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    史料徹底検証 尖閣領有 あとがき
                 
    村田 忠禧(むらた ただよし)

[この一月に、横浜国立大学名誉教授の村田忠禧先生が、花伝社から、『史料徹底検証 尖閣領有』を上梓されました。左はその後書きです。一般のメディアからは伝わらない情報に基づいた議論が展開されております。是非一冊手にお取り下さい。 岡田]


 2013年6月に『日中領土問題の起源 公文書が語る不都合な真実』を上梓した後、日本の「尖閣諸島」領有後に発生した問題をまとめる積もりでいたが、途中から1885年から1895年までの日本の領有経緯に的を絞ったものに変更した。その理由は「はじめに」の部分で書いたので、ここでは繰り返さない。内容的に重複する部分があることは事実だが、これまで見逃していた事実の発見、それに基づく新解釈が存在しているし、日本の領有過程をいっそう明確にすることができたと思っている。
 特に注目すべきは1885年に山県有朋内務卿が最初に出した内命は、沖縄本島の東方に位置する無人島・大東島への取調ではなく、沖縄県近海無人島の取調であった。したがって西村捨三沖縄県令は早い段階から沖縄本島の西方、清国福州との間に散在する無人島への取調の内命があることを意識していた。この事実に気づいたことで、それまで疑問に思っていたことが面白いように解けていった。第3章以降の展開には新味がある、と筆者は自負している。しかしこの点は読者のみなさんの判定を待つべきであろう。巻末に収めた付録史料は貴重である。日本の尖閣領有過程を知るためだけでなく、当時の日本の沖縄政策を考えるうえでも役立つであろう。西村捨三口述の『御祭草紙』は沖縄関係箇所だけを掲載したが、他の部分も読むと実に面白い。この人物は研究に値する。日本近代史の専門家による本格的な研究を期待している。
 前著の出版からおよそ1年半が過ぎた。この1年半、日中関係はきわめて憂慮すべき状態が続いてきた。その原因は安倍首相の靖国参拝に代表される「歴史認識問題」と尖閣諸島・釣魚島をめぐる「領土問題」であるとされている。日韓関係もきわめて不正常で、こちらは「従軍慰安婦問題」が主な原因とされている。いずれも一本の太い糸で繋がっている。それは過去とどう向き合い、未来をどう築いていくのか、ということである。
 中国は2014年9月3日に「中国人民抗日戦争勝利記念日」69周年式典を行った。今年は70周年。日本が「尖閣諸島」(当時、そのような呼称はなかったが)をこっそりと「領有」してから120周年でもある。いずれも過去とどう向き合い、未来をどのように築いていくのかを考えるいい材料である。習近平総書記が9月3日の69周年記念座談会で行った講話はインターネットで公開され、筆者もそれを読んだ。翌9月4日に『人民日報』東京支社の記者からメールが届き、今夜10時までに習近平講話についての見解を400字程度で書いてほしい、との依頼を受けた。急な話で、400字程度という短文を、しかもその日の晩10時までにまとめるのは大変である。断ろうと思ったが、中国が9月3日を抗日戦争勝利記念日としていることに筆者は異論がある。この機会にそれを伝えたいと思い、以下の文章を書いた。『人民日報』側からすれば「的外れ」の内容なので「ボツ」になるであろうことは予期していた。ただ一つの「異見」として伝えたかっただけである。


   過去を重んじるのは新しい未来を創るため

 われわれは同じ地球に生きているが、国家という枠からまだ自由ではない。政治、歴史、文化、環境が異なるだけでなく、生活水準、教育程度も各人各様である。見解の相違、対立が発生するのは自然なことである。同一の物体でも角度によって見え方は異なるし、ましてや顕微鏡、望遠鏡を通せば、まるで別世界に見える。認識の一致を性急に求めてはならない。
 過去を感情に頼って語ってはならず、事実に基づく客観的認識が必要である。事実を尊重する理知的誠実さがあれば、事実の共有化は実現できる。事実の共有化ができれば、認識も次第に共有化していく。しかし現実世界は多元・重層的で、共有化すべき事実は無限に存在する。真偽の識別や軽重の取捨選択が必要だ。この作業を国家の枠を越えて共同で行い、成果を人類全体に公開していくことが望ましい。それが実現できれば、過去は未来を切り開くための貴重な財産として生まれ変わるであろう。

 筆者が9月3日を抗日戦争勝利記念日とすることに異論を唱える理由は以下の通り。日本では昭和天皇がラジオ放送を通じて国民に戦争の終結を伝えた8月15日を「終戦(敗戦)」記念日としている。中国が9月3日を抗日戦争勝利の日とするのは、中華民国政府がその日を休日にしたことに由来する。しかし抗日戦争勝利の日、すなわち大日本帝国敗北の日は、東京湾に碇泊したミズーリ号上で、大日本帝国代表が連合国側にたいし降伏文書に署名した9月2日とするのが常識である。8月15日にしろ9月3日にしろ、自国民向けであるという点では共通している。こうした思考方法、行動様式のままでは認識の共有化は不可能である。
 「戦争を知らない世代」が大半を占める時代になった、とよく言われる。筆者も戦後生まれの一人。筆者のような世代の人間は、ごく普通の労働者、農民が軍国主義「教育」の結果、平気で人殺しをする「鬼」となって多くの罪を犯したみずからの体験を、涙ながらに告白して戦争の罪悪、平和の尊さを訴える元兵士に接することができた。人間としての魂を取り戻した彼らの勇気ある発言から、戦争体験のない世代であっても、戦争とは何かを真剣に考えた。
 しかし歳月の経過とともに戦争の「語り部」は次第に舞台から消えていく。「戦争を知らない世代」が大半になり、若者はアニメやゲームで仮想の「戦争」を楽しんでいる。時の流れとともに戦争の傷痕が薄らいでいくのは現実であり、止めようがない。遠ざかる過去を見渡すには、より高い地平に立つ必要がある。感性に頼った認識だけでは断片的、部分的なものに終わる恐れがある。理性に基づく認識になってこそ、認識は普遍性を持つことができる。しかし理性に基づく認識には事実の裏付けが不可欠である。事実を尊重する精神があれば、冷静で客観的にものごとを見ることができるようになる。戦争と平和の問題を人類共通の課題とするために、国境や民族といった垣根を可能な限り低くして、共同して、多角的、多面的、総合的に考える環境を作る必要がある。そのためには自国第一の視点から解放される必要がある。そのようなことを伝えたかったのが上述の拙文である。
 本書の原稿をほぼ開き終えた10月26日、神奈川大学で開催された日本現代中国学会全国学術大会で「日本の『尖閣諸島』領有にいたる経緯を検証する」と題する報告を行った。4月17日に台北の中央研究院近代史研究所主催の「多元視野下的釣魚台問題新論」国際シンポジウムで行った「日本の『尖閣』領有過程の検証」という報告をベースにしたもので、本書の骨格部分でもある。台湾でのシンポジウムは先方から要請されての報告だったが、日本での報告は自由論題報告に応募することで実現したものである。日本の学会ではこの問題を学術問題として正面から議論するのを避ける傾向が強いことに不満と不安を覚えたからに他ならない。幸い、多くの会員が報告を聞いてくださり、有意義な意見交換ができた。
そのあと、原稿がほぼ書き終えたので11月4日から15日まで中国訪問を行った。北京大学歴史学系の王暁秋先生ご夫妻と5月に沖縄を訪れたことがあり、王先生から北京大学で報告をするよう求められていたので、約束を果たすべく、まずは北京を訪れ、北京大学と中国国際問題研究院でそれぞれ報告を行った。報告は10月の現代中国学会での報告用に使ったPPTを用い、拙い中国語で行った。北京大学歴史学系では収容人員70名程度の教室だったが、100名を越す聴衆が参加してくれた。講座が夜開かれたことも影響したのであろう。学外からの参加者も多く、活発な質疑応答が展開され、真剣かつ愉快な交流ができた。
10日に武漢に行く予定であったが、APEC首脳会議開催の影響で北京市は7日から臨時休日。北京にいても交流ができない。幸いなことに大連理工大学、さらには東北大学からお誘いがあったので、7日に飛行機で大連入りし、その日の午後、大連理工大学の日本語科の学生を対象に講演を行い、翌日は高速鉄道で瀋陽まで行き、東北大学の日本語科の学生を対象に講演を行った。両校とも日本語による報告であった。9日に大連に戻り、10日に武漢に飛び、武漢大学で一日目は日中領土問題について、二日目は胡徳坤・武漢大学辺界与海洋研究院長と「日中関係の過去、現在、未来」をテーマにした一種の「トークショー」。1946年生まれの二人がそれぞれの歩んできた道と今後の日中関係についての思いを語った。そのあと武漢からおよそ250km西にある宜昌市五峰土家族自治県へ個人旅行に出かけ、少数民族・土家族の農家を訪れ、お手製の地元料理を御馳走になった。食後、静かな山村にあるその農家の前庭で椅子に腰掛けしばしの間、日なたボッコをし、お蔭で旅の疲れも癒された。
 こうして中国各地をあわただしく回って交流をしていた折、北京ではAPEC首脳会議を直前に控えた11月7日、日中両国政府の外交当局者が「日中関係の改善に向けた話合い」という4項目の合意文書を交わした。以下に示す左側は日本の外務省が公表したもの、右側の中国語は新華社が公表している内容である。

 日中関係の改善に向け,これまで両国政府間で静かな話し合いを続けてきたが,今般,以下の諸点につき意見の一致をみた。

1 双方は,日中間の四つの基本文書の諸原則と精神を遵守し,日中の戦略的互恵関係を引き続き発展させていくことを確認した。
2 双方は,歴史を直視し,未来に向かうという精神に従い,両国関係に影響する政治的困難を克服することで若干の認識の一致をみた。
3 双方は,尖閣諸島等東シナ海の海域において近年緊張状態が生じていることについて異なる見解を有していると認識し,対話と協議を通じて,情勢の悪化を防ぐとともに,危機管理メカニズムを構築し,不測の事態の発生を回避することで意見の一致をみた。
4 双方は,様々な多国間・二国間のチャンネルを活用して,政治・外交・安保対話を徐々に再開し,政治的相互信頼関係の構築に努めることにつき意見の一致をみた。

 この四項目の合意文書が交わされたことで、11月10日の日中首脳会談は実現した。わずか25分間という短時間のもので、別に新味があったわけではない。ドアは常に開けている、と無条件の対話を主張してきた安倍首相が、一転して4項目の合意文書に応じたのは、追い詰められた結果であることは間違いない。今後、日中両国政府がこの合意を尊重し、遵守していくよう、しっかりと見守っていかなければならない。12月30日に新華社が発表した2014年の国際十大ニュースの一つに「中日が関係改善を図るうえの合意に達した」ことが含まれている。そうあってほしいという願いを込めた評価といえよう。世界は日中関係、日韓関係が改善することを望んでいる。世界の重心は中国を核とするアジアに移りつつある。そのなかで中国、韓国という大切な近隣との友好関係を築き、発展させることができなければ、日本は時代の潮流から取り残され、ますます小さな国になってしまう。北京APECにおける安倍首相の存在感の薄さはそれを予感させるものである。
 神奈川県日中友好協会経済文化交流部会が12月13日に実施した経済文化講座では『中国国境 熱戦の跡を歩く』(岩波書店、岩波現代全書、2014年)を出版した石井明東京大学名誉教授に講演をお願いした。同書のサワリともいうべき点を紹介していただいたが、1978年8月の日中平和友好条約締結交渉の会談記録のうち、尖閣諸島問題に関する部分のみ、会談記録が公開されていないとのこと。しかし園田直・外相や杉本信行・元上海総領事の記録等から、両国間で尖閣・釣魚島問題が話されたことは間違いなく、会談記録が存在しないはずがない。中国側当事者である張香山の回想によれば、ケ小平が先にこの問題に触れたとあり、日本側当事者は日本が先に提起したという。「日中双方の記録を比較し、どちらが先に尖閣諸島問題に言及したかを含め、両者の間で実際にどのような共通の了解ができたのかを知ることは尖閣諸島問題を検討するうえで、大きな意味があります」(石井著241−2頁)として会談記録の開示を請求しても、外務省は「存在しない」の一点張り。開示を拒む外務省の不当な対応を、静かな口調ながらはっきりと指摘する氏の報告は印象的であった。
 2014年が終わろうとする12月31日、これに関連するビッグニュースがロンドンから届いた。NHKはニュースでイギリス公文書館の記録画像を映しながら以下のように報道した。

「尖閣は現状維持で合意」機密解除の英記録
12月31日 14時29分 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141231/k10014374941000.html

 沖縄県の尖閣諸島を巡り、昭和57〔1982〕年、当時の鈴木善幸総理大臣がイギリスのサッチャー首相と会談した際、「中国との間で現状を維持することで合意し、問題は実質的に棚上げされたとサッチャー首相に伝えた」とイギリス側が記録していたことが明らかになりました。

 これは昭和57〔1982〕年9月に当時の鈴木善幸総理大臣が来日したサッチャー首相と会談した際の内容をイギリス政府が記録したもので30日、機密解除されました。
それによりますと、鈴木総理大臣は沖縄県の尖閣諸島について、みずからが中国の当時の最高実力者ケ小平氏と会談した経験を紹介し、「日中両政府は大きな共通の利益に基づいて協力し、詳細についての違いはひとまず触れないことで一致したと伝えた」としています。
 そして、記録は「鈴木総理大臣は、その結果、問題を具体的に取り上げることなく現状を維持することで合意し、実質的に棚上げされたとサッチャー首相に伝えた」としています。
 当時、サッチャー首相はイギリス領だった香港の将来の統治の在り方について中国側と本格的な話し合いに臨もうとしており、鈴木総理大臣は、ケ小平氏との直接対話を勧めたということです。
 日本政府は尖閣諸島に関して、わが国固有の領土であり、解決すべき領有権問題は存在せず、中国との間で「棚上げ」や「現状維持」で合意した事実もないという立場を一貫して示しています。

 外務省幹部「『棚上げ』合意した事実ない」

 これについて外務省幹部はNHKの取材に対し、「鈴木元総理大臣の発言は確認できていないが、尖閣諸島を巡って中国側と『棚上げ』することで合意したという事実はない。尖閣諸島は、歴史的にも国際法上もわが国固有の領土であるという日本政府の立場に変わりはない」としています。


 NHKの取材を受けた外務省幹部は「鈴木元総理大臣の発言は確認できていない」と答えているが、外務省外交史料館書庫には「サッチャー英国首相夫妻訪日(公賓)」という件名で欧州局西欧課が作成した2冊の簿冊が保存されている。その管理番号は2014-0824と2014-0825である。事実関係を確認しようと思えば外務省幹部ならすぐにできる。しかし彼はそれを怠り「尖閣諸島を巡って中国側と『棚上げ』することで合意したという事実はない。尖閣諸島は、歴史的にも国際法上もわが国固有の領土であるという日本政府の立場に変わりはない」とお決まりの回答でその場をしのいでいる。鈴木元首相が日本政府の立場に違反する内容をサッチャー首相に伝えたとでもいうのだろうか。外務省幹部の不誠実な対応は批判されてしかるべきである。そのような発言を、公正さを装って報道するNHKの姿勢も問題である。筆者は1月5日に外務省外交史料館にこの件に関する日本側記録を閲覧することについての問い合わせをした。利用制限区分が「要審査」となっているからである。すると「個人情報」やら「警備情報」が含まれる恐れがあり、しかも案件が非常に多いため、審査に10カ月も時間を要するとのこと。公賓として日本を訪れたイギリス首相との日本の首相の会談は公的活動であり、公開すべきものであるし、警備情報などには関心がない。イギリス政府が公開した記録と日本政府の記録とを比較したいのだ、と説明しても頑として受け付けない。いくら話しても埒が明かない。日本の情報公開は実に問題 が多い、ということをあらためて実感した。
同じニュース報道でも共同通信ロンドン発半沢隆実の「尖閣『現状維持の合意』 82年日英首脳会談 鈴木首相が明かす」という記事のほうが問題点を的確にとらえている。筆者が見た新聞のうちでは『琉球新報』12月31日がもっとも詳細に報道している。
共同通信が伝える「尖閣諸島問題に関する鈴木善幸首相発言」*1982年9月20日の日英首脳会談の記録中(原文は英語)は以下の通り。(『琉球新報』2面解説より

 鈴木氏はサッチャー首相に対し、ケ小平氏と一対一で率直な交渉をすることがいいだろうと助言した。
 尖閣諸島の領有権をめぐる論争で、鈴木氏は特にケ氏が協力的であるとの認識を持った。(鈴木氏によると)ケ氏は実際に、重要なのは(日中両政府が)共通の問題に集中し、小さな差異は脇に置くことだと述べ、尖閣諸島の将来は未来の世代の決定に委ねることができるとの考えを示した。これ以降、中国側は尖閣問題に言及することはなかった。
サッチャー氏にケ氏との直接交渉を勧めた鈴木氏の助言は、論争となっている尖閣諸島について鈴木氏自身がケ氏と直接交渉した経験に基づいている。その結果、鈴木氏は(ケ氏と)、日中両国政府は大きな共通利益に基づいて協力すべきで、詳細に関する差異は脇に置くとの合意に到達した。(鈴木氏によると)その結果、(尖閣の)問題を明示的に示すことなしに現状を維持することで合意し、問題は事実上、棚上げされた。

 共同通信は専門家の解説として矢吹晋・横浜市立大学名誉教授の話を紹介している。

 外国首脳にまで尖閣諸島をめぐる問題を『棚上げした』との認識を首相自身が伝えているのは、日中関係において『棚上げ』の存在が当時、常識だったことを裏付けている。ケ小平氏が1978年に日本で記者会見し、尖閣について日中間で触れないことで合意したと明らかにした際に、日本は特に反論しておらず、異論がなかったと国際的に受け止められても仕方がない。日本政府が現在『棚上げはなかった』などと主張しているのは無理がある。日本政府は事実を認めた上で、日中関係の改善を図るべきだ。

 「日中間に領土問題は存在しない」「棚上げはなかった」とする主張は完全に成り立たない。この島の問題について、日中両国政府は異なる見解を有しているという点についてはすでに昨年11月7日に合意しているではないか。この合意をきちんと守ることが双方の信頼関係構築の第一歩である。見解が異なる場合、己の見解を主張するだけでは言い合いに終わってしまい、問題は解決しない。双方が相手の主張にきちんと耳を傾け、その主張に正しいところがあれば受け入れ、正しくないと判断するのなら根拠を示して反論をすればよい。そのような対話の繰り返しで相互理解は深まっていく。大切なことは事実を重視し、道理に基づき、かつ冷静な対話を実現することである。そのような真摯な対話を繰り返し積み重ねていけば、双方の信頼関係は構築されていく。
残念ながら政府間でそのような関係が早急に実現するとはとても思えない。各界各層のさまざまな形の友好交流・対話を押し進めるなかで、歴史を前進させる努力をするしかない。本書が少しでも貢献できれば幸いと思っている。
 本書は日中双方のさまざまな人々との交流・対話の成果である。刊行にあたっては花伝社のみなさん、とりわけ平田勝社長と山口侑紀さんにお世話になったことを記して感謝の意を表します。

                               2015年1月5日 村田忠禧

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