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          河村幸男さんとのお付き合い
                   
     岡田 健嗣

[左は、昨年亡くなられた河村幸男さん(岡田の友人)の遺稿集を編むに当たって、岡田が依頼され、執筆したものです。河村さんは本会には直接関わってはおられませんが、岡田が会の発起を思いつき決断するのに力あったひとであることを、申し述べます。]


 昨年(2012年)7月26日の昼過ぎだったか、学生時代の友人の一人から電話があった。ずっと古い友人であったので、互いにめったに電話など交わさない。本来なら久闊を叙するところだが、先方の声音が少し違っていた。
 「まだ知らないようだね。河村幸男くんが、亡くなったんだ。明日お通夜、明後日告別式だ。」
 後に知ったことだが、7月25日の朝、急性心不全で倒れられて、12時15分に永眠されたとのことであった。
 友人とともに通夜の席に列席した。が、あれほど現実感と乖離した通夜は、これまでになかった。その意味では、現在もその感は継続しているとも言える。ここ暫くは、河村さんとお会いする機会を得られずにいた。そういう時間が、その乖離の大きさでもあるのかもしれない。
 彼とのお付き合いは、私が大学というところへ行ってみようと決心したころから始まっていたとも言える。勿論実際にお会いしたのは、入学してから後のことである。しかし私が大学へ行こうという気持ちになったのには、行けないという現実を受け入れないことに決めたことに始まる。(このことはここに置く。)
 1972年に私は、明治学院大学に何とか潜り込んだ。勿論学生本来の務めに勤しむべく、講座を履修し講堂にせっせと通った。(この辺りにも詳説が必要であるが、ここに置く。)
 2カ月もすると学校の中の配置や仕組みも飲み込めてきて、私の本性がむくむくと顔を擡げてきた。気の緩みと言えば誠にその通りなのだが、各科目の講義が、そろそろ鳥羽口から一歩踏み込み始めていた。つまりわかるものはわかるが、わからないものはわからない、学生の本分はそんなとき、図書館かどこかそんなところに籠って、わかるまで頭を捻らなければいけない、だが私はそうはしなかった。
 河村さんと会ったのはそんなときで、直ぐに意気投合とは行かなかったが、その後話をするようになったところをみると、まずまずの出会いだったと言えるだろう。
 あるサークル活動の部屋を訪れた。そこで何が行われているかを知りたかったのも確かだが、それ以上に、話のできる人がいないか、そんなことを求めて出かけていった。
 河村さんと実際にお会いしたのが何時で、どんな風だったか、これは遙かな時間の彼方のことだというばかりでなく、お客様然としていた当方と、何となく居心地の悪そうな河村さんとのことであったし、私は取り立てて彼に会いにいったわけでもなかったりして、今では誠に茫としたものになってしまっている。そんな風にして何度か足を運んでいるうちに、当方の緊張も緩んで、言葉を交わすようになったのだろう。
 そんな折り、既に彼と、2009年に亡くなられた安田章さんが、やはり昨年鬼籍に入られた吉本隆明氏の『言語にとって美とは何か』の読書会を催しておられて、誘って下さった。その経緯がどういうものだったか失念したが、恐らく軽く、「読み上げるから、出てこいよ」といった調子だったのだろう。読み上げるといっても、手探りでありぶっつけであり、互いに初めてのことであるから、河村さんにも安田さんにも、さぞかしご苦労をおかけしたものと想像できる。
 『言語にとって美とは何か』も「表現転位論」にまで進んでいた。私はそこからの参加となった。
 さらにもう1冊、平行して始めようと話が決まって、サルトルの『想像力の問題』をやってみようということになった。彼らは私のために読み上げてくれながら、私はそれをカセットテープに録音するという作業をし、そして今から見れば誠に稚拙に違いないのだが、それぞれの解釈を述べ合った。
 どういうことをやったのであったか、今思い起こせば『言語にとって美とは何か』の「表現転位論」では、言語表現を表出のレベルと捉えて、さらにその表出のレベルを「自己表出」と「指示表出」の幅と捉えることができるという。そして究極的な「自己表出」とは、意味を超えた言語、言い換えれば表出者本人にすらわからない言語のレベルであり、「指示表出」とは、他者に向かう、その究極は己を消去した言語、伝える機能のみの言語のレベルであるという。これを文学作品に当てはめると、「自己表出」はより書き言葉での表現となって、「文学体」と呼ぶことができ、「指示表出」はより話し言葉での表現となって、「話体」と呼ぶことができるという。
 『想像力の問題』では、サルトルは「想像力」を、1つの幅と捉えている。こんな例を出している。
 正六面体を思い浮かべてみよう。するとすぐさま立方体が目に浮かぶ。立方体であることは間違いない。
 この立方体を、他の方法で目の前に置いてみよう。実際に立方体の物体を目の前に置いて、視覚的に観察するとする。するとこちらに向いている面はよくわかる。正方形らしい面が向いている、その脇や上にも正方形かもしれない面が見えている。しかしそれらは正方形であることを保証しないし、見えていない部分が、立方体の一部を示す形状であるかどうかも保証しない。
 それでは正六面体を観察して得られた知識はどうか?同一の面積の面を6つ有し、同一の長さの縁を12個有し、角を8つ有し、2つの角がなす角度は90度である…。これらは確かに正六面体の特徴である。従って正六面体を説明するにはこれでよい。しかしこれは、視覚で捕らえたときとは別の意味、像ではない。想像とは言えない。
 視覚で捉えた正六面体は、こちらを向いている面の像を結びはするが、それが正六面体であるかを保証しない、また正六面体に関する知識は、正六面体を説明しはするし、像を喚起するかもしれないが像ではない。想像力は、正六面体を思い浮かべれば正六面体が現れ出るし、それは確かに正六面体であって、視覚では死角になっている部分も、正六面体を構成している。このように想像力は、全体を把握しているところは知識に近似しているし、また像を結ぶところは知覚(視覚)に近似しているが、何れとも異なっている、と言っている。つまり「想像力」は、像を結んでいることが最も特徴であって、その像が如何に精緻であるかは、既に得ている知識如何であると言う。
 『言語にとって美とは何か』の「表現転位論」では、「表出」という概念が提出されて、明治以降の文学作品を題材に、言語表現の変遷が論じられていた。だがそれだけではない。読者としての私も、試されていたとも言える。
 少し後に、フランス構造主義の書物が、どしどし翻訳されてきた。中でもロラン・バルトの『零度のエクリチュール』と『テクストの快楽』は、センセーショナルに受け止められていた。私も何とか読むことができたが、力不足なのだろう、著者の手を離れたテクストは、著者の支配を離れて自由に歩き回る。それを読者がどう読むか、批評家かどう批評するかは、著者には関わりないことだ、というほか読めなかった。どうも別段新しいことが言われているようでもない、読者や批評家がどう読むか、確かにそれは任意である。著者には関わりはない、読者や批評家の力が試されるだけだ、私はそう受け止めた。
 むしろずっと後に私は、言葉というのが如何に通じないものか、ということに直面した。現在も同様の経験をしばしばするのだが、そんな折りに、あの「自己表出」と「指示表出」が思い起こされる。発語者の言葉がそのまま他者に受け止められること、それを期待することそのものが錯誤なのだ。むしろ通じないことを前提に発語し、また他者の言葉もそのように受け止める必要がある、こうすれば、間違いも少なくなろう、そのように考えるようになった。
 また「想像力」は思いがけなく私に大きな示唆を与えてくれた。この40年を振り返ると、何かをやらなければならない、決断しなければならない局面に幾度か遭遇した。今思えばそんなとき、その決断に必要とする情報に恵まれたときは案ずるより産むが易しとばかりにうまくことが行くものだが、情報が乏しいときは、誠に悲惨な結末を迎える。そんな折りを振り返ると、うまく行くときは、例外なく頭の中にあるべき像が結ばれている。像が結ばれないときは、これも例外なくうまく行かなかった。その決断も多くの場合迫られてのもので、情報は乏しいのが普通だった。
 河村さんとのお付き合いはこのように40年に及んだ。そのお付き合いも日常を離れてのことだったように思う。
 昨年の7月25日は私も、僧帽弁閉鎖不全の手術に向けて、紹介状を受け取るために病院にいた。私は幸いにして生還できた。どこでこのような差ができたのだろうか、残念でならない。

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