてみんなは静かにそのまま次の曲を聴いていられるのだろうと不思議だった。できることなら、また、そっと一人で外へ飛び出し、自分の心の不安を沈めたいと思った。
 仕方なくラジオが聞こえない洗面所へ行き、かなりの時間を過ごした。ラジオが消された頃を見計らって、やっと自分の床に着いたが、ヘトヘトに疲れていて、魔王の手が、わたしを捕まえようと襲いかかる夢にうなされた。翌日も、その翌日も魔王はわたしを追いかけてきた。
 わたしは知った。そうなのだ。これは本当なのだ。死は必ずわたし自身にやってくるのだ、と。

 実を言えばこの放送で、誰の訳かは分からないけれど、詩全体を読んでいた。が、ここでは敢えてわたしなりの省略語に留(とどめ)させていただいた。
 今回幾つかの和訳を調べた中に、井上正蔵訳で、普通の何気ない言葉がはっとさせた。それは第一段の語り手の部分である。

 「こんな夜更けに、風吹く中を、/ 馬を飛ばして行くのは誰だ、/ 馬には父が子供をしっかり ¨大事に´抱えて乗っているのだ」

 この「大事に」という何でもないような言葉が、ここでは「しっかり」と「抱えて」のあいだで、際だっているように思えた。我が子を「しっかり大事」に抱かかえているのは当然であるが、一文字一文字、指で漢字をたどっていると、一文字ごとに 素直に感動できる。

 「魔王」との出会いはわたしにとって一つの事件であった。うなされることはだんだん減ってきたものの、不安は消えなかった。それなのに、どうしても「魔王」を聴きたくて、それとおぼしき番組に注意を払ったが、奇跡は起こらなかった。
 とうとう高校生になったわたしは自宅通学になっていた。そしてある日、ラジオを聴いていたら、「シューベルト」と聞こえ、耳をそばだてると「糸を紡ぐグレートヒェン」と言う。この曲の解説は一切なかったが、「魔王」との曲調は異なるものの、ピアノの3連音符に載せて歌われたソプラノは、不安の中にも期待をも感じさせた。
 これは何だろう?糸車が回り続けている。…ああ、どうしたの?糸車はつんのめるように突如止まった。
 糸が何かに引っかかって止まってしまったの?わたしは今度も戸惑った。
 このグレートヒェンとの出会いは、シューベルトとの二度目の出会いとなった。
 グレートヒェン、グレートヒェン、誰だっけ?ああ、ファウスト!ファウストに出てくるマルガレーテ(マルガレーテの愛称は「グレートヒェン」)のことだろうか?
 疑いながらも、確認できずに日を過ごした。

 そんなある日曜日、わたしが編み物をしているところへ兄の友人が訪ずれ、「糸を紡ぐグレートヒェン」と一言言った。なぜかわたしは虚を突かれ、全身が波立つのを感じた。訳の分からない恥かしさで身動きができなかった。幸いその人はさっさと兄の部屋に行ってくれたのでほっと息をついた。
 あの糸車の音と、不安を掻き立てる唐突な終わり方とがよみがえった。
 この、兄の友人は音楽に通じている人なので、この人なら、わたしの疑問を解いてくれるかも知れない。けれどもなんとなくお話をするには勇気が要った。
 とうとうある日、思い切ってお聞きした。
 「糸を紡ぐグレートヒェンは、なぜピアノが突然止まるのですか?つんのめりそうになります」
 「グレートヒェン、聴いたことあるの?」
 「はい、一度だけ」
 「そう感じたの? あの歌詞の内容を知ってる?」
 「いいえ」
 「調べてごらん」
 いったいどうやって調べればいいのだろう。そう簡単にラジオから聴けるとは思えないし、かと言って、このときも図書館で調べる方法など知らなかったし、レコードや本を買ってまで読んでもらうこともできなかった。
 「魔王とグレートヒェンを聞きたいんですけどなかなか聞けないんです。」
 「じゃあ、今度お兄ちゃんとレコードを聞きにうちへ来ればいい」
 そんな訳で、聞かせていただきに兄と伺った。

 正直なところ、わたしは魔王を聞かせていただきながら、「これが魔王ですか?」と尋ねてしまった。あの感動とは違って色あせていた。初めて聞いた、あの日の打ちのめされた激しさはなぜだったのだろう。内心のあの日の衝撃についてはなにもうちあけてはいない。
 ありがたいことに、グレートヒェンは期待をうらぎらなかった。が、わたしの疑問にはとうとう答えてくださらなかった。
 「どうしてこんな不自然な終わり方なのですか?」
 「そのうちに分かるよ」
 これ以上何も言うな、と言われたような厳しさを感じてわたしも沈黙した。

 さらに、わたしは不思議な体験をした。
 今度は「魔王」と「グレートヒェン」を追いかけて番組を求めた。やはりどちらとも中々出会えなかった。が、あるとき、ふとラジオをかけたとき、わたしは、あれ?グレートヒェン?と曲の途中から聴いて不思議に思った。なんだかどこかが違う。でも似ている。いや、わたしの記憶なんてあてにならない。これがグレートヒェンだったのか。とにかくよく似ていたので、グレートヒェンに出会ったのだと喜んだ。ところが、曲が終わると、アナウンサーは「ただいまのは『水の上で歌う』でした。」とまるっきり違う曲名を告げた。わたしは驚いた。どうなっているの?グレートヒェンではない。けれど、どうしてこんなに似ているの?確かに今聴いた方が明るかった。グレートヒェンのように、ピアノの低い重苦しさはなかった。だけれども似ている。頭が混乱した。
 その後、暫くして謎が解けた。
 「今日は珍しい聞き比べを致しましょう。音の高さを変えるだけで曲全体の感じがすっかり変わる例です。」と言って、なんと『水の上で歌う』と『糸を紡ぐグレートヒェン』の2曲を続けて聞かせてくれたのである。わたしには、細かいことは分からない。実際にはそのまま調を替えただけではないと思うけれど、わたしが疑いながらもグレートヒェンと水の上がこんなに似ているとは驚きであった。

 あれから何十年も経った最近、ある方が同じ曲を、調を替えて聞かせてくださった。長調と短調の違いどころか、長調同士、短調同士でも主音を替えると、明るさや重厚感がまったく変わるのだということを教えていただいた。
 これまでにもう一つ分かったことは、グレートヒェンは、ゲーテの原作『ファウスト』を、グノーが、作曲した『歌劇ファウスト』である。筋書きはほぼ原作通りであるが、ゲーテの小説を読むより、歌劇を聴いた方が、ヒロイン、グレートヒェンの辿った悲劇が、音楽を伴って、一層胸に迫ってくる。
 そして、今現在、この2曲は新たな形と意味をもってわたしを捕らえている。「魔王」はますますわたしに近づき、「糸車」が突然止まるように、「死」は前触れもなしにやってくるのだろう。
                             2014年6月21日(土曜)
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