「うか」098 連載初回へ  トップページへ
             わたくしごと
                                   木村多恵子

 昭和27、8年から30年代前半あたりは、ラジオからしばしば文部省唱歌が流れていた。
 「春よ来い」、「春の小川」、「茶摘み」、「花火」、「紅葉」、「野菊」、「冬景色」など季節に合わせていろいろな曲が聴けた。
 童謡も、「桜ひらひら絵日傘に、チョーチョもひらひら来て遊ぶ、乳母のお郷は春霞、すみれ、たんぽぽ、レンゲ草」の『絵日傘』は優雅な美しい情景を歌いながらも、どこかに寂しげな影のある歌だった。これはメロディーから受ける印象だろうか?

 「赤い鹿の子(かのこ)の帯締めて、京人形の見る夢は、汽車に揺られて東海道、眺めたあの日の富士の山」という一番の歌詞は『京人形』という歌である。
 この『京人形」の歌はわたしのお気に入りで、寮生活をしていたわたしが持っていた着物は、母が縫ってくれたネルの寝間着しかなかったが、就寝前のひととき、それを着て、歌の主人公、京人形に成りきって、古里の京都を後にしたころの思い出、金閣寺や東山を目に納め、かもの河原で仲良しの友達と、細石を踏みつつ、別れを惜しんだこと、汽車の窓から初めて見た富士の山のことなど、勝手な想像をしながら、歌そのものの世界に入り込んで、小さな袂を振りながら踊っていた。
 学期休みに入ると、我が家でも着物を着、へこ帯を締めて、やはりこの歌を歌いながら舞い遊びをしていた。
 なぜか童謡には寂しさ、はかなさといった影をともなうものが多いように思う。大人は意識してか、無意識かは分からないけれど、生きてゆくには楽しいことばかりではなく、悲しさ、切なさ、辛さ、無情観も負ってゆかねばならないことを、童謡だけでなく、童話からも気づかせようとしているようだ。

 童謡全盛期のこのころ、少し余裕のある家には蓄音機があって、レコードを一枚かけるごとにぜんまいを巻いて、竹針か金属針を取り替えながら、1分間78回転のSPレコードをかけて楽しんでいた。
 わたしのことを自分の子供のようにかわいがってくれた近所のSおばさん一家にお呼ばれして、レコードを聞かせていただくのも、学期休みの大きな楽しみのひとつであった。針の交換はさすがにさせてもらえなかったけれど、だんだんぜんまい巻きをさせてもらえるようになったのも、ちょっぴり大人に成れた気分でうれしかった。

 「海は広いな大きいな、月が昇るし陽は沈む。
海は大波返す波、揺れてどこまでつづくやら。
海にお船を浮かばせて、行ってみたいなよその国。」
の歌は世界が広がるゆったりした大きさを感じて、これも好きになった。

 だが、もっと好きな歌ができた。それは
 「ナイショ ナイショ ナイショノ オ話 アノネノネ ニコニコ ニッコリ ネ、母チャン オ耳ヘ コッソリ アノネノネ 坊ヤノ オ願イキイテヨネ」
 の『ナイショ話』である。
 この歌を歌うと、遠く離れている母が本当に直ぐそばにいる気がして、針仕事をしている母の耳元に〈おかあさん〉とそっと呼びかけて甘え、寂しさを紛らわせていた。
 そして、あるとき、上級生のお姉さんに「わたしナイショ話のうた大好きよ、悲しいところがそんなにないんですもの」と言うと、その人が「本当はこの歌も悲しいのよ。まだあなたには難しいけれど、もっと大人になったら分かるわ」と、水を浴びせかけるような言葉がとんできた。ただ、救われたのは穏やかに話してくれたことだ。
 しばらくの間は「なぜだろう?」と気になってはいたものの、誰に聞いても、知らないのか教えてくれなかった。
 そのうちになにかに紛れこんでしまった。

 そうして、ごく最近のこと、朝食の後片付けと夕食の下準備をしながらラジオを聞いていた。
 突然わたしの心と耳を引きつける話題が飛び込んできた。

 「皆さんは、ナイショ ナイショ ナイショノ オ話 アノネノネ、という歌を知っているでしょ。この歌の作詞者は、結城よしを(ゆうきよしお)と言って、童謡を書くのが大好きで、手帳やノート、小さい紙の端にも書いて、数百編童謡詩を残しています。結城よしをは、昭和16年に、軍隊に招集され、19年に南方輸送船団護衛のため、ニューギニアに転進し、パラチフスに罹り、昭和19年24歳で亡くなりました。この歌は、かわいい坊やとお母さんのナイショ話になっていますが、もしかしたら、よしをのナイショ話というのは〈戦争が終わるといいね〉ということではなかったでしょうか」
 わたしの手は止まり、水道を止めて、食卓の椅子に座り込んでしまった。
 あのお姉さんが言っていたのはこのことだったのだ。それからわたしは、この話を聞かせてくれたラジオ局に、もう少し詳しい話を知りたいと、問い合わせた。けれども結城よしを、という漢字を教えていただけたが、それ以上の内容は分からなかった。
 そこで墨田区立八広図書館でこの歌に関するレファレンスを頼んだ。すると、合田道人(みちと)著、『こんなに深い意味だった童謡の謎3』の中に『ナイショ話』について書かれている、と教えてくださった。すぐに点字本を借りた。点字10枚程度の短いものではあったが、この中からわたしはもう一つ以前から気になっていた短歌を見つけることもできた。
 結城よしを(本名、芳夫)は大正9(1920)年3月30日、山形県置賜郡宮内町(現在、南陽市)に父結城健三(歌人)、母悦子(歌人)の間に長男として生まれた。
 昭和12(1937)年、17歳で東京で発行されている『詩と歌謡』や『歌謡劇場』に投稿し、地元山形新聞でも高い評価を得ていた。
 昭和13(1938)年、仲間と童謡誌『お手玉』を創刊している。
 『お手玉』発刊のお知らせの文章を読むと、よしをは戦争突入にさほど疑問視していないようだ。母国のため戦っている兵士を慰めるための詩を書こうと思っていた。
 昭和14(1937)年19歳で『ナイショ話』が生まれた。稿料5円。この歌詞に『かわいい魚屋さん』をヒットさせた、よしをより19歳年上の山口保治(やすはる)が曲を付けた。『ナイショ話』の原譜に、6月6日に当時、山口が努めていた、東京京橋の京華(けいか)小学校から、小石川の自宅に帰る途中の電車の中で作曲したと記されており、同年7月にはキングレコードで吹き込まれ、10月大塚百合子という童謡歌手がレコーディングし、発売され、文部省の推薦歌にもなった。

 『お手玉』発刊の前年の昭和12(1937)年12月2日付「日刊山形」に、よしをは書いている。
 @「いつか、西条八十先生が〈詩人は童謡を作るのが一生直らない病気だ〉と言ったことをぼくは覚えています。本当にその通りだと思っています。ぼくはよい病気を持ってよかったとさえ思っております。童謡とぼく…それは切っても切れない仲良しなんです。童謡とて遊びではないのです。…」
 しかし、昭和15(1940)年5月、国は戦争へと傾き、物資は不足し、雑誌を刷る紙の欠乏により『お手玉』は廃刊となった。『お手玉』はよしをの泉のようにあふれ出す詩を注ぎ込める場所であったので、なんとしても復刊したいと願い、8ヶ月後に復刊した。けれども、よしを自身の招集により、再び廃刊せざるをえなかった。
 昭和16(1941)年7月、とうとう弘前の部隊に、野砲兵として入隊し、千島やアッツ島等の日本軍への弾丸、食料、衣料品の輸送船を護衛する船舶砲兵任務のよしをは詩を書き続けた。
 昭和18(1943)年北洋から一転してシンガポールやパラオといった南の島々へ物資を輸送した。
 昭和19(1944)年7月25日、任務を終えたよしをたちは九州門司港に着く。戦局の逼迫は、海上輸送を取り止めざるをえなかった。よしをたちは、巌流(がんりゅう)島で防空の任にあたる。しかし、ここで部隊はパラチフスが発生し、よしをにも伝染した。
 よしを以下何人かの患者は小倉陸軍病院に運ばれたが、症状は悪化の一途をたどり、重傷になった。不幸ながらも幸いなことは、故郷の父母に面会が許された。
 両親は、よしをを見るなり顔を見合わせた。よしをの息は既に絶え絶えだった。
 母は、病床に駆け寄った。

    乳房吸う力さへなし二十五の 兵なる吾子よ 死に近き子よ
                結城悦子

 我が子を死出の旅に見送らなければならなかった、日本の母だけではない、戦争にかり出された世界中の、兵士の母の代表哀歌である。
 昭和19(1944)年9月13日、午前7時25分、よしを24歳にて死す。
 「ナイショ話」とは、自分と、たった一人の信頼できる人とのあいだから絶対に漏れてはならないことなのである。よしをにとって、それは母であった。
 遺稿童謡集『野風呂(のぶろ)』は、死の瀬戸際に、声にもならないよしをの、童謡詩をまとめて欲しいとの願いを汲んでのもので、まだ紙など手に入れるには難しいさ中の、昭和22(1947)年に発行された。

 その後、読売新聞文化部発行『唱歌・童謡物語』によると、終戦後10年を経た9月のある日、東京日比谷の野外音楽堂で、物故作詞家、作曲家の合同慰霊祭が行われた。『青い目の人形』、『夕焼けこやけ』
に続いて、よしをの『ナイショ話』が、この曲の作曲者山口保治の指揮で奏された。よしをの両親も列席していたとある。
 よしをが24歳で亡くなってから、さらに24年後の1968年によしをの遺文集『月と兵隊と童謡』が発行されている。
 ここに、その遺文集から、よしをの言葉を引用する。
 A 〈私はしばらく月を見つめていた。すると、月が母の顔に見えてきた。母は笑っていた。私は出航前夜に、いつもするように「おかあさん」と、小声で呼んで「また征(い)って来ます。お留守をお願いします」。そう言って笑顔でお辞儀をした。私の心の中にはいつも母が住んでいてくれた〉
 B 〈それは、自分を慰め、励ましてくれる、闇夜の灯台のような、暖かい灯であった〉

 * 参考1、『こんなに深い意味だった童謡の謎 3』(合田道人 祥伝社 平成14〔2002〕年11月1日初版第1刷)
(@を含む)
 * 参考2、読売新聞文化部発行『唱歌・童謡物語』(1999年8月)
(A、Bを含む)

 * 最後に『ナイショ話』の歌詞全文を記させていただきます。

    ナイショ話
               結城よしを 作詞
               山口保治 作曲
1. ナイショ ナイショ
    ナイショノ 話ハ アノネノネ
    ニコニコ ニッコリ ネ、 母チャン
    オ耳ヘ コッソリ アノネノネ
    坊ヤノオ願イ キイテヨネ
2. ナイショ ナイショ
    ナイショノ オ願イ アノネノネ
    アシタノ日曜 ネ、母チャン
    ホントニ イイデショ アノネノネ
    坊ヤノオ願い キイテヨネ
3. ナイショ ナイショ
    ナイショノ 話ハ アノネノネ
    オ耳ヘ コッソリ ネ、母チャン
    知っテイルノハ、アノネノ ネ
    坊ヤト 母チャン フタリダケ
                    2014年3月21日 (水)
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