「うか」93  トップページへ
      日中の戦略的関係をどう構築してゆくか −
                尖閣・釣魚島問題を考える視点

                 
 村田 忠禧(むらた ただよし)

[横浜国立大学名誉教授・村田忠禧先生からいただいた原稿を、前号に引き続き、掲載させていただきます。この4月26日に行われました、工学院大学でのご講演のレジュメです。現在の国際関係の課題である「尖閣諸島」についてのお話です。私たちはこのような課題に、ナショナリズムを克服しつつ対処するという、困難なアプローチが求められていることを、歴史から学びました。 (岡田)]


 石原慎太郎東京都知事が4月16日にワシントンで、尖閣諸島を都が購入しようとしている、と発言したことから、政府・マスコミには賛否両論、さまざまな反応が見られる。しかしいずれにも共通しているのは「尖閣諸島は歴史的にも国際法的にも日本の固有の領土」、「中国(台湾も含む)との間には領土問題は存在しない」という立場である。
 はたしてその通りなのだろうか。それでは中国は何を根拠に中国の領土だと主張しているのだろうか。争いごとが発生した場合には必ず双方の意見を聞き、事実を即しているか、道理にかなっているか、公平・公正に判断することが求められる。領土問題はとりわけナショナリズムを煽る手段として利用されやすいので、なおさら冷静かつ客観的な対応が必要なことは言うまでもない。

  琉球国には「尖閣」は含まれていない

 「魚釣(うおつり)島」という名称は中国の「釣魚島」を日本語風に言い換えたもの。「尖閣諸島」というのもイギリス海軍が付けた「Pinnacle Islands」を翻訳したもの。いずれも琉球古来の呼称ではなく、外来の翻訳語である。それだけ琉球には縁遠い存在なのである。なぜならこれらの島々と南西諸島との間には沖縄トラフ(trough舟状海盆)という、ところによっては2000mを越す深い海が存在し、琉球の漁民は容易に行くことができなかった。しかし200m未満の大陸棚の縁に位置しているので、福建や台湾の漁民たちにとっては身近な存在であったし、今でもそうである。かつて福建省福州から冊封使を乗せた船が琉球の那覇に向かうにはこれらの島々を目標にして大陸棚の浅い海が続く西側を北東方向に進み、最後に黒潮の流れる深い海を渡った。それは危険を伴った。黒水溝を無事に渡り切り久米島が見えて来ると、福州から冊封船に伴航してきた琉球船の船員たちは、無事に故郷に帰れる喜びを歌と踊りで表現した。
 琉球国は三省36島からなるとされていた。仙台藩の林子平の『三国通覧図説』の「琉球三省並36島之図」は中国、琉球、日本を色分けしているが、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼は中国の色で描かれている。江戸幕府は「国絵図」という共通した尺度による地図を全国に作らせたが、琉球国を支配した薩摩藩も正保、元禄、天保と3回にわたって琉球国絵図を作って幕府に提出している。林子平のは民間人の地図だが、国絵図はいわば公式地図。われわれは国立公文書館のデジタルアーカイブに公開されている画像ファイルで見ることができる。江戸時代の日本の測量技術の高さに驚くとともに、琉球国の範囲を明確に知ることができ、そこには「尖閣諸島」が含まれていないことに気づく。倭寇討伐や切支丹禁制が敷かれていた時代、国境意識が曖昧であったわけがない。琉球国の西端は久米島、というのは当時の中国、琉球、薩摩の共通の認識であった。中国の施永図が編纂した『武備秘書』巻二「福建防海図」(1621年〜1628年)には「釣魚山」「黄毛山」「赤嶼」が防衛すべき島嶼として記載されている。

  日本は戦勝に乗じてこっそりと手に入れた

 明治維新によりアジアで最初に近代国家の道を歩み出した日本は1879年の「琉球処分」で琉球国を沖縄県として併合した。日ごとに弱体化する清国の実情を知るに及び、さらに触手を朝鮮や台湾へと伸ばしていった。動力船による航海が可能となり、釣魚島などの島を開拓しようとする人々も現れてきた。明治政府は沖縄県令(のちの知事)に福州との間に散在する無人島の調査を命ずるが、県令の西村捨三は『中山伝信録』という文献に記載されている釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と思われるので、清国を刺激することになりはしないか、との懸念を表明した。外務卿(のちの外務大臣)も、日本の行動に警告を発する上海『申報』の記事を紹介し、「不要なコンプリケーション(紛糾)を避け」、とりあえずは調査のみに留めるべき、との意見を提出した。内務卿も最終的にそれに同意し、国標建設の儀は「目下見合わせる」こととした。1885年のことである。その後も沖縄県から明治政府にたいし国標建設の上申が何度か出されるが、政府は取り上げなかった。ところが日清戦争での日本の勝利が確実になった1894年12月になると、もはや清国政府を恐れる必要はない。「其の当時(1885年)と今日とは事情も相異候に付き」として内務大臣は標杭建設を外務大臣に提起し、外務大臣も「別段意義なし」と回答し、翌95年1月に標杭建設の閣議決定を行なった。つまり戦争での勝利に乗じて日本の版図に組み入れたのであり、まさに火事場泥棒である。しかし標杭建設はすぐには行なわれず、周辺海域での石油資源の可能性が指摘された1969年5月に始めて琉球政府が行なった(これらの経緯については井上清『「尖閣」列島−釣魚諸島の史的解明』が詳細に分析している)。

  ポツダム宣言受諾の持つ重み

 1895年4月の下関での日清講和条約締結で、台湾全島及びその附属島嶼、澎湖列島は永遠に日本に「割与」され、台湾は日本国の一部分になった。釣魚島等はこの条約締結前にこっそりと沖縄県八重山郡に編入されていたので、講和条約締結時には取り上げられていない。かねてから魚釣島等の開拓を求めていた民間人(古賀辰四郎)は同島で羽毛の採取やカツオ節工場などの事業を始めることになった。明治30年勅令169号(1896年5月30日)の「煙草専売法施行除外地」には沖縄県管下の島として久場島、魚釣島が記されている。中華民国政府駐長崎総領事も民国9年(1920年)5月20日に、福建省恵安県の漁民31名が尖閣列島で遭難した時に沖縄県石垣島の人々に救助されたことのへ感謝状を出すとともに、日本政府側から請求のあった救護経費を支払っている(山本晧一『日本人が行けない「日本領土」』)。明らかに当時、中華民国政府は尖閣列島を沖縄県に属するものと見なしていた。
 問題は日本が「支那事変」と称して中国への全面的な侵略戦争を行い、さらにはアメリカ等連合国をも敵にした第二次世界大戦に突入し、最終的には日本軍国主義の敗北で幕を閉じたことから始まる。日本が1945年8月に「ポツダム宣言」受諾を連合国側に表明し、戦争は終結した。「ポツダム宣言」第八項には「カイロ宣言の条項は履行されるべき」とある。「カイロ宣言」(1943年11月)には「満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」とある。日清戦争で敗北した中国(清国)は、講和条約にもとづき台湾を日本に永久的に割譲したが、日本がポツダム宣言を受諾したことによって台湾は中国に返還された。この点については日本政府も1972年の日中共同声明においても「ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」ことを明確に表明している。
 では「清国人より盗取したる一切の地域」の中に釣魚島等の島嶼が含まれるのだろうか。清国との戦争での勝利が明確になり「其の当時と今日とは事情も相異候に付き」という判断理由で国標建設を決定したのだから、まさに「清国人より盗取した」ものであることが確認できよう。したがってポツダム宣言受諾をもって釣魚島等の島嶼は中国に返還するべきであった。しかし1895年1月の沖縄県への編入は閣議決定のみでひっそりとなされ、しかも開拓を申し出る民間人に間もなく貸与され、後に払い下げられたため、中国、日本双方ともこの島々を、台湾と同様に中国に返還すべきもの、という認識にいたらなかった。

  アメリカの琉球支配下で

 ポツダム宣言第八項はさらに「日本国の主権は本州、北海道、九州及四国竝に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と規定しており、沖縄はアメリカ軍の支配下に置かれた。尖閣諸島はもともと沖縄県八重山郡に組み入れられていたので、アメリカもそれを引き継いだ。千島列島はソ連の支配下に置かれた。日本との戦争に勝利した中国では、国民党と共産党との内戦が始まり、敗れた国民党政権は台湾に逃げ延び、中国大陸には共産党の指導する中華人民共和国が誕生した。アメリカとソ連との冷戦対立が激化し、日本は1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効により主権国家として再出発するが、ソ連、中華人民共和国を相手としない、アメリカの世界戦略に縛りつけられた偏った「独立」にすぎなかった。
 『人民日報』1953年1月8日の「琉球群島人民のアメリカの占領に反対する闘争」という資料記事には「琉球群島はわが国台湾の東北と日本の九州の西南の海上に散布し、そこには尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、トカラ諸島、大隅諸島という7組の島嶼が含まれる」という記述があり、尖閣諸島は沖縄に属するものと見なしていた。したがって米軍が赤尾嶼、黄尾嶼を射爆演習場として使ってきたことに抗議したこともない。
 エカフェ(ECAFE 国連アジア極東経済委員会)が1968年に周辺海域に膨大な石油資源が埋蔵されている可能性があるとの調査結果を発表してから、尖閣諸島・釣魚島の存在が急にクローズアップされ、日本も中国(台湾も含む)も領有権を主張するようになった。

  日本と中国との最も重要な課題

 おりしもアメリカはベトナムへの侵略戦争の泥沼にはまっており、ソ連との覇権争いを建て直すためにも中華人民共和国との関係改善を模索していた。キッシンジャー大統領特別補佐官が密かに北京を訪れたことが明らかになるや、国連における中国代表権問題は一挙に決着がつき、中華人民共和国が代表権を獲得した。日本国内には中華人民共和国との国交樹立を求める国民運動が澎湃として巻き起こった。沖縄の本土復帰の次は日中国交回復が日本の最重要政治課題である。田中角栄は総理に就任するや、公明党の竹入義勝委員長に北京入りをしてもらい、周恩来総理との会談が実現した。1972年7月28日の2回目の会談で、周恩来は竹入に次のように語った。(竹入メモによる)。
「尖閣列島の問題にもふれる必要はありません。竹入先生も関心が無かったでしょう。私も無かったが、石油の問題で歴史学者が問題にし、日本でも井上清さんが熱心です。この問題は重く見る必要はありません。平和五原則に則って国交回復することに比べると問題になりません」。
 この周恩来の発言のなかで注目すべきは、尖閣・釣魚島の問題についてこれまで「関心がなかった」ことを率直に語っていることである。相手への信頼がなければ言えない。すでにこの時点で公明党を含む日本の議会政党は押し並べて尖閣諸島は日本の領土、という立場を表明していたし、中国政府は中国の領土と表明していた。しかし領土の争いで国交回復の実現を遅らせてはならない、という点で双方は一致しており、そのために何をなすべきかを真剣に話し合おうという精神に溢れている。そこには打算や駆け引きの余地はない。もう一点、注目すべきは歴史学者・井上清の名前をあえてあげていることである。はたして竹入義勝はその後、井上清の著書を読んだのだろうか。
 領土をめぐる主張の違いは日中国交正常化を実現する障害にはならなかった。その後、平和友好条約締結交渉においてもケ小平が領有権問題の棚上げを主張したことは周知の通りである。
「尖閣列島をわれわれは釣魚島と呼ぶ。呼び名からして違う。確かにこの問題については双方に食い違いがある。国交正常化のさい、双方はこれに触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉のさいも同じくこの問題に触れないことで一致した。
 中国人の知恵からして、こういう方法しか考えられない。というのは、この問題に触れると、はっきりいえなくなる。確かに、一部の人はこういう問題を借りて中日関係に水をさしたがっている。だから両国交渉のさいは、この問題を避けるのがいいと思う。こういう問題は一時タナ上げしても構わないと思う。10年タナ上げしても構わない。
 われわれの世代の人間は知恵が足りない。われわれのこの話し合いはまとまらないが、次の世代はわれわれよりもっと知恵があろう。その時はみんなが受け入れられるいい解決方法を見いだせるだろう」。
 ケ小平が1978年に期待を込めて語ったように、われわれ21世紀に生きる人間は彼らよりもっと知恵をもち、よい解決方法を見いだそうと努力しているのだろうか。

  事実の共有化から始めよう

 これまで私が紹介した事実からだけでも、日本にしろ、中国にしろ、政府・政党の見解は自国に都合のよいことだけを取り上げ、不利・不都合な点は触れないで隠していることが分かるであろう。これではお互いに相手への不信感を増大させ、摩擦・対立を激化させるのみならず、自国の進むべき道を誤らせることになる。狭隘なナショナリズムを煽る動きにたいしては冷静な対処が必要であり、客観的、科学的、総合的な視点が必要である。見解の対立する相手の意見・主張にも耳を傾け、冷静かつ平和的に問題を解決しようとする精神は常に求められる。
 それを実現するためにはまず事実の共有化が必要である。自国にとって有利であるか否かという目先の利害に囚われてはいけない。あくまでも事実であるのなら、しっかり受けとめ、それまでの自分の判断基準を再検証し、誤っていたり認識不足の点があることが分かったら修正すればよい。国家の枠に囚われず、あくまでも真実、真理を探究する科学的精神をわれわれは持つべきである。
 それを実現するためには日本と中国の歴史学者が中心になって、この問題に関する歴史事実の共有化の作業を行なうことを提唱したい。さらには共有化された資料を双方の言語に翻訳し、書籍やウェブデータとして広く世界に公開することが必要である。できれば英文化の作業も行なうことが望まれる。事実の共有化が進めば、認識の共有化に向かって前進することが可能となる。地道で時間のかかる作業になるが、このような積み重ねをするなかで、お互いの知識は増大し、問題を平和的、友好的に解決するための知恵が生まれて来るであろう。また翻訳作業のなかで真に相互理解のために奮闘する人材が育っていくことにもなる。いろいろな意味で日本と中国との明るい未来を開拓することになると思われる。
                   2012年4月26日 工学院大学孔子学院での報告原稿

 トップページへ