「うか」065  トップページへ


  一 言
                    
岡田健嗣

   年賀葉書

 一般にはあまり知られていないことかもしれないが、またどれほど前から発行されていたのか覚えていないが、年賀葉書には、表面(宛名面)の左下に、小さな丸い切れ込みの入ったものがある。これは視覚障害者向けの配慮で、指で触れて、葉書の表・裏、上・下が分かるのである。視覚障害の身である私にとって、これは大変ありがたい配慮である。これによってかなりの部分、独力で宛名書きができるからである。
 私たちはかつてカナタイプライター、現在ではパソコンを利用して、年賀状を出している。
 私は毎年十一月一日になると、最寄りの向島郵便局に電話をして、六百枚ほどの葉書を購入する。注文して数日で、局員の方が届けて下さる。このような宅配のサービスを受けるようになって、既に十年は越えたと記憶する。
 ところが今年は驚かされた。
 「左下に切れ込みの入った葉書が欲しい」と申し込んだのだが、その局には「割り当てがない」という返事が返ってきたのである。
 そこで知り合いの何人かに聞いてみたのだが、どうやら私と同じ返事をもらったようなのである。というより、切れ込みの入った葉書を手に入れることのできた者は皆無だった。私は仕事場の近くの向島郵便局を利用しているのだが、東京ばかりでなく、地方の知人も手に入らなかったと言っていた。
 真相を知りたいと思い、郵政会社に電話をかけた。
 電話に出て下さった局員は、切れ込みの入った年賀葉書は例年通りの枚数発行していると言われて、私どもがそれを購入できなかった実態をご存じなかった。「向島郵便局にも割り当てはあるはずだ、手に入らないはずはない」と言われた。そこでもう一度向島郵便局に確認の電話をしてみた。答えは同じ「割り当てがなかったので届けられなかった」と言う。割り当てがないという答えの中に、こんなことも言っておられた。「東京の中央の郵便局にも千枚しかないと聞いたので、こちらにはとても回って来そうにないと判断した」と。その話を再度郵政会社の係員にお伝えして、「どうしてこのよなことになったか解明して欲しい、その答えを、マスコミを通して報道して欲しい」とお願いした。
 今日(一二/〇八)現在、それらしい報道はないようである。
 「点字毎日」一二月二日号に、「切れ込みの入った年賀葉書は四〇万枚」という記事が載った。これによると、「このような葉書は前年と同じ四〇万枚販売された。五年前の七分の一。このままではニーズがないということで、作成されなくなるかもしれないとの声もある」というのである。
 例年通り購入しようとした私たちが手に入れられなかったことには、全く触れられていなかった。
 さてどうなっているのだろうか?私に想像できる経緯を幾つか挙げてみたい。
 ・郵政会社の発表通り、切れ込みの入った葉書は四〇万枚作られ、販売された。ところが今年は、注文が例年より遥かに多く、全体のニーズに応じられなかったため、私たちの手には届かなかった。
 ・郵政会社の発表通り、切れ込みの入った葉書は四〇万枚作られた。しかし一般に販売される前に、何者かによって買い占められて、私たちの手には届かなかった。
 ・発表では、昨年は四〇万枚発行されていることになっているが、実際は追加生産をした。今年は枚数を厳格に守ったために、ニーズを満たせなかった。
 ・郵政会社の発表は虚偽で、実際には、今年は切れ込みの入った年賀葉書は作られなかった。帳簿上四〇万枚を製造し、売れ残ったとして架空の処分をした。それによって製造コストを削減し、今後もニーズが見込めないと判断できるということになった。
 果たして真相は何であろうか?
 * 葉書の切り込みのような視覚障害者向けのデザインのサービスを、一般に「ユニバーサルデザイン」と呼んでいる。しかし本来の「ユニバーサルデザイン」の概念は、誰にも有効であること、誰もが知っていて承認されていることが挙げられる。つまりこの葉書の切り込みは、現状では視覚障害者向けであって、ほとんどの人には知られていないことから、「ユニバーサルデザイン」と呼ぶには不十分との認識が、郵政会社にはあるようだ。

    代 筆
 「口からうんちが出るように手術してください」(小島直子著、コモンズ、二〇〇〇/五)という本がある。極めて刺激的な書名である。
 著者の小島さんは、幼少時からの肢体不自由で、車椅子生活を送っておられる。日常生活の多くを、お母さまの介助によって営まれて来た。
 ところがご自身の成長とともに、お母さまもお歳を召して来られる。とうとう小島さんのお世話ができなくなってしまった。
 小島さんはそれまで、お母さまから受けるお世話しか経験して来られなかった。極端に言えば、お世話をする・されるという捉え方すらせずに済まされるようなお世話であった。実の母親の愛情の籠もったお世話は、正に空気や水のように、小島さんを育んで来られたのである。
 しかしもうそうは行かない。ヘルパーさんという他人の専門家のお世話に頼らなければならなくなった。
 私たち視覚障害者も、直面する情況は違うが、同様の境遇にあると言える。社会生活の多くは、身体の移動と書類の記入によって決定される。視覚障害者の社会的障害とは、この身体の移動と、ものの読み書き、とりわけ書類の解読と記入にあると言っても過言ではない。役所や金融機関、病院などでは、書類への記入や署名が、常に求められる。母が元気だったころ私は、そんなとき何時も母と一緒にいた。そして記入や署名の必要のあるときは、母に代行してもらっていたのである。母は最も信頼のおける近親者であって、本人同様と扱われることを、自他ともに認めていた。このような代筆を咎める人もなかった。
 このことは私一人に限ったことではなく、ほとんどの障害者は同様の境遇に置かれていると考えてよいと思う。つまり多くの障害者は、母親かあるいはそれに代わる近親者の介助を受けて、介助者の老齢化に伴って起きる介助不可能という変化まで、その介助を受け続けるのである。その介助者の多くが母親であることを考えると、当事者は、言わば一生のほとんどを子どもとして過ごしていることになる。母親が介助できなくなった途端に、一人前の人間らしくしなければならなくなるのである。しかも当事者も、既に老境一歩手前に差しかかっているのである。
 私は二年と少し前、障害者自立支援法という法律に則った、障害者の外出支援の事業を立ち上げた。対象となる障害者は、全身障害、視覚障害、知的障害を負う人たちである。それまでの私は、サービスを受ける立場であったが、それからはサービスを提供する立場となったのである。
 私もいよいよ母に頼れなくなって来た。そうするとガイドヘルパーの皆さんのお世話を頼らなければならない。しかし書類の記入や署名という行為は、大変責任の重いものであるはずだ。できればガイドヘルパーさんたちの負担にならないようにしたいと日頃から考えて来た。ケースは多様だろう。何か大枠を提示するところから始めてはと思う。
 私個人の考えを言えば、役所や金融機関では、担当の職員に代筆を依頼するのがよい。その考え方を実行する積もりで、今回三つの金融機関で、代筆を頼んでみた。予め電話予約を入れておいたところ、担当の職員の他に、もう一人加わったが、難しいことは言わずにお引き受け下さった。現状では、電話予約は欠くべからざるものであるが、近い将来には、この方法がスタンダードとなるよう願っている。
 ある金融機関で、一つの体験をした。職員に代筆をお願いすると、「成年後見人を立てて、その人にお願いするように」と言われたのである。
 「成年後見人」とは、知的障害者や認知症の高齢者を対象とした制度で、公的に委嘱されて財産の保全・管理、その他の法的手続きを、本人に代わって行う人である。
 一般社会が障害者をどう見ているかの一端を知った思いがした。

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