「うか」064 連載初回へ トップページへ

  わたくしごと

                      木村多恵子
 「空札(からふだ)一枚(いちまーい)、
いにしえのー、奈良の都の八重桜ー、今日九重ににほいぬるかなー」
 と、なんとも伸びやかなゆったりした読みぶりで始まる「カルタ会」は、わたしの子供の頃の冬の遊びである。昭和24`5年頃からであっただろうか。わたしがほんの少しその遊びに加われたのは、流行`はやり*Bの終わりに近い29`30年頃である。
 町内の何軒かを回り持ちの会場にして、町内の大人も子供もこぞって集まり、「小倉百人一首」の札を取り合う遊びである。
 百枚の読み札と、百枚の取り札が一セットになって箱に収められている。札一枚の大きさは、縦7.3センチ、横5.2センチ、厚さ約2ミリで、表に印刷された和紙が貼られている。
 「小倉百人一首」は、藤原定家(1162〜1241)が選んだと伝えられているが、まだ定説ではないらしい。それはともあれ、万葉集をはじめ、あらゆる勅撰集その他から、歌の名手百人を選び、それぞれの代表作一首を集めたものである。ただ、どのような意図か、「小倉百人一首」としての統一見解があるのか、わたしには解らないが、原作に手を加えられている歌が多い。
 読み札は、各一枚に、歌一首と、作者名と、その歌に相応しい絵が描かれている。
 取り札は、歌の下の句のみが、見やすいように大きめの文字で書かれている。
 百枚の取り札の中から、適宜五十枚を、向かい合って座った二人に二五枚ずつ配られる。この各自与えられた札を「持ち札`もちふだ」という。町内でのカルタ会では、大勢いるので、取り札を何組も並べる。
 与えられた持ち札に書かれている下の句を確認し、その上の句を心にしっかり記憶し、自分が取りやすいように、効率よく並べる。つまり、読み手が上の句から読み始めると同時に、如何に早く間違えずに、一枚でも多く取る工夫をする。自分の持ち札が先に無くなる方が勝者になるからである。もちろん、持ち札に無くて、相手方の領分から取ってもかまわない。それが正しい札なら、自分の持ち札を相手に一枚与えて、結果として自分の札が一枚減る。もし、相手のものに手を出して間違えていたら、「お手つき」といって、反対に相手の持ち札を一枚自分の持ち札に加えなければならない。
 一人の読み手が、おおらかに格調高く、「空札一枚」の声で、読み手の好みの歌を読み上げる。(これは遊び、勝負?がはじまる準備で、ここでは誰もが歌の一首を聴いているだけである)。本格的に読まれる第一首の上の句の第一声を、固唾をのんで静まり、聞き漏らすまい、自分の持ち札にあるものが読まれるか、ドキドキしながら待つ。
 たとえば、読み手が、

  村雨の露もまだ干`ひ*Bぬ槙の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

の「む」あるいは「むら」と第一声を上げれば、直ちにあちこちから「はあーい」と声が挙がり、畳が叩かれる。(畳に札を並べてあるので、札を取る音が、畳を叩くように聞こえる)。後はみんな静かに読み手の声に聞き入る。そして、下の句の「霧立ちのぼる」のあたりから、次に出る歌を緊張して待つ。
 読み手が「あさぼらけ」と読み始めたら、みんなは、次の「ありあけ」か、「うじの」が出るのを待たなければならない。それは、

  朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪
  朝ぼらけ宇治の川霧絶え絶えに現れわたる瀬瀬(せぜ)の網代気(あじろぎ)

の二首があるからである。
 最初に揚げた、「む」だけで取るのは、「む」ではじまる歌が、寂蓮法師の「村雨の露もまだ干ぬ槙の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ」の一首しか無いので、迷わず、取り札の下の句の「霧立ち上る秋の夕暮れ」を取ればよいのである。
 この最初の一音を聴くだけで、取り札が決まるものが、俗に言う「むすめふさほせ」である。

  住の江の岸に夜波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ
  めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半(よわ)の月かな
  吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ
  寂しさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ
  ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる
  瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ

(参照、峯村文仁(みねむらふみと)著、『百人一首』、1979年、筑摩書房)とある。ちなみに「あ札」は17枚あるので、「あ札」を空札に選ぶ読み手が多かったように思う。
 父をはじめ、兄や姉は当然毎夜のように、近所の家々に行ってしまい、わたしは何時も母と留守番であるが、我が家で行うときは、わたしも持ち札を分けてもらって、自分の前に、とくとくとして、一番左は「めぐりあひて」、次が「春過ぎて」、その次は「淡路島」、「ほととぎす」と、自分が覚えた歌だけを注文して、好きなように並べて、みなと一緒にやっている気になっていた。
 今考えると、自分でも笑ってしまうが、わたしの領域には誰も入って来ないのだから、何の心配もなく、いや、ときとして、間違えていたとしても困りはしない。でも、わたしをかわいがってくれた、近所のおばさんはわたしが「はい」と取るたびに、きちんと「よく取れた」とか、「あっ間違えちゃった」とか言って、自分も本当のカルタ会の仲間で試合をしながら、わたしの面倒も見てくれていたのである。
 我が家でカルタ会をやれるのは、一冬に一度か二度しかないが、毎日兄や姉や近所のおばさんに、これらの歌をそらんじるまで教えてもらっていた。
 高校生になってから、『万葉集』を読んだとき、知っている歌が出てきたが、部分的に違うところがあることに気付き違和感をさえ感じた。しかし、教師の説明や、その後の細々ながらの学びの中で、古文書の写本の問題や、「百人一首」の成立課程も諸説あることなど、少しずつ解ってくると、これもおもしろいものだと思うようになった。なにしろ宗祇がまとめたという説もあったという。
 なにより、もっとおかしいのは、このカルタ遊びがわたしの周辺だけで行われているのだとばかり思っていた愚かさである。それどころか、数百年前から我が国の正月遊びとして親しまれ、太平洋戦争の間中断されていたとは、当然子供の頃は知らなかった。更にカルタ遊びの原典は平安時代の「貝合わせ」だと知ったときの、古人(いにしえびと)の、なんとも優雅な、自然との近しい生活感が心をほころばす。たとえば蜆やアサリや蛤の模様は、二つと同じものがなく、中身を出して一対をバラバラにしたものを、何個も混ぜ合わせても、模様を見れば元通りの一つの貝になるという。
 これが「貝合わせ遊び」のはじまりで、だんだん貝の中側に布を貼ったり、絵を描いたりしたようである。むろんこんな優雅な遊びをしていられたのは、ごく限られた階層であろうが、そのあたりの貝を拾い集めて、なんの加工もせずに、誰もが遊べたことも充分考えられる。しかし、貝は割れて、けがをするなど不具合が生じたことから、だんだん廃れていったらしい。そのうちに貝から、紙に書かれた「一首の歌」の上の句と下の句を、わざと切り離して、それを元の一首に戻す遊びに変化したのだという。
 遊びとは、このように細やかな観察と工夫の中から生まれるのだと思う。

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