「うか」075 連載初回へ  トップページへ

  わたくしごと

                      木村多恵子

 わたしが持っているアンテナはごく小さく、しかも感度が鈍い。それでも、ときどきあっと驚くような経験をする。
 いつものように恥さらしをするのだけれど、最近まで、「ドングリと山猫」や「風の又三郎」など、宮沢賢治の作品をあまりおもしろいとは思わなかった。多分最初に「ドングリ」を読んだときは、まだ点字を読むのが遅く、短い一つの文章さえ切れ切れになり、意味が分からなかったからであろう。しかも、「ぼくが一番大きい」とか、「ぼくが一番つやつやしている」とか、自慢争いだったような気がする。(本当は、今、原文に当たるべきなのは承知している。賢治ファンには大いにしかられるだろう)。それに自分の生活とはかけ離れていて、全体が掴めなかったからであろう。最近、この本を読み返したこともなければ、ラジオでの紹介も聞いていないので、「ドングリ」や「又三郎」の粗筋も確認していない。従って、今読んだならもう少し見方はちがうのかもしれない。
 ところがある時、雪嵐の中で小さな男の子が、必死に嵐に立ち向かっているが、とうとう倒れてしまう。けれども雪嵐を起こしている「雪ばんご」に使える「雪わらし」が、その男の子をわざと雪の上に倒して、雪布団をかけて命を守る話を聞いた。(これもワサワサと掃除をしながらのことなので、ただ「宮沢賢治作」と、タイトルもいい加減に聞き過ごした。それでも温かい気持ちになり、「宮沢賢治っていいんだ」と見直す?気分になった。さらに、「グスコーブドリの伝記」というのを、15分番組で放送したのを聴いた。これが衝撃的であった。東北地方の飢饉続きの厳しい貧しさの中で、父は去り母も二人の子供を置き去りにして何処かへ消え去る。恐らく兄妹だけなら生きてゆけるだろう、生き抜いて欲しいと希望を託して、二親は餓死を選らんだのである。やがて、妹もさらわれ、ブドリは一人残された。山瀬が吹くと冷害に見舞われ、飢饉と凶作が、人々を不幸にしていることが分かり、山瀬の被害から、農民を救うことに身を捧げる。彼は貧しさの中でも本を読むことだけは怠らなかった。そして、気象学を学び山を爆破し地球の温度を上げる。執行に当たって、自ら犠牲者となるのである。
 賢治を少し読んでみようか、と思い、先ず詩の数編を漢点字で読めるようにしていただいた。
 すると、「夏蚕飼育の辛苦を了えて」という、文字を見なければ意味が分からないところがあり、特に詩は漢字が必要だと痛感した。
 また、次のような稲を哀れむ象徴的な断片も、わたしの心を締め付けた。

   あらゆる辛苦の結果から
   七月稲はよく分蘖し
   豊かな秋を示していたが
   この八月のなかばのうちに
   十二の赤い朝焼けと
   湿度九十の六日を数え
   茎稈弱く徒長して
   穂も出し花もつけながら
   ついに昨日のはげしい雨に
   次から次と倒れてしまひ
   うへには雨のしぶきのなかに
   とむらふやうなつめたい霧が
   倒れた稲を被っていた…

(校本 第4巻−詩V 「春と修羅 第3集」より「和風は河谷いっぱいに吹く」、筑摩書房 昭和48年初刷)
 この筑摩書房の、賢治全集の構成が、どうなっているかを、図書館の職員に教えていただいた。童話と詩との分け方、作品の配列はどうなのか。職員は凡例が沢山あります、と言って世に発表したものと未発表のもの、使われた原稿用紙の種類によって、どれを第一とするか、など、言われてみれば、研究者というものはこのように細密なのだと改めて驚嘆してしまった。
 さらに驚いたことには、「グスコーブドリの伝記」について観ていただいているとき、自分の迂闊さ加減に仰天した。「グスコーブドリの伝記」は、最初「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝説」が元にあって、次にそれが「グスコンブドリの伝説」となり、さらに「グスコーブドリの伝記」となり、賢治の死の前年の昭和7年に「児童文学」に発表されたのだという。
 ここからがわたしの恥ずかしいことなであるが、この「ペンネンネンネンネン」と聞いて、あるコンサートを思い出した。
 夫を送ってまだ日の浅い頃、コンサートに誘ってくださった方がいた。そこではわたしがわずか一枚のCDで慰められていたことで、そのコンサートの中で、関連の曲も歌われるから、というのでおっくうながら行くことにした。わたしの興味は第二部だけであった。勿論プログラムも解説も読んでいただいたので、今日の出し物の、「ペンネンネンネンネン」が「グスコーブドリの伝記」の元であることも読んでいただいたのに、会がはじまると、ほとんど同時に朦朧状態に陥っていた。こんなことは主催者を初め、そのスタッフに対して失礼極まりないことである。けれどもその頃のわたしには、どうしても心が解けず、ただ一つのことだけにしか関心は向いていなかったのである。
 従ってもっと最近になって、全く思いがけない方から、「宮沢賢治私感と童話朗読」のDVDをいただき、それを聴いているうちに、わたしが賢治に初めて興味を抱いた童話が「水仙月の四日」であることが分かり、「グスコーブドリ」の粗筋を教えてもらい、さらに「風の又三郎」に書かれた内容が、気象学的に優れていることも教えられた。
 わたしが賢治の一連の事柄について、もっとも感動したのは、ブドリ(賢治)が子供ながら、よりよい本を読むこと、頭のなかに収めただけでなく、現実を見据えて実働していることである。
 「水仙月の四日」の雪わらしが、そっと雪の布団を掛けてやり、子供の父親が、子供を見つけやすいように工夫し、父が、息子を見つけると、しずかに引き下がる。
 「ブドリ」も飢饉を引き起こす山瀬を防ぐ手段を研究し、自ら危険なことをその身に負う。
 それにしても賢治自身、六歳、九歳、十歳のとき、さらに死の前後に早瀬(飢餓風)が吹いて、厳しい冷害にあっているという。東北地方は長い間、この災いを受け続けてきたのだ。
 もう一言付け加えさせていただきたい。わたしが「賢治の詩は漢字が難しい」と言うと、ある方が「そうとばかりは言えません。たとえば妹のとし子さんの死を詠んだ、永訣の朝は漢字が少ないです。お母さんに読んで欲しかったからだと思います。」と教えてくださった。この言葉の重さをひしひしと感じているわたしである。
                                        2009年7月29日
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