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 漢点字訳書紹介
           漢字の歴史と[説文解字](1)
 《常用字解》漢点字版の前半の完成が近くなりました。今回は、白川静先生が書き下ろされて、同書の最後部に収録されている「漢字の歴史と[説文解字]」の前半部をご紹介します。

      漢字の歴史と[説文解字]

    1  甲骨文字と金文
 漢字が生まれたのは、今からほぼ3300年前、殷(いん)王朝の武丁(王の名)のころのことであった。当時の殷王朝の都であった河南省の北端に近い安陽市西北部の小屯(しょうとん)の地で、地下深くに多くの殷王の墓室が発見され、その付近から、王室が占いに用いていた亀甲(きっこう)と獣骨が鄭重(ていちょう)に埋められているのが発見された。亀甲は亀の腹の甲、獣骨は獣の骨、主として牛の肩胛骨(けんこうこつ)で、そこには卜(うらな)いに関して字が刻まれている。その文字を甲骨文字という。この甲骨文字が中国における最古の文字であり、漢字の最初の形である。甲骨文字は亀の甲羅や獣骨のような硬いものに、鋭い刃物で刻みつけたものであるから線刻の文字である。この地下に埋まっていた甲骨文字が発見され、その存在が知られるようになったのは1899年である。
 小屯の殷王の墓からは、またすぐれた多数の青銅器が出土した。ことに武丁の妃とされる婦好の墓(1976年発掘)は、他の王墓がほとんど盗掘を受けているにもかかわらず、幸いに盗掘を免かれて、埋葬当時のままの姿で残されていた唯一の墓室である。婦好墓出土の200点余りの青銅器には、「婦好」などの簡単な銘が加えられている。その後次第に青銅器の作器の由来をしるす銘文が鋳込(いこ)まれた器が作られ、殷末の青銅器には、ときに数十字に及ぶ銘文を持つものがある。青銅器に鋳込まれた文字を金文(きんぶん)という。
 紀元前1088年ころの殷周革命(殷王朝から周王朝への交替)ののち、西周期(およそ紀元前1088年〜前770年)に入ると、殷周革命の後の経営に関する記述をもつ銘文もあり、時にはその文がおよそ500字に及ぶこともある。金文は青銅器ができあがってから刻みこまれたものではなく、青銅器を鋳造する過程で、青銅器の鋳型(いがた)に銘文用の鋳型を、主として青銅器の内壁に取りつけて鋳造してできた文字である。したがって、直線を多く使った線刻の甲骨文字とは異なって、柔らかな曲線の文字が多く、その線も肉太(にくぶと)の線である。
 ほとんど文献が残されていない時代のことであるから、これらの甲骨文や金文は、当時の事情を考えることのできる貴重な同時資料である。
 甲骨文に用いられている文字の数はほぼ5000字。そのうち後にまで使用されていて、解読することができる文字の数は、ほぼ2000字である。
 金文に用いられている字数はほぼ4000字。そのうち後にまで使用されていて、解読することができる文字の数は、約2000字である。
 甲骨文字・金文には象形の字が多く、字形の示す意味を理解することができるものが多い。また、文字の形を理解することによって、当時の生活や文化のありかたを考えることができる。
 甲骨文字と金文は、字形や文字の構造の上では大差がなく、漢字の原形を示している古い字として、基本的には同類の字として扱うことができる。漢字の形とその意味との関係を理解し、漢字の成り立ちを知るためには、甲骨文字と金文とを基本の資料としなければならない。
(右図参照)

    2  籀文・古文・篆文
 西周期の次の春秋期(しゅんじゅうき)(紀元前770年〜前403年)になると、諸侯各国が地域的に分裂・割拠して、漢字の統一性が失われ、北方の中山国、東南地方の呉・越のように、独自の様式の字が使用されるようになった。字形も変化し、繁雑な字形と簡略な字形との差も著しくなって、その簡略化した文字は、六国古文(りっこくこぶん)という。
 西方から興って、紀元前221年に6国を統一した秦(しん)は、もとの西周の地に入ってその地を根拠とし、その地の文化を継承した。それで秦の初期の遺品とみられる石鼓文(鼓形の石に刻まれた文。今はおよそ400字余りの文字が残っている)には、西周後期の金文の文字の字様が残されている。秦は天下を統一すると、6国の古文を廃止し、秦の地に残されていた字様の篆文(てんぶん)(小篆ともいう)を統一の文字とした。その字は西周後期の美しい線状の文字、すなわち篆意の強い文字であるので篆文という。申の字の変遷でわかるように、石鼓文にみられるような画数の多い繁体の字を籀文(ちゅうぶん)(大篆ともいう)、6国の簡略化して本来の字形を失ったものを古文という。そして呉・越のように、文字の筆画の先端に鳥や虫の形などを装飾的に加えたものを鳥虫書という。
 後漢の許慎が紀元100年に著した[説文解字(せつもんかいじ)]は、篆文を主とし、参考として籀文・古文の字形を収めている。許慎が[説文解字]を著したとき、甲骨文字や青銅器は出土しておらず、許慎は漢字の最も古い形の甲骨文字と金文を知ることがなかった。篆文・籀文・古文には、たとえば彝(い)の字のように、すでに文字の原形を失っているものが多いのである。

    3  簡冊の字・隷書
 甲骨文字・金文のほかに、今も残されている古い文字資料としては、玉書(ぎょくしょ)、竹簡・木簡の類がある。
 玉書(玉(ぎょく))に書かれた書)には、1965年にもと晋(しん)の都が置かれていた山西省侯馬市から発掘された侯馬盟書(こうばめいしょ)がある。春秋期の大国の1つであった晋が、趙(ちょう)・魏(ぎ)・韓(かん)の3国に分裂しようとする際に、趙の宗族が一致して行動する盟約を、平たくて先が尖った玉に朱で書いたものが数百点発見され、侯馬盟書とよばれている。
 竹簡(文字を書くための竹の札)に書かれたものでは、秦の法令の類を記した睡虎地秦墓(すいこちしんぼ)竹簡とよばれるものが約千箇条ほど出土している。これらのものは筆で竹の札に直接書いたもので、筆記体として簡略な字形で書かれており、同じ字であっても筆画が少しずつ相違するなど、かなり自由に記されている。その文字はだいたい古文の系統に属するものとみてよい。
 木簡(文字を書くための木の札)は竹簡よりも札の幅が広く、また運筆しやすいこともあって、筆意を示しやすく、書としての美的な感覚を求めることができる。それで筆のさばきを生かして、抑えや撥(は)ねの美しさを求める書体が生まれた。篆文は字の構造が複雑で曲線的な字であるが、隷書は直線的であり、かつその線のさばきを主とするもので、後の書法の原点となった。漢・魏の時代(紀元前2世紀〜紀元3世紀)の石刻の書には、この隷書のものが多い。隷書の筆端のさばきをやめて、筆端を収めたものが楷書(かいしょ)、筆さばきを速めたものが行書・草書となる。
 文字の構造を考える上では、甲骨文字・金文を第一とし、籀文・古文を補助資料として考えるのがよい。許慎の[説文解字(せつもんかいじ)]は、篆文を主として字形の解釈を試みたものである。
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