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        歴史に学び、手を取り合って発展しよう
                 
 村田 忠禧(むらた ただよし)

[以下は、横浜国立大学名誉教授・村田忠禧先生から頂戴しました。]

1 過去との対話の大切さ

 人類の歩みは過去の出来事の単純な循環、繰り返しではない。しかし「歴史に学ぶこと」の大切さが強調される。それはなぜか。
 過去の積み重ねのうえに今日があり、過去からどう変化、発展しているのかを知らないと、現状を把握できないだけでなく、将来を見通すこともできない。過去と対話しつつ現在を生きていく、という視点が非常に重要である。過去に学ぶことは、現在を知り、未来を切り開くためである。

2 具体的事実としての尖閣諸島領有問題

 2012年9月の日本政府の尖閣「国有化」以来、政府間交流は実質的に「断絶」状態である。日本政府の尖閣諸島についての立場を外務省のホームページから知ることができる。
「尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり、現に我が国はこれを有効に支配している。尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない。」
 一方、中国政府外交部も昨年9月10日に声明を出しており、その主な部分は以下の通りである。日本語訳全文を中国大使館のホームページ等から見ることができる。
「日本政府のいわゆる『島購入』は完全に不法、無効なもので、日本が中国領土を侵略した歴史的事実をいささかも変えられず、釣魚島とその付属島嶼に対する中国の領土主権をいささかも変えられない。(中略)中国側は日本側が中国の領土主権を損なう一切の行為を直ちにやめ、百パーセント双方の共通認識と了解事項に立ち返り、交渉によって係争を解決する道に戻るよう強く促すものである。」
 中国側は交渉による解決を求めていることに注意すべきである。しかしこの無人島の領有権問題が原因で日中関係は現在、膠着状態に陥っている。
 それでは双方の主張の根拠は何に基づくのだろうか。われわれには事実に基づいた客観的、科学的な判断が求められている。
 沖縄県尖閣諸島と報道されるが、そもそも沖縄県は1879年の「琉球処分」によって成立したものであり、その前は琉球藩、さらに徳川幕藩体制崩壊前は琉球国であり、日本とは別の「異国」であった。琉球国は中国(明・清)との間は500年近くにも及ぶ宗主国・藩属国の関係にあったので、両者の関係を断絶させようとする動きに沖縄の人々は抵抗した。しかし現実には明治政権のもとで沖縄の近代化が次第に進められていった。
 以下に日本政府が尖閣諸島を領有するにいたった経緯の概略を紹介する。詳細は拙著『日中領土問題の起源 公文書が語る不都合な真実』(花伝社)で明らかにしているので、関心のある方はぜひそちらで確認していただきたい。

3 1885年に領有しようとしたが中止した

 元彦根藩士の西村捨三は1883年12月に第四代沖縄県令を命じられる。彼は東京に移住させられていた元琉球国王・尚泰の一時帰琉の実現、学校教育の振興、医療体制の整備、先島諸島と沖縄本島との航路開設など、沖縄の基盤整備、近代化に尽力すると同時に、琉球国復活を唱える脱清人の取締りを強化した。
 1885年8月には山県有朋内務卿から沖縄本島の東方に位置する無人島・大東島の調査、国標建設を命じられると、西村県令は直ちに実行した。
 山県内務卿は続いて、沖縄と清国福州との間にある無人島(魚釣島、久場島、久米赤島)への調査と国標建設を内命するが、西村県令はこれらの島々が清国冊封使の記録『中山伝信録』にも記載されており、清国と関わりがある島であるため、大東島のように調査と同時に国標を建設することにたいする懸念を表明する(9月22日)。
 井上馨外務卿も9月6日の上海の華字紙『申報』に、日本人が台湾東北辺の島を占拠しようとする動きあり、と警告を発する記事が掲載された情報を得ており、清国政府を刺激することはしないよう、国標建設に前のめりな山県内務卿に注意を促す(10月21日)。
 沖縄県は傭船・出雲丸で魚釣島の調査を行うが(10月30日のおよそ6時間)、大東島の場合と異なって国標は建てなかった。久場島、久米赤島は調査すらしなかった。上京中の西村県令の代理として、船長および県職員の調査報告書を受けた森長義・県大書記官は、西村県令が9月22日に表明した懸念を否定する上申を、西村県令名義で書く(11月5日)。
 上京中の西村県令のもとに森大書記官の書いた上申は届くが、西村はそれを読み、彼の考えとはまったく異なるため、破棄するとともに、井上外務卿、山県内務卿に書簡を発して、政府としての明確な指示を求める(11月24日)。
 山県内務卿は井上外務卿の同意を得て「国標建設の儀は清国に交渉し、彼是(かれこれ)都合も有之候に付、目下見合せ候方、可然と相考候」と、国標建設見合わせの結論を太政大臣に提出する(12月5日)。
 つまり1885年12月5日に西村県令の訴えは受け入れられ、魚釣島等への国標建設は中止となった。

4 日清戦争の勝利に乗じて領有

 11月5日の西村県令名義の文書は東京では破棄されたが、副本が那覇に残っていた。そのため後に丸岡知事が90年1月13日に、次の奈良原知事は93年11月2日に、85年12月5日の国標建設見合せの指示を見直すよう上申する。だが指示を見直すための新たな根拠がないので、内務省担当者は標杭建設の訴えを棚上げせざるを得なかった。
 しかし94年12月15日になると、内務省は前年の沖縄県知事の上申を取り上げ「其当時と今日とは大に事情を異に致候に付、標杭建設の義、御聞届の積りを以て、左案相伺候」との処理案を出す。「其当時」とは1885年12月、「今日」とは1894年12月である。
 1894年春の朝鮮「東学党」の乱に端を発した朝鮮支配をめぐる日本と清国との争いから、7月下旬には日清戦争が始まる。日本は連戦連勝し、9月中旬には日本の勝利は確実となっていた。
 清国政府は11月段階にアメリカ公使館経由で「朝鮮の独立を承認し、および償金を弁償するの二件」を条件とする講和を申し入れるが、日本はそれを無視して戦果の拡大させていく。12月4日、伊藤博文首相は「威海衛を衝き、台湾を略すべき方略」を出し、台湾を奪取することが日本の既定方針となっていた。
 すでに戦争に大勝しており、清国への配慮はもはや必要ない。野村靖内務大臣は1885年12月の指示の見直しについて陸奥宗光外務大臣に問い合わせる。「明治18年中、貴省と御協議の末、指令及びたる次第も有之候得共、其当時と今日とは事情も相異候に付、別紙閣議提出の見込に有之候条、一応及御協議候也」(12月27日)。陸奥外務大臣も「本省に於ては別段異議無之候」(翌年1月11日)と回答する。
 当時の日本の支配者たちにとっては台湾、澎湖諸島を取ることのほうがはるかに重要で、久場島、魚釣島と称する無人島のことなどもはや眼中になかったのである。

5 内外に公表することなしの「領有」

 「久場島、魚釣島と称する無人島へ向け、近来漁業等を試むる者有之為め、取締を要するに付ては、同島の儀は沖縄県の所轄と認むるを以て、標杭建設の儀、仝県知事上申の通許可すべしとの件は、別に差支も無之に付、請議の通にて然るべし」として閣議決定される(1月21日)。
 閣議決定で標杭建設が許可されたが、沖縄県は実際には標杭を建設しなかった。領有権問題発生後の1969年5月9日に石垣市が急遽、標識を設置したのである。
 1896年3月5日の勅令第13号「沖縄県郡編制に関する件」は「那覇、首里両区の区域を除く外、沖縄県を画して左の五郡とす」とし、大東島は島尻郡所属とされたが、八重山郡に属するのは「八重山諸島」のみ。前年1月に沖縄県所轄としたはずの「久場島、魚釣島」には言及がない。『官報』にも領土編入の公表がない。すなわち「久場島、魚釣島」の領土編入は、対外的にも対内的にも公表していない。日清戦争の勝利に乗じて密かに編入したのである。まさに「窃取」である。

6 台湾・澎湖諸島の領有と同時進行の行為

 台湾及び澎湖諸島を戦果として清国から奪い取ることは94年12月にすでに日本政府の方針となっていた。陸奥宗光が『蹇蹇録(けんけんろく)』で明らかにしている通り、列強の干渉・介入を防ぐ目的から、条約交渉直前まで日本側は講和条件を公表しなかった。魚釣島等の無人島への標杭建設と台湾、澎湖諸島の清国からの「割譲」は同時進行のできごとであった。
 日本は日清戦争に勝利して台湾・澎湖諸島等を奪い取るとともに、二億両(てーる)という莫大な「賠償金」を手に入れ、軍国主義の道を邁進することになる。

7 ポツダム宣言受諾の持つ意味

 時代は下って1945年8月。「カイロ宣言の条項は履行せらるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」との「ポツダム宣言」を日本政府は受諾して、敗戦・終戦となった。
 1943年12月の「カイロ宣言」は「同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て、日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること、並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り」とある。
 台湾は「下関条約」によって日本が清国から「合法的」に「割譲」させたものである。しかしポツダム宣言に基づき「日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還」することを承諾したので、中国に返還された。そうであるなら魚釣島等の無人島も同様に中国に返還すべき、という論は成り立つ。
 ただし中国にとって台湾問題の解決がその後の最大の課題であり、この無人島に関心を寄せることがなかった。日本も沖縄がアメリカに占領され、沖縄県管轄下にあった尖閣諸島も米軍支配下に置かれてきた。双方とも1968年にECAFEの調査で周辺海域に石油資源埋蔵の可能性が発表されるまで、この島の問題に関心を寄せたことはなかった。

8 メンツより事実を重んじよう

 われわれは自国政府の見解を素直に受け入れてしまうのが常である。しかし政府は「面子(めんつ)」を重んじ、自国の利益に不都合と彼らが判断することを隠蔽したがる習性を持っている。その点は政党、マスコミも同様である。われわれは面子ではなく、事実を重んじよう。大切なのは真実、真理であって、狭い国家利益ではない。
 領土問題のような国家間で見解の対立する問題が発生した場合、対立する見解にも耳を傾け、冷静かつ平和的に問題を解決しようとする精神を常に持つ必要がある。
 歴史「認識」の共有化はそれぞれの受けた教育、社会通念などが異なるので、簡単には実現しない。しかし歴史「事実」の共有化は、事実を事実として受け止める「誠実さ」さえあれば可能である。まずは「事実の共有化」という土台の整備に努力しようではないか。「事実の共有化」が実現すれば「認識の共有化」の可能性も自ずと生まれてくる。
 それには現在の自分の観点を絶対視せず、相手の主張にも耳を傾け、客観的、科学的、多面的、総合的に問題を見ようとする精神を堅持することが必要である。これが「実事求是」(事実に即して真理・真実を探求すること)である。

9 手を取り合って共に発展する道を切り開こう

 小さな無人島の問題が原因で日中間の交流が滞るのはよろしくない。
 日本と中国は「相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」(日中共同声明)と約束して国交を回復した。その時よりすでに41年の歳月が経った。
 国交回復以来、とりわけ中国が改革開放政策に転じて以降、中国は大きく変化し、発展した。今日、地球上で最も活力ある地域はアジアであり、中国はその最大の牽引力となっている。今年6月の習近平・オバマ会談が示すように、中国は政治的にはアメリカと対等に渡り合える存在になった。GDPにおいては日本を抜いて世界第二位。ただし一人当たりでみればまだ発展途上段階。逆にいえばまだ伸びる余地が大きい、ということだ。低賃金労働力による輸出依存型経済から、内需拡大、格差是正、国民生活重視へと産業構造を転換させつつある。そういう隣国は日本の持続的発展にとって歓迎すべきことである。
 林(はやし)兼正さんが6月30日まで59回にわたって『神奈川新聞』「わが人生」に連載した横浜中華街の歴史は興味深い。神奈川の華僑・華人社会はかつて国共対立の影響を受けた時代もあった。しかし対立したままでは中華街の発展はありえない。共に手を取り合って街の発展に力を入れたからこそ、今日の横浜中華街の繁栄が生まれたのである。同時に、単に経済的発展を追求するだけでなく、関帝廟を再建し、媽祖廟を作り、これからは孔子廟、さらには孫文資料館の建設を目指し、中華街を中国文化体験の場にして、日本と中国・台湾との相互理解を推進し、相互の「絆」を強める役割を発揮させようとしている。われわれはこの精神に学び、それぞれの持ち場で、日本と中国との相互理解促進のため、手を取り合って真剣に努力しようではないか。

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