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    日本の公文書から見た 「尖閣諸島」無主地先占論

                       村田 忠禧(横浜国立大学名誉教授)

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 以下は、元横浜国立大学教授の村田忠禧先生が、昨年11月26日に催されましたセミナーのレジュメです。国際関係が大きな変化を見せている今日、世界の一つの見方をご提出になっておられます。私たちは、多くの観点を所有する必要があります。その意味で、大変貴重な資料の一つと考えます。
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 日中間の領土問題(尖閣諸島・釣魚島)の争いは1960年代末に顕在化した。72年5月の沖縄返還に「尖閣諸島」は含まれている。しかし台湾、中国いずれも領有権を主張し、日本の主張と対立する。
 米国政府は日本に返還したのは沖縄県の「施政権」であって「領有権」の問題は関係国間で平和的に解決すべき、との立場。米国らしい狡猾さではあるが、歴史事実に合致している。
 米国は1945年6月に沖縄を軍事占領。その時点で「尖閣諸島」は沖縄県に含まれていた。それを日本に返したのだ。問題は「尖閣諸島」がどのようにして沖縄県に含まれたのかにある。

 国際法先例彙輯による分類

 1933年10月、外務省条約局は機密文書として『国際法先例彙輯』を編纂・内部発行した。
 第一輯「国家併合」の事例に琉球と韓国、第二輯「島嶼先占」の事例に久米赤島、久場島、魚釣島、第三輯は不明、第四輯「領土割譲」として台湾及び澎湖列島の事例を紹介している。
 1879年4月「琉球処分」で琉球王国は消滅、日本に併合され沖縄県になるが「尖閣」は含まれていない。
 1895年4月の「下関条約」により台湾及び澎湖列島は日本に割譲されたが、1945年8月のポツダム宣言受諾により、中国に返還されることになった。
 尖閣諸島について日本政府の見解は「無主地」であることを確認のうえ1895年1月の閣議決定で沖縄県に編入したとする「無主地先占論」を主張。問題はそれが成り立つのかである。

 1885年9〜10月の経緯(「太政官上申案」の廃案)

 9月22日 久米赤島外二島取調の儀に付き上申(西村沖縄県令) これらの島嶼は清国に属するおそれがあるとして山県内務卿の国標建設という内命に懸念を表明する。
 10月9日 山県有朋内務卿より井上馨外務卿宛照会 西村県令の懸念表明を無視し、国標建設を求める「太政官上申案」を作成し、外務卿に同意を求める。
 10月21日 井上馨外務卿より山県有朋内務卿宛親展 外務卿は清国の疑惑を招くおそれがあるとして国標建設に不同意。よって「太政官上申案」は廃案になる。ただし沖縄県に内命停止の指令を伝えない。

 1885年11月〜12月の経緯(目下、建設を要せずとの指示)

 10月30日に出雲丸の入表島から那覇への帰路途中、魚釣島に上陸し実地調査をする。久場島は目視のみ、久米赤島には立ち寄ることすらしない。これが1895年までの日本側が行った唯一の調査。
 11月2日に林鶴松船長が、11月4日に石沢兵吾五等属が魚釣島外二島巡視取調概略を森長義県令代理に提出する。当時、西村県令は上京中で森大書記官が県令代理。
 11月5日に森県令代理は西村県令名で魚釣島外二島実施取調の義に付上申を書き、9月22日の西村県令の上申を「自己批判」。西村県令は受理後、これを破棄し、内務省に提出しない(しかし副本は那覇に残る)。
 11月24日 上京中の西村県令は山県有朋と井上馨に書面伺を出す。国標建設は清国と関係するおそれあり、不都合を生じてはいけないので、至急御指揮いただきたい(実質は撤回を求める)と要請。
 11月30日 山県有朋より井上馨宛照会 「書面伺之趣、目下建設を要せざる儀と可心得事」との沖縄県への「指令案」を提起。12月4日に井上外務卿は外務省も同意見であることを表明。
 12月5日 山県内務卿は三条実美太政大臣に「国標建設の儀は清国に交渉し、彼是都合も有之候に付、目下見合わせ候方、可然と相考候」と国標建設を見合わせる方針を内申する。12月8日に沖縄県への指令として「書面伺之趣、目下建設を要せざる儀と可心得事」が内閣で了承され、正式決定となる。
 すなわち85年10月には清国の疑惑を招くことを恐れた外務卿が不同意のため国標建設を求める太政官上申案が廃案に、12月には沖縄県令の説得が功を奏し、内務・外務は見解は一致させ、国標建設を見合わせる指令が発せられた。理由はこれらの島嶼が無主地ではなく、清国に属することを理解したからである。
 しかし「目下のところ建設を要しない」という曖昧な表現で幕引きを図ったやり方は将来に禍根を残すことになる。
 那覇に保存されていた森大書記官の僣称上申を西村県令の見解と思い込んだ丸岡莞爾県知事は90年1月13日「無人島久場島魚釣島之義に付伺」を提出する。93年11月2日にも奈良原繁県知事が「久場島魚釣島へ本県所轄標杭建設之義に付上申」を提出する。いずれの上申も久場島・魚釣島を沖縄県管轄下に置かせてほしいとの要求であるが、内務省は認めない。どうしてか。85年12月8日の沖縄県への指令は有効で、内務省は指令を覆すに足る事実が存在しないことを知っていたからである。

 戦勝に乗じた火事場泥棒的編入

 94年12月になり内務省は棚上げにしてきた93年11月の奈良原県知事からの標杭建設上申を閣議に諮る動きに出る。そうする根拠は「其当時〔85年12月〕と今日とは大に事情を異に致候に付」というもの。94年7月末からの日清戦争で日本は圧倒的勝利を収め、今は戦利品として台湾等を奪い取ることが最大の関心事になっていた。小さな無人島の沖縄県編入について清国の反応を気にする必要などない。ただし清国や第三国に知られないようこっそりやることが大事である。
「別紙内務大臣請議、沖縄県下八重山群島の北西に位する久場島、魚釣島と称する無人島へ向け、近来漁業等を試むるもの有之為め、取締を要するに付ては、同島の儀は沖縄県の所轄と認むるを以て、標杭建設の儀、仝県知事上申の通、許可すべしとの件は、別に差支も無之に付、請議の通にて然るべし」
 これが1895年1月14日に閣議に出され、1月21日に採択された文言である。編入するにあたってのまともな理由付けはどこにも見当たらない。「別に差し支えなし」とは公表できる理由と言えない。しかも注意すべきは久米赤島(赤尾嶼)への言及がない。後にそれに気づいた沖縄県は「沖縄県管内全図」(1906年)では黒く隠してごまかす。しかし1919年末に福建漁民の遭難救助事件が発生し隠蔽しきれなくなり20年2月に久米赤島としてではなく「大正島」として編入する。釣魚嶼も魚釣島、久場島、和平島、和洋島といろいろ名前を変えている。いずれも窃取の事実を中国側に気づかれないようにするための小細工である。
 これらの事実が明らかにする通り、無主地先占論は成り立たない。

 21世紀に生きるものの知恵を発揮しよう

 日中双方とも「固有の領土」という呪縛から自由になろう。
 まずは「領土問題」の存在を認めるべき。見解の相違を恐れる必要はない。相手の主張にも真面目に耳を傾け、信頼し尊重する精神があれば溝は次第に埋まる。平和的・理性的に問題を解決しようとする精神を発揚し堅持しよう。
 過去を感情に頼って語るのではなく、事実に基づいて真理を探究する精神が必要である。事実を尊重する誠実さがあれば、事実の共有化は可能。事実の共有化が実現できれば、認識も次第に共有化していく。
 しかし現実世界は多元的・重層的で、共有化すべき事実は無限に存在する。真偽の識別や軽重の取捨選択の作業が必要だ。この作業を国家の枠を越えて共同で行い、その成果を人類全体に公開していく。それが実現できれば、過去は未来を切り開くための貴重な財産として生まれ変わるであろう。
 日中間の「領土問題」を、双方にとって受け入れ可能で、かつ互恵的な解決策とそれを現実化するための方途を共同で探索し、開拓していこう。領有権は棚上げにし、平和・友好・協力・共同発展の象徴として共同管理を実現するよう、双方の各界各層が知恵を出し合い、勇気を持って実践していくべきではないか。
                           2016年11月26日 アジア記者クラブ
                           主催のシンポジウムでの報告用配布資料

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